このページに掲載されている「思い出の腕時計エッセイ」はインパクの「楽しい時のパビリオン」に応募していただいたエッセイです。どの作品も腕時計と作者の関係が、時にはうれしく、時にはせつなく、時には悲しく、描かれています。

こどもたちが読むにはちょっとむずかしい漢字が多く、また内容もまだわかりにくいかもしれません。けれど、このエッセイの中で描かれている親と子、あるいは腕時計を贈る人、贈られる人、それぞれの気持ちや、腕時計というものにこめられた思いやメッセージから、こどもたちが、ものを大切にする気持ちや、人と人との関係などを、学んでくれればとてもうれしく思います。

2001年11月の投稿 61作品

(投稿順)

「再会」fuzukiさんのエッセイ
「銀の腕時計」伊藤静見さんのエッセイ
「うしなわれた時間」サリーさんのエッセイ
「ちょっと匂う腕時計救出劇」らんだむさんのエッセイ
「旅の友」ランドルさんのエッセイ
「War is over, John is forever !」ヨシコ・レノンさんのエッセイ
「壊れた腕時計」nora-no-ranoさんのエッセイ
「シルバーの輝き」金やんさんのエッセイ
「最初の腕時計」kakiさんのエッセイ
「歩く時間割」ヤスミンさんのエッセイ
「父と。」運転手さんのエッセイ
「 『連想ゲーム』〜ヒントはあの人」フレデリックさんのエッセイ
「一番長い夜」kazurinさんのエッセイ
「サハラのダイバーズウォッチ」jowsさんのエッセイ
「腕時計の交換」原毅さんのエッセイ
「初めてが「ねじまき」にゃーまさんのエッセイ
「母のねじ巻き腕時計」COOさんのエッセイ
「2000年の場所」カオリさんのエッセイ
「腕時計」山下三郎さんのエッセイ
「短編映画」BOWIEさんのエッセイ
「金色の時計」BOWIEさんのエッセイ
「あの日の時計」みるちゃんさんのエッセイ
「一目惚れの腕時計」さっちさんのエッセイ
「共に人生の一ページを歩んだ腕時計」ともくんのとおちゃんさんのエッセイ
「街のスペシャリスト」サリーナさんのエッセイ
なーこさんのエッセイ
「思い出の腕時計」卵野 気味さんのエッセイ
「思い出の時計」みちまろさんのエッセイ
「祖父の贈り物」ウォンバットさんのエッセイ
「携帯の恐怖」まことさんのエッセイ
「生きた時計」勇午さんのエッセイ
「親父の腕時計」kuropieeさんのエッセイ
「後悔の時計」ひなたさんのエッセイ
「約束の時」aco-chanさんのエッセイ
「最高の贈り物」モモカさんのエッセイ
「祖母からの贈り物」どんぐりさんのエッセイ
「消えた時計」みどりさんのエッセイ
motoさんのエッセイ
「天からの贈り物」harmonyさんのエッセイ
「妻の3か月分」puckさんのエッセイ 11月のベストエッセイ
「出会いのお守り」ayosさんのエッセイ
「遅れない腕時計」しょうたろうさんのエッセイ
「右手のおまじない」あきさんのエッセイ
「手巻きの腕時計」PANICさんのエッセイ
「龍也へ」さなさんのエッセイ
「おばあちゃんの腕時計」ayasaitohさんのエッセイ
「初めての腕時計」Nau2さんのエッセイ
「でたらめ時計」Yuichiさんのエッセイ
「周さんの贈り物」minaさんのエッセイ
「俺のファイブアクタス」HWさんのエッセイ
「新聞配達」まさきさんのエッセイ
「母の想い」ゆみとぼくさんのエッセイ
「大家のおばあさんの掛時計」masarumiさんのエッセイ 11月のベストエッセイ
「私達の腕時計」iceさんのエッセイ
「父と母と・・・」すばるさんのエッセイ
「真っ黒な夜空の下で」陽咲南さんのエッセイ
「僕の宝物」流水さんのエッセイ
「お気に入り」meikoさんのエッセイ
「お待たせ」sam24zさんのエッセイ
keroさんのエッセイ
「妻にもらった腕時計」Youさんのエッセイ



「再会」fuzukiさんのエッセイ

朝ご飯の前のひとときだった。腕まくりした親父の手首に、キラりと光るモノがあった。いやキラりと光って見えたという表現がピッタリの瞬間だった。私が惚れて焦がれて憧れた腕時計の逸品。<セイコー>ファイブ・アクタス。約束どうりに買ってくれていたのだ。小学五年生だった私が、身分不相応なおねだりをしてから半年が過ぎていた。それだけに腰が抜けそうになるぐらいに嬉しい事件となった。その日の夜、親父が思わせぶりな笑顔を浮かべ「いいモノ見せてやろうか。」と、どこからか道具箱を取り出してきた。箱の中には分解された腕時計のムーブメントやパーツでいっぱいだった。今まで見たことのない、ちぃちゃなハンマーやペンチ。これまた赤ちゃんサイズの何種類ものドライバー。親父は時計職人だった頃の話をしてくれた。そして「このネジのひとつひとつをバラして分解修理してから組み立てるんだ。」と言い、ルーペを瞼に挟み真剣な表情で腕時計の中身を覗いた。親父の横顔がまるで偉い博士みたいにカッコ良く見えて頼もしかった。時は思い出を積み重ねながら移ろう。私は十六年前に結婚して職業もいくつか変わった。そうして東京に住んでから二十二年の時が流れた。右往左往してばかりの私が、名ばかりの不惑の年齢となったこの頃、気がかりな事がある。母の一周忌に帰郷して以来、九州の実家へ七年間ほど帰れなかった事だ。親父も八十歳を越えた。近いうちに、あの腕時計の思い出話を肴に、親父と一杯やりたいと考えている。それから、時計修理の道具箱もきっと開けて見よう。ドキドキワクワクと、ときめく事を知ったあの頃の私に、久しぶりに再会したいとも思うのである。


「銀の腕時計」伊藤静見さんのエッセイ

思春期の頃、おじいは私の好敵手だった。本当によく口喧嘩をした。
でも、おじいが嫌いなわけではなかった。おじいの持つこだわりはわりと好きだった。
商売をやっている我が家では、毎月1日には近くのお稲荷さんへお参りに行くのだが、
実はおじいの趣味は競輪で、開催日が時々お稲荷さんへ行く日と一致した。
そうするとおじいは決まって、
「どうも体の調子が悪い。すまんがお前一人で行って来てくれんか。」
と言っておばあを一人で行かせた。出掛けた頃合を見計らって、お湯を湧かし
モカコーヒーをネルドリップで入れる。口止め料なのか私にも入れてくれる。
トーストにバターをぬって食べる。(おじい、朝ご飯食べたのに・・・)
そして楽しそうにブーツを磨く。今どき見ない先のとがったヤツ。白いシャツを着てベストを着る。銀の腕時計をする。手巻き式で渋くてかっこいい。何故か同じようなのを2つ持っている。80年代の頃、アンティークブームでおじいの持ち物は、すべて私の欲しい物だった。
「いいなー、その時計。2つあるんだで1つちょうだいよ。」と言っても
「お前には絶対にやらん。」だった。
冬が来ておじいは風邪をひいた。おじいはわりと虚弱体質で、少し風邪ぎみだと言っては1週間ほど寝込んではいた。だけど、そんなのも少しずつ間隔が狭くなって、久しぶりに座椅子に座ってるとホッとした。ある日、おじいが銀の腕時計を取り出して、
「この時計は手巻き式だで、最後まで回したらだめだ。8分目でやめとかんと。」
「ふーん。」
「2つあるで、お前にやる。」
「なんで、いいよ。大事に出来んしさー。」
「お前、欲しいって言っとったら。」
急に時計をくれると言ったおじいが心細かった。


「うしなわれた時間」サリーさんのエッセイ

あれは、20歳のとき。バイトしたお金を貯めて、友達とはじめていった海外旅行。行き先はハワイだった。
ハワイ代でお金を使い果たしていたので、あまり高価なモノがかえず、ちょっと欲求不満ぎみだった。そんなとき、屋台でみつけた、ひとつの時計をみつけた。ベルトの部分は、いくつもの薔薇をかたどったブレスレット風のつくり。そこにダイヤもどきがちりばめてある。そして文字盤は、アラビア数字。私はとても気にいってしまった。ゴールドの時計、と
いっても金メッキ。少し、ダイヤもどきがとれているところもある。最初から、かなり安い。でもお金がない、私はがんばって値切った。10ドルも安くしてくれてやっと手に入れたのである。
それから、その時計は、どこに行くにも連れて行った。当時つきあっていた彼とのドライブ、学校。いつも一緒だった。時間を確認するために眺めると、嬉しくなった。友達が、彼が、ほめてくれた。嬉しかった。
でも、お別れするときが来てしまった。バイト先のロッカーで、なくなってしまったのだ。私は、探した。張り紙をして、探した。みんな「知らない」と言った。でもある人が、教えてくれた。「あの子が盗んでいたよ」と。
気が弱かった私は、その子に問いつめられなかった。高そうに見えたのかな。頑張って選んだもんな。そう思うと、悲しくなった。そして、そのバイトは、やめてしまった。
それから12年。まだあの時計のことは、忘れられない。どうか、大事にしてて欲しい。私にくれる時間を盗んでまで欲しかった時計なんだから。


「ちょっと匂う腕時計救出劇」らんだむさんのエッセイ

私は、腕時計をトイレに落とした事がある。
原因は革のベルト。金具に通した後にベルトの先を止める、細い輪の部分が切れたのに、そのまま使っていたのがいけなかった。
駅の公衆トイレで和式便器にしゃがんだはずみに、何かに引っかかって腕時計のベルトが外れ、ポチャーンと落ちてしまった。
「あっ!!」と思って立ち上がった瞬間、人の動きを関知してスイッチが入る自動洗浄センサーが作動。「ザーッ、ゴボボ…」
何と、無情にも私のお気に入りの腕時計は流されてしまったのである。パンツを下ろして立ち上がったまま呆然とする私。
しかし、覗き込んでも腕時計の姿はない。しょうがないのでそのまま用を足し、再び水を流した。
最後に未練がましくもう一度便器を覗き込んだところ、細い茶色の先端のような物がちらりと見える。
「ん?これは先程出したものの名残?それとも時計のベルトの先?」
そう、ベルトの色は茶色だったのである。しかし、便器の奥の方なのでハッキリとは見えない。
「まさかとは思うけど念のため…」
奥の掃除用具入れで見つけた柄つきタワシで奥を探ってみるも出てこない。トイレ用トング(パンをはさむようなU字型の道具)をつっこんでもダメ。
最後に、つまった時に使う、柄に大きい吸盤のついた道具でズポズポと便器の水を吸い込んでみた。
すると!流されたはずの腕時計が、奥から水中で踊りながら浮かび上がってきたではないか!トイレの自動洗浄システムは、固体の排泄物は流しても小さな腕時計は流さなかったのである。
また流されないうちに、素早く手をつっこみ腕時計を回収。手洗い所の水でよーく洗った。
時計の針は?と見ると正常に動いている。さすが、日本の時計は丈夫で精密だ。
無事救出した時計をハンカチに包み、すぐに「カメラのさくらや」でベルトを交換してもらった。トイレの事黙っててごめんね、さくらやの店員さん。
今もその腕時計は何の支障もなく、私の為に時を刻み続けている。


「旅の友」ランドルさんのエッセイ

大学に入学したころから時間をみるのは携帯で、という傾向に私もなっていった。腕時計は持っていたが、身に着けない気楽さと学生なのでそれほど時間を気にして生活していないことに気づき全く着けなくなった。しかし大学2年の冬に初めて一人で海外旅行へ行くことが決まった際、腕時計は一人旅の必須アイテムであった。所有していた腕時計はデザイン重視の壊れやすいもので、もちろん携帯電話を持っていく意味はなく、出発まで1週間となったある日、私は使える腕時計を手に入れようと大型電器店へ出かけていった。豊富な商品があり、決めかねて店員さんにお薦めを訊いて選んでもらった数本のうちの1本を私はかなり気に入ったが予算の倍近くするものであった。けれども、みた目は重厚感があり着けてみるといかにも自分はタフだといわんばかりの存在感の強さに私は惹かれ、しかも鉄ハンマーで叩いても壊れることはなく、特殊加工を施した完全防水のものですと店員さんが熱弁を振るって、そのうち私もこれじゃなきゃだめだと思い始めてしまい、達成感と少しの後悔を感じながら分割で購入した。出発当日に初めてその腕時計を身に着け、関西空港からロサンゼァw泣X行きの飛行機で旅立った。いろんな経験をして楽しみ、恐い目にも何度かあって2週間後に帰国した時には、身に着けていると異国に一人でいる不安を抑えてくれるようで寝るときも外さなかったその腕時計にはいくつか傷がつき、思い出を共有した仲間のような存在となっていた。帰国後、普段の生活に戻るとやはり腕時計は身に着けなかったが、その腕時計はキャンプやスキーに行く時には欠かせないものとなり、今では野外へ遊びに行くときだけ会う仲間として定着している。しかし、いつかまた共に海外を旅することがお互いの願いとなっている。


「War is over, John is forever !」ヨシコ・レノンさんのエッセイ

ここに年に一度しか着けない腕時計がある。12月8日、彼の命日にしか着けない。彼とはジョン・レノンのことだ。その腕時計を買ったのは、彼の曲「スターティング・オーバー」がそのCMで使われていたという単純な理由からだった。商戦に乗ってしまったわけだが、あの頃は私もまだ若く、考えたことがすぐ行動になって、走って店に駆け込んだ。一度は値切ってみる私の大阪人気質もすっかり忘れて、「あのジョンの腕時計ちょうだい」と言っていた。激しい思い込みだった。別にジョンが認定したわけでもないのに、それは私にとってのジョン・レノン腕時計になった。今まで色んな腕時計と出会い、別れてきた(なくしたとか壊れた)けれども、この時計だけは(年に一度しか使わないということもあって)出会った時のまま、強く優しい光を放っている。まるでジョンのよう・・・。
ジョンとの出会いはそのままビートルズとの出会いでもあった。私は彼らと同じ時を過ごしてきた。一緒に成長してきた。(とてもラッキーだったと思う。)生活の一部だった。だから、ビートルズが解散した時は、空気が薄くなった。でも、その後のそれぞれのソロ活動で、私は再び息を吹き返した。しかし、ジョンが育児宣言をして活動を休止していた時は、酸欠状態だった。
1980年11月17日「ダブルファンタジー」発売。ジョンの活動再開、のはずだった。しかし、同年12月8日、ジョンは凶弾に倒れ帰らぬ人となった。私たちにサヨナラも言わずに、彼は突然逝ってしまった。私の心も同時に死んだ。
ジョンの命日がまたやって来る。私はこの腕時計を着けて、祈るだろう。世界の平和を。もう争いはイヤだ。人類はそろそろ学んでもいい頃ではないか?人は死ぬ為に生まれてきたのではない。人は生きる為に生まれてきたのだから。


「壊れた腕時計」nora-no-ranoさんのエッセイ

もう二十年以上も前のことだ。
ある日私は友人数人で、その中の一人の故郷の祭りを見に行った。
電車に揺られ、友人の実家に着いてひと休み。食事までご馳走になり、いよいよ祭りに出かける事になった。
ただ歩いて行くだけではおもしろくない。私は友人のバイクを借りて出かけることにした。
歩く友人たちに合わせ、ゆっくり走るつもりだったのだが、久しぶりに乗ったせいか嬉しくなり、ついスピードを出してしまった。そして左カーブを曲がりきれずに転倒。幸いなことに、かるい打撲と二針縫う程度の傷ですんだ。でも左手につけていた腕時計のガラスが割れ、針もなくなっていた。
せっかくアルバイトをして買ったのに・・、どこに行くにも必ずつけていたのに・・。ただ、腕時計がなかったら、手首が骨折していたかもしれない。時間を見るための道具が、思わぬところで守ってくれた。ありがとう。

結局、祭りどころじゃなくなってしまった。私のせいでみんなに迷惑をかけてしまった。みんなは心配してくれたが、私はすまない気持ちと傷の痛さで落ち込んでしまった。そしてそれ以来、怖くてバイクには乗れなくなってしまい、現在に至っている。


「シルバーの輝き」金やんさんのエッセイ

 大学入学の記念に自身二つ目となる腕時計を買ってもらった。当時は、デジタル表示の腕時計の人気に陰りが出始めていて、私は、針とデジタル両用の腕時計を買ってもらった。シルバーに輝く一品でお気に入りだった。
 腕時計を買ってもらってほどなくのことである。大手スーパーの建築現場で1週間のバイトをすることになった。バイトを初めて確か3日目ぐらいであったと思う。バイト終了後、手を洗いに行った。腕時計をはずし、目の前の鏡の前に置いた。手を洗い終え、家へ帰ろうと歩き出した。「あっ」と思った。左腕にあるはずの時計がない。さっきの洗面所に置いてきたのを思い出した。洗面所を離れて数分しか経っていない。急いで戻った。自分が洗った場所で手を洗っている人がいる。しかし、鏡の前にシルバーに輝く腕時計はない。洗っている人をしげしげと見つめた。手を洗い終わって悠々と帰っていく。周りの人々を見渡しながら、自分の腕時計をしている人はいないかを確認した。やはりいない。私はあきらめきれず、しばらくその手洗い所に出たり入ったりとうろうろしていた。結局出てこなかった。
 親に隠しきれず恐る恐る切り出した。あきれていた。悔しいやら情けないやらで寝付けない夜を過ごした。次の日、ひょっとしたら腕時計が置いてあるのではと淡い期待を抱きながらバイトに向かった。やはりない。現実を受け入れざるを得なかった。
 1週間後のバイト終了の日、私はもらったバイト代を握りしめ、ある場所に向かって走った。そして、自分の左腕にシルバーに輝く腕時計をはめた。あの手洗い所で消えたものと全く同じ物を買って。1週間分のバイト代でちょうど買えたのも何か因縁めいている。うれしいというより、安堵感が走った。今はなきあのシルバーに輝く腕時計。しかし、私の心の中では一生途絶えることはなく永遠に輝き続けている。きっとこれからもずっと。


「最初の腕時計」kakiさんのエッセイ

最初に腕時計をつけ始めたのは塾に行きだしてからだと思う。その前にも時々つけることはあったが常につけるようになったのは塾に通いだしてからだ。塾は始まりが遅く終わりも遅く、薄暗い行きがけを急ぐ時や真っ暗な帰り道を心細く家へと戻るときには腕時計の存在が必須だった。
つけていた時計はゲームセンターで取れるような安物だった。けれども時間は規則通りに進み、
少しも狂いは無かった。思い出すのはその頃の私は右腕に時計をつける癖があった事だ。おそらく私は時間をとても重要視していたので右利きの私が右腕に時計をつけると常に時計を見ることができたので右腕につけていたように思う。
気が付くと私は左腕に時計をつけるようになっていた。何時の間にそうなったのかは判らない。
時計をつけてしばらくすると時計のバンドや本体の周りに小さい粒のようなものが出てきだした。最初は特に気にも留めなかったが塾での勉強の時、ふと「取ってみよう。」という思いにかられ、コンパスの針でつついてみた。あっけなく取れたそれは外側こそくすんだ銀色をしていたそれの内側は黄色が少し混じった緑色をしていた。それは錆だった。人一倍汗かきである私のせいで金属製の時計は無惨にも腐ってしまったのだ。腕の時計にすら注意が回らぬ程充実していた私の生活とは反対に。それからは錆がつかぬよう自分なりにメンテナンスを加えていった。しかし、ある雨の日に傘を忘れた私は迂闊にも時計をしたまま塾から家に帰ってしまった。家で時計を見た時にはまだ針が動いていた。だが二、三日後の次の塾の日には時計の針は決して動こうとはしてくれなかった。
塾に行かなくなってもう随分になる。志望していた高校にも合格し、新しく防水機能のあるそれなりの値段のそれなりの時計を腕にはめ、使っている。けれども私の部屋の壁には今も最初の時計として止まった腕時計がピクリとも動かぬまま飾られている。


「歩く時間割」ヤスミンさんのエッセイ

私の父は中央卸売市場で経理の仕事をしていました。お金を統轄するだけあって、父は何事にもきっちりしていました。それは時間にも表れていて、家族の間でも、職場でも父は「歩く時間割」と呼ばれていました。父の体内時計はとても正確で、腕時計は仕事のジャマになるということで着けていませんでした。但し、お洒落のアイテムとして幾つか所持はしていました。
毎朝午前三時起き。勿論、目覚まし時計は必要なし。自然とパッと目が覚めて、脳も起きると言っておりました。まだ寝ている家族を起こさないように、スーッと布団を抜け出して、いつの間にか家を出ていたという毎日。それは寝苦しい熱帯夜の夏の日も、雪の降る厳しい冬の日も変わりませんでした。帰宅もほぼ定刻通り。翌朝のこともあって、どこかへ寄り道する、ということもほとんどありませんでした。お風呂も、就寝もいつも同じ時間。我父ながら、本当に退屈な男と思っていました。何が楽しくて生きているんだろうと、特に反抗期の時は半ば馬鹿にしていました。それは父の性質・生き方なのだとずっと思っていました。しかし、それは違うということが父の定年退職後に分かりました。
退職後の父はそれまでの父と180度も変わって、すっかり自由人となってしまいました。朝はいつ起きて来るとも分からず、外出は行き先も帰宅時間も告げない。実は、それが父の本来の姿だったのかもしれません。7人家族を父一人で支えていた為、父は長年自分を厳しく律していたのです。私は少し値が張ったけれども、父に感謝の意を込めて腕時計をプレゼントしました。逆説的かもしれませんが、もう時間に縛られることがないからこそ腕時計が必要と思ったからでした。父は腕時計を受け取ると「すまんのぉ」と言いました。私の方こそ「ごめんなさい」と言いたかったです。


「父と。」運転手さんのエッセイ

私の腕に、滑らかに時を刻む文字盤が光る。その時計の名は「グランドセイコーハイビート」。30年以上も前に、父に贈ったはじめてのプレゼント、なのに傷ひとつない。どれほど大切にされたかが、曇りのないその輝きから伺える。
1970年、大阪は万博に沸いていた。当時私は22才。定職にはつかず、ベンツのバスが運転できるから、そんな軽い気持ちでドイツ館のスタッフ送迎バスの運転手に応募した。万博景気とでも言うのか、大卒の初任給が3万円の時代に、私は8万円もの月収に恵まれた。普通に社会人をやっておれば、初給料で親孝行のひとつもするのだろう。4年もの浪人生活を黙って見過ごしてくれた寛大な両親に、ふと時計を贈りたくなったのだ。
父は、鹿児島から集団就職で大阪に出て来て、印刷工として一途に働いた。私は末っ子のおとうちゃんっ子で、父の帰宅する時刻を見計らって駅に迎えに行くのが日課であった。改札口の大きな時計の針を見つめながら、父の到着を待ち焦がれたものだ。
あとになって気付いたことだが、父の時計は、日付けは合っているのだが、曜日はいつも違っていた。じつは、洒落ているからと私が英字盤を選んだせいなのだ。父は英語が読めなかった。このことはいまも悔やまれてならない。
その父も、2年前に郷里の鹿児島で他界。父の部屋を整理していると、すでに亡くなっていた母に贈った時計、たしかクィーンセイコーと呼ばれていたかと思うが、私が贈ったふたつの時計が、仲良く現れた。『これは貴男が持っていなさい』姉がふたつとも渡してくれた。母の形見だけは自分で持っていたかっただろうに。母の時計は細君に、再び贈ることにした。そして、父の時計は私の腕に。腕時計はしない主義を返上して、いま私は、父との思い出の時をいとおしく過ごしている。


「 『連想ゲーム』〜ヒントはあの人」フレデリックさんのエッセイ

高校の頃、先輩に「腕時計、と聞いてどんなことを連想する?」と聞かれたことがあった。何かのアンケートかと思った私は何も考えず「僕、腕時計にはちょっとこだわりがあるんですよ。見ると、落ち着くっていうか、ホッとするっていうか、そういうのでないと…」と話した。すると、先輩はニヤニヤしながら「それ、恋人に対する(理想の)思いなんだよ」と、教えてくれた。答えが答えだけに妙に恥ずかしく「じゃあ、先輩は?」。答えは「ないとさびしいけどあるとうっとうしい」、だった。思わず吹き出してしまったが、妙に納得してしまったのを覚えている。
それ以後、時計を選ぶ時は、つい真剣になってしまう。そうして選んだ時計はというと、着けているとホッとするという点で、どれも共通していた。ということは、あの日以来、理想の恋人像が、今も変わっていないということになる…。
街はそろそろクリスマスシーズン。イルミネーションで飾られた街を歩きながら腕時計を見る。今年こそは、理想の恋人にめぐり逢いたいなぁ…、淡い期待をしてしまう今日この頃である。


「一番長い夜」kazurinさんのエッセイ

「これ貸してあげる。明日の朝まで時間との闘いやからね」と先輩が、手術を終えたばかりの私の手首に巻つけてくれた大きな男物の腕時計。麻酔でまだ下半身がしびれたままの私には先輩の言葉の意味が理解できなかった。
手術は午後から、夕方には病室に戻りお見舞いに来てくれた友人や先輩、家族と笑いながら過ごせたのは消灯時間まで。最後に母が帰り部屋の中が暗くなると手術した足が疼きだした。麻酔が切れたのだ。右足をギブスで固定してあるので寝返りもうてない。足の痛みはどんどんと深みに入るようにきつくなっていった。「痛み止めは一晩に1回だけ」と釘をさされていたが消灯後すぐにナースボタンを押していた。注射のおかげでうつらうつらするとまた痛みが襲ってくる。朝だと思っていたのに腕時計を見ると夜中の12時。まだ2時間しかたっていなかった。この痛みで朝まで過ごすのかと思うと絶望的な気持ちになった。先輩が時間との闘いといった意味がその時やっと理解できた。
痛みをまぎらわすように手首に巻きつけた腕時計を外したり着けたり、何度見ても憎らしいほど時計は進まない。痛みで発狂するのではないかと思い出した頃カーテンの外が明るくなりだし、ようやく痛みが薄らいでいった。
朝になるのがこれほど待ち遠しく感じられたことは今だかってない。1番長い長い夜だった。
スキーで骨折したもう30年も前のことだが薄暗い病室で見たあの腕時計の文字盤と先輩の言葉、そして足の痛みは忘れることはできない。


「サハラのダイバーズウォッチ」jowsさんのエッセイ

「カマラー!」
ムッシュの太い声が横から聞こえる。フランス語で仲間という意味らしい。いつの間にか仲間にされてしまった。ムッシュとは私が彼につけたあだ名だが、私を呼んだのは、例によって私の腕にはめた時計を売れという話である。サハラ砂漠のど真ん中、マリ共和国のガオからアルジェリアのレガンまで、1200キロのトラックキャラバンは遅々として進まなかった。2台のおんぼろトラックに総勢10名が分乗していたが、旅行者は私ひとり。トラックのオーナーであるムッシュはアルジェリア人。助手席の私と運転手のモハメドの間に座って運転の指図をしていた。そして必ず一日に一度は時計を売れと言ってくるのである。その時私がつけていたのはSEIKOの黒いダイバーズウォッチ。文字盤もベゼルも真っ黒で分厚くごつい時計だった。サハラを旅するなら頑丈な時計でないといけないと、出発前に2万8000円ほどで買ったものだ。いざと言う時は売れるしとも思っていた。ムッシュによるとアルジェで今一番高価で売れるのが『セイコーファイブアクタス』だと言う。
「う〜ん、俺が小学生くらいの時のだなあ」
と思いながらムッシュの時計を見ると華奢なお洒落なやつだ。おそらくフランス製だろう。このサハラでは相当の金持ちと言っていい。しかし気の遠くなるようなのんびりしたサハラの生活に、はたして時計が必要なのだろうか。しかし彼は相当ご執心で、旅の終わりの頃にはついに金額を出してきた。
「200ディナールで売れ」とムッシュ。
「200フランなら売ってやる」と私。
ムッシュは頭を抱えてついにあきらめた。フランとディナールでは桁が違う。
結局私は時計を手離さず日本へ帰った。あれから20年、ムッシュは今でも砂漠を走っているのだろうか。しかしあの黒いダイバーズウォッチはどこに行ってしまったんだろう。サハラの砂がバンドにしみついてたまま。


「腕時計の交換」原毅さんのエッセイ

隣のドクターは外科医で、病院の副院長だった。ボリビア人にしては珍しく休日も出勤することが多かった。
ある土曜日,子供たちが裏庭で捕まえた40センチ位の野トカゲと遊んでいると、小4の息子の人差し指に食いついて離れない。大騒ぎになっているところに,ドクターが帰ってきた。即座に,半分とれかけた爪を上手く処置してくれた。トカゲが大人しいので指先で鼻面をつついたら噛み付かれたという息子の話を聞いて,彼は腹を抱えて笑った。
ドクターは病院で難しい立場にあった。中央政府の命でサンタクルス市の国立病院改革のために赴任したものの,地元の医師達が非協力で改革は難渋していた。背景には複雑なボリビアの国情がある。スペイン系の血が色濃く残っているサンタクルスは風俗の全く違う圧倒的多数を占める先住民系のイニシアチブを毛嫌いしていた。先住民系のドクターもこの目に見えない壁に悩まされていたのである。
 私の帰国が急に決り、彼も転出することになったので、一盃飲む機会を設けた。酔いがまわり息子のトカゲ事件や我が家のパーティ,夫婦喧嘩を真似るオオムの話など座が盛り上がってきたところで,ドクターが真剣な顔で云った。
「自分は病院改革のため懸命に取組んできた。皆も認めていたが,感情的な反発で改革は停滞した。この2年間で個人的に家族で招かれたのは貴方達がはじめてだ。あの時はすべてが最悪の状態だったので,本当に嬉しかった」。そして、思いついたように自分の腕時計をはずしながら「これは大学卒業の記念の時計だ。思い出のために是非受け取って欲しい」といって,セイコーの時計を私の手に渡した。一瞬迷ったが、成り行き上「それではお互いの時計を交換しよう」と私も自分のを手渡した。私の時計はバンドは安物とはいえチソットのそれなりの品物だったのに彼は一瞥もせず、無造作にポケットに入れた。
あれから30年、ドクターと外国製時計は遠い彼方の記憶になった。


「初めてが「ねじまき」にゃーまさんのエッセイ

家の改築工事が行われたのは、私が中学三年の頃だった。 仮住まいに引っ越すため、かつてないほどの大掃除をしていた時、私のベビー用品が入っていたというタンスに整理の手が及んだ。 三段重ねのタンスの上段にはおしゃぶり、ガラガラ、肌触りのよいタオル。 中段にレースのお洋服、ウサギの耳がついたつなぎ、バーバリーのダッフルコート。 下段にはおもちゃがゴチャゴチャと詰まっていた。 当時十五才の私が興味を持ったのは、当然下段の『オモチャ箱』だった。 文字積み木やリカちゃん人形の隙間に、私の視線は凝集された。 トムとジェリーのねじまき時計。 スケルトンの文字盤で、トムとジェリーが追いかけっこをしている。 バンドは透明の…今でこそスウォッチなんかが普及して当たり前みたいになってしまったけれどすりガラスのような濁った透明のビニールバンドだった。 学校ではデジタルG−ショックが全盛の時。 私はあえて、そのトムとジェリーを付けて行った。
その日は朝から、「今日、時計違うんじゃない?」から始まって「飽きたらちょうだいよ」で終った。
あまりの評判に、私は母に聞いた。
「このアナログ時計、私の?」
母はビックリして私の手首を見詰めた。
「これはあんたのお宮参りの時にプレゼントしたんだよ。 ねじまきだからこうやって今でも使えると思ったから取っておいたけど、それよりよくも、腕にはまったねぇ」
私はニッコリ笑った。
…だって、時計を見つけて虜になった瞬間、千枚通しで自分にピッタリの穴をあけたんだもの…。


「母のねじ巻き腕時計」COOさんのエッセイ

母は一つしか腕時計を持っていない。母親からもらってもので、ねじ巻き式のものだ。自動ねじ巻き機能がついていて、腕を振るだけでねじが巻ける。子供の私はそれを右手にはめ、何回も振っては遊んだものだった。母は大切なその時計を簡単に私に貸してくれたのだから、思えば勇気があった行為だった。
母の時計は決して派手ではない。むしろ質素である。装飾はほとんど無し。周囲を金メッキされただけ。あとになってそれこそ高級品の印だと知るのだが、子供の私にはなんの飾りもない、おもしろみのない時計にしかみえなかった。
母は洗い物をする以外は、ずっとこの時計をはめていた。それだけ愛着のある証拠だろう。どうして時計を一日中はめているの、と子供ながらに尋ねると、母はこう答えた。「大切な時計だから、ずっと肌身離さずつけていたいの。お前も大きくなったらきっとこの気持ちがわかると思うよ」。あれから20年以上たったが、いまだにその気持ちはわからないままだ。私は時計を一日中つけることなどしない。むしろつけっぱなしだと煩わしいと感じてしまう。母が一日中つけているのはいまも信じられない。
いまも母の所有する時計はこれ一つである。一回壊れたこともあったが、修理して直したそうだ。修理するより買った方が安いですよ、と勧められても、かたくなに拒んだらしい。結局高い代金を支払って、母の時計は復活した。いい時計はいくらでもある。デザインも年々いいものが登場する。買い換えるのはいまの時代なら簡単だ。しかし一番いいのはいいものを手に入れて、それを長く所有することだ。所有すればするほど愛着が出てくる。時間がたてば味が出る。頑固に一つ時計を使い続ける母をみると、そんな教えを感じないではいられなくなるから不思議だ。私も母と同じく、いま一つ時計をずっと使い続けている。


「2000年の場所」カオリさんのエッセイ

 _みつからないネジ、埋めた?
 あなたらしい持ち物、なおしてくれるところみつかった、
 よね。
 _ヨコハマになら、あるかも。
 きっと、1人で行ってしまった。
 ここに、私をおいたまま。
 _あの日、左袖の下ばかり、気にしていた。
 同じ、だね。14℃もあった冬なのに、時々、どこかが冷たくなった。

 _あなたの手首の存在感、がみたい。
 そうして、1年、過ごした。ここに、あなたはいるのに、
 肉眼で、追えないな。
 _ストイックに時をしゃべる、でしょ。
 あなたと同じ、だね。向かいたい先はしぼれていても、
 1回は、自分をプレスする。
 _11月の、ある1:45AM。
 あなたと、2次元で刻まれる。3次元へ、これくらいの1人が、必要だね。
 _2001、のあの日がくる頃、
 あなたの1部も、ここにくる。
 あの瑠璃瑠璃とした限りある空に、3本の重なりを4つの瞳に、おさめよう。


「腕時計」山下三郎さんのエッセイ

俺は「腕時計」があまり好きではない。
この言い方では誤解を招くかもしれないので、もうすこし正確に表現すると、「腕時計をする」ことが嫌いなのだ。腕時計をしているとなんとなく手首の自由な動きを封じられているような感覚を覚えるし、何よりも嫌なのは、金属製の腕時計をした瞬間に手首の皮膚を通して伝わるあの冷ややかな感触だ。だから、俺はこれまでの人生において、数えるほどしか腕時計をしたことがない。
そんな俺が、この度、「腕時計」を購入することになった。友である女性とクリスマスプレゼントの交換をする約束をしたのだ。「俺はネクタイが欲しい。」と主張すると、「私は腕時計が欲しい。」と彼女がきりかえし、話し合いは成立した。
 実を言うと、俺はこの「友である女性」のことが大好きなのである。できることならば、生涯を通した友ありたいものだと願っている。そういう相手にプレゼントする「腕時計」を俺はこの1ヵ月のうちに探さなくてはならない。さて、彼女を喜ばすことができるのは、どの「腕時計」であるのか。一生の思い出になるような「腕時計」を探し当てたいものだ。


「短編映画」BOWIEさんのエッセイ

時計を見る。
また時間がずれている。
ねじを回す。
あてにならない目覚まし時計。
目覚まし時計を起こす僕。

時計を見る
暗い路地で街灯が照らす
まだ4時半だ。
気がつけば冬がちかずく
腕時計をコートで隠した。

時計を見る
いまはもう動かない
大きな古時計
老人が寄りかかった
100年目だろうか

時計は見る
全ての人を
時計は寄り添う
50年も100年も
時計は止まる
老人が寄りかかった古時計も
時計は続く
古い短編映画も回る


「金色の時計」BOWIEさんのエッセイ

小さい頃,父の時計を着けたことがある。
仕事から帰ってきた父はまず時計をはずす。
まだ暖かい時計は小さな自分の腕からスルスルと落ちていく。
「いつかきっとこの時計が着けられる大人になりたい」
父のその時計は今も動いている。

小さい頃,母の時計を着けたことがある。
料理や洗濯で小さな時計は傷だらけ。
「どうして時計を反対に着けるの?」と聞くと,
「傷つくから」と素っ気なく答える。
母のその時計は今も動いている。

小さい頃、時計を買ってもらった。
今はもうすることはない。
その時計は今も動いている。

時計はいつかかならず止まる。
人と同じように。
それでも時間は進み続ける。
新しい時計に命を吹き込むために。

そして時計は動き続ける。


「あの日の時計」みるちゃんさんのエッセイ

12年前、大好きだったあの人に、
「貰い物なんだけど。これ、良かったらあげるね」と、
そっけなく笑って時計をあげました。
ずっと片想いしていた年上の人に、です。
本当は、その時計は貰い物なんかじゃない。
学生だった私が毎日、一生懸命アルバイトして、
選びに選んで、やっとの思いで買った二つのお揃いの時計。
その片方だったんです。
大好きな、あの人とのペアウォッチに憧れて。
あの頃は、そうすれば同じ時間を刻めるような気がしていて。
けれども「すきです」が言えないまま、どうしても自分の分も
つけることができないまま、時間は過ぎてしまいました。
今でも、あの人の横顔、しぐさ、微笑みまで思い出せるのに、
違う人の隣で生きています。そして手首には、あの人とは
ペアじゃない、全く違う時計が、違う時を刻んでいます。
引き出しを開けると、まだ大切に持っている、あの日の時計。
一度もつけたことのない思い出の、内緒の、ペアウォッチ。
あの人は、時計を貰ったことも、私のことも覚えてはいないでしょう。
そして私の時計も、いつの間にか止まってしまっていたけれど、
私の中では、ずっと「あの日の想い」を刻み続けているのです。


「一目惚れの腕時計」さっちさんのエッセイ

ある夏の終わり、バイトの面接の帰りに阿佐ヶ谷の商店街で一目で気に入った腕時計を見つけた。文字盤が大きく、秒針がついていて見やすい。赤い革のベルトがアクセントになっている。「欲しいな〜」
値段は1万5千円だった。決して高い時計ではない。今までの私だったら、すぐに買っていただろう。しかし失業中の身には衝動買いは許されなかった。その頃、それまで付けていたお気に入りの腕時計まで何かの拍子になくすし、『泣きっ面にハチ』という状況だった。
私は、運良くバイトに採用され、毎日時計屋さんの前を通ってバイト先に通った。そして、時計を横目に見ながら、「安くならないかな」と思った。バイト収入はスズメの涙で、家計の足しにしかならない。自分が自由にできるお金は僅かだった。いっそ売れてしまえば諦めがついたのだが、その時計は一向に売れる様子がない。
「欲しいな、欲しいな」と思い続けて、一年近くが過ぎた。阿佐ヶ谷の商店街が急に賑わしくなった。七夕の飾り付けが始まったのだ。都内でも規模の大きな七夕祭だ。アーケードの上から各商店が趣向を凝らした七夕飾りが下がり、一斉に七夕セールが始まった。
そして、時計屋さんのショーウインドウで、思い続けた時計が2割引になっているのを発見した。「この時計を手に入れるのは今しかない!」もう迷わなかった。私は翌日なけなしの小遣いを手に、「ショーウインドウの赤いベルトの時計ください」と時計屋さんに入った。
店主は時計に電池を入れ、私の腕に合うようにベルトの穴を調節しながら、ニコニコ笑って「お客さん、時計、よく覗いてましたよね」と言った。あちゃ〜、ばれていたのか。「この時計に一目惚れしちゃって。初恋が実った気分です」「ありがとう。大切に使ってください」
店主の皺だらけの目尻が下がった。


「共に人生の一ページを歩んだ腕時計」ともくんのとおちゃんさんのエッセイ

中学の入学祝いとして、親戚のおばちゃんから貰った小さな箱。綺麗だがどことなく無機質な雰囲気の包装紙に包まれている。小学生の頃貰ったプレゼントとは趣きの異なる概観であったことを、今でも記憶に留めている。大きな期待に胸を膨らませ、緊張しながらその箱を開けると、そこにはでクォーツと書かれた光沢のある青い文字盤と、シルバーのベルトで構成された本格的な腕時計があった。しかも、ネジを回さなくても良いらしい。確かに幼少の頃からおもちゃの時計にはめぐり合って来たが、本物の腕時計との対面はこれが初めて。しかも自分専用の時計だ。月並みな言葉であるが、まさしく言葉で言い表すことができないほど大きな感動を憶えたことを、今でも昨日の出来事のように感じている。
その時計とは、塾通いや家族との旅行等、様々な場面で私と行動を共にして来た。楽しい時は無論のこと、人生を左右すると言っても過言ではない高校入試の会場でも一緒であった。親や先生でも一緒に過ごすことができない入学試験の会場。しかし腕時計は何の違和感もなく、当たり前のように私の左腕で時を刻んでいる。見知らぬ会場で不安に襲われる私を、ゆっくりと規則正しく時を刻みながら、勇気付けてくれる。それが3年間苦楽を共にして来た私専用の腕時計であった。鉛筆や筆箱等、見なれた存在もあったが、それら音もなく黙っているだけの存在に過ぎない。唯一、動きを見せながら私を励ましてくれたのが腕時計であった。
歳月を経て、私の左手を飾った腕時計も数知れない。勿論、それぞれの時計に愛着を持ち大切に使って来たが、初めての本格的なブルーの腕時計には特別の愛着を感じている。今でも時を刻み続けるこの時計こそ、私と腕時計との出会いの原点である。そして、中学という波乱万丈の時を最も近くから見守ってくれたのが、この時計である。まさに、私の身体の一部分と言って良いほど、大切な存在である。


「街のスペシャリスト」サリーナさんのエッセイ

最近、街のスペシャリストが減っているような気がする。スーパーで「オイスターソースが欲しい」と言うとウスターソースが出てくるし、映画館では近日公開の映画のタイトルさえ言えない。それもアルバイトではなく、いずれも正社員が、である。勿論そういう人ばかりではないが、自分の仕事に惚れ込んでいるとか誇りを持っている人が、少なくなってきているように感じる。時計店も例外ではない。今は亡き祖母から二十歳のお祝いにプレゼントしてもらった腕時計があるのだが、そのニ年後早くも動かなくなってしまった。早速、近所の時計店に持って行ったら、「電池切れです」と言われ新しく入れてもらった。しかし数日後また止まってしまった。面倒になった私はそのままほおって置いた。数年後夫の転勤で、東京に引っ越すことになった。すっかり忘れていた腕時計を取り出して、都会になら直せる人がいるだろうと嬉々として近くの立派な時計店に駆けつけた。「スイス製なので送りになります」だった。が、その時も数日で動かなくなった。何度目かの転勤の後、山口県に引っ越してきた。3度目の正直だった。あらゆる時計を修理する時計屋さんがぁwAると聞きつけたので、その腕時計をだめもとで持って行った。商売人というよりは、職人といった感じの方だった。ガラス張りのラボみたいなところで、私にその時計の説明をしてくれた。難解で一方的な説明だったが、その方の真剣な横顔に私はとても感動した。新しく腕時計を買う時はここで買おうと思った。「形見の品なんです」と言うと、その方は「そうでしょうね」と深く頷かれた。そういう駆け込みが結構あるようだった。ついでにその時計の値段も聞いてみた。驚いた。爪に火を灯すような年金生活者だった祖母が、無理をして買ってくれたんだということが、その時分かった。その腕時計は今も私の左腕にはまっている。それは腕時計の域を越えてジュエリーとなりお守りとなった。


なーこさんのエッセイ

ふと、左腕を回転させる。時計を見るしぐさ。「あ、叉やっちゃった!」舌をペロッと出してしまうのは、最近私が時計をしていないからだ。携帯電話が普及してからというもの、時間を知るのに困らなくなって、腕時計をしない日も多くなっている。私自身は雑貨のたぐいが好きで、特に時計は毎日のファッションにあわせて付け替えるほど好きであるのに、これである。だけど、冬が深まるにつれ、やっぱり時計はかかせないんだなぁ・・と思ってしまうのは、時計をしてるだけで何故かそこから体が温まるような気がするからだ。時を知る安心感もあるだろうし、やっぱりあるべきところにあるべきものがある・・ということなんだと思うのだ。勿論、ファッションの幅を広げるスパイスの一つでもあるし。なので、寒さの一段と厳しくなった11月に入ってからは、私の左腕に時計がまかれることが多くなった。何本かある時計の中で、一番思い入れのある時計は母から譲ってもらったもの。幼い頃から私の憧れであった母が、その華奢なアンティーク風の時計を腕に巻くときの風景を、どれだけドキドキしつつ見ていたか。ああいう時計が似合う女性になりたいとずうっと思っていたが・、実際に「付けさせてぇ」とねだってみたものの自分が腕につけてみると、ふっくらしている手首に華奢なそれは余りにも頼りなげに見えてがっかりしたのであった。ミッキーの両腕が長短針になっている時計が似合う世代なのであった。次に憧れたのは、ちょっと背伸びしたブランドの時計。余りに憧れがあったので、時計屋さんで
アルバイトして、その時計を毎日売るというよりは、眺めている毎日も過ごした。就職して、接客業についた私が始めて接客した海外のお客様との思いでも忘れられない。シンガポールのお医者様であった彼が私の接客を気に入ってくれて、文通が始まったのだ。その彼が贈ってくれたのがゴールドのセイコーの逆輸入の腕時計。もう、やりとりはないものの、やっぱり温かい気持ちと思い出が残る品となった。これはつけるたびに誉められる事もあって、今でも私の腕に度々登場する時計なのだ。そして、30歳になったら購入しようと決めていた時計が、今一番、出番のある時計。本当は待てずに29歳で購入してしまったのだが。なんとなく生きているようでも、
その世代に自分がどんな時計をはめていたのか、どんな時計をはめたいと憧れていたのかを意外にハッキリと覚えているもので、私の場合、時代背景が時計と重なるのだ。他の人も、そうなんだろうかと思いつつ、私は寒い今朝も腕に時計をまいてみる。


「思い出の腕時計」卵野 気味さんのエッセイ

小学2年生と3年生の間の春休みに、はじめて、一人で電車にのり、隣の県に住んでいる祖父母の家に遊びにいくことにした。弟が春には一年生になる。私も一つお姉さんになる。出発前日の夜、両親ががんばれのしるしに、二つのものをプレゼントしてくれた。一つは、乗る電車の名前や停車する駅の名前や時間、私の名前、住所、電話番号、血液型が書いてある厚紙の手作り時刻表で、もう一つがシンデレラが描いてある、バンドが真っ白の革の腕時計。
出発当日、私は着替えとお土産のはいった大きなリュックと財布の入ったポシェットを肩に、手作り時刻表を首から下げ、真っ白の腕時計を左手につけて、でかけた。
はじめて乗った電車で、時刻表と時計をにらめっこしながら、どきどきしていたあのときを思い出すと、自然とやさしい気持ちになり、何故か少し切ない気持ちがする。お姉さんになろうとした、うきうきをした気持ちを思い出す。
一駅一駅、電車が停車するたびに、手作りの時刻表をみた。それから、腕時計の時刻とくらべる。よし、大丈夫と、確認しながら、一駅一駅、通過していった。怖くて仕方なく、知らない大人が、向かいの席に座って、固くなっていたこと。電車の切符の買い方がわからなかったり、乗り換えで泣いてしまったり。それでも、私は、必死にお姉さんになろうとしていた。あの時計は、今、もう、どうしたかわからない。
けれど、私は、あの時計の針が、チクタク、チクタクと時間を刻むのと一緒に、子供の私がお姉さんに成長していったように感じてならないのだ。あの気持ちや、あの時計の秒針がうごく様、それから、時刻表がどうしても、忘れられない。
今では、その大冒険を一緒に過ごしたその時計が、懐かしくてたまらない。
時計は、大切な時間を共に刻むのと同時に、心のアルバムに思い出を刻むものである。


「思い出の時計」みちまろさんのエッセイ

女性からライターをもらったことがある。シンプルな銀のガスライター。その人と別れてしまった後も長く使っていた。
そのライターを別の女性の部屋に行った時に無くしてしまった。2人で行った喫茶店やレストランには電話をかけて確かめた。しかし、該当する忘れ物は見つからなかった。あとは、彼女がいつも使っているタクシー会社だ。その日は、いったん彼女の部屋を訪れた後、タクシーを呼んで移動した。連絡先は彼女の携帯に記憶されている。すぐに分るはずだ。聞こうと思ったが、やめた。
その時の私の腕には”LUCENT”という青い文字盤の時計がしてあった。ライターを無くした日、彼女から送られた。
思い出も、思い出の品も、こうやって移り変わって行くのだろうか。


「祖父の贈り物」ウォンバットさんのエッセイ

「もうそろそろあなたにいいんじゃないかと思って。」母が古い腕時計を差し出した。四角いフェイスの男物としてはちょっと小振りな手巻き時計だった。何度か母がしているのを見たことがあるような気がしたが、それは祖父の時計だった。
実は私はあまりよく祖父を知らない。物心がつく前に亡くなってしまったから。でもとってもわたしをかわいがってくれたという。古いアルバムのなかに祖父と私が写っている写真がある。新しく買ってもらったであろう傘で遊んでいる私の後ろで目を細めている祖父がいる。何気ない一枚の写真なのになぜか心をうつものがある。それから半年もしないうちに祖父は亡くなったという。
「おじいちゃんってどんな人だったの。」母に父である祖父のことを聞いてみた。「それがね。明治の人なのにすごっくダンディだったの。」聞いてみると母がまだ高校生の頃。もちろん車など無い時代。遠足や修学旅行に行くとき自転車に荷物を乗せて必ず母を学校まで送っていってくれたのだという。母は何だか恥ずかしかったという。今の時代ならいざしらずハイカラな祖父はみんなからうらやましさ半分にひやかされたという。話を聞くと田舎から東京に出て苦労をしたという。でもそんな苦労はは見せなかったという。
その、祖父の時計は40年以上たった今でもちゃんと動く。少し遅れるので時計屋さんに持っていったところ、部品を交換することになるかもしれません。と言われた。じゃあいいです。私はそのまま持ち帰った。部品を交換してしまうと祖父の思い出までどこかに行ってしまうような気がした。ちょっとくらいの遅れは全然気にならない。それより祖父の時計をしていると言うだけで何だか暖かい物が流れているような気がした。


「携帯の恐怖」まことさんのエッセイ

私は今、心配でたまらない事がある。
時間を知ることを必要とする現代人の全てが腕時計を必要としなくなるかもしれない。
...「時間を知るのは携帯で十分。」
...「腕時計なんか作業の邪魔になる。」
...「壊れたら修理が大変だし電池を換えるのも面倒臭い。」
私の友人の殆どはこういう意見で腕時計をしない。
今では2人に1人が携帯を持っている有様だ。
近い将来、携帯を全ての人が持つのは夢ではないかもしれない。
つまり腕時計が現代から消える恐れの要素が沢山あるという事だ。
私は今、心配でたまらない。


「生きた時計」勇午さんのエッセイ

17年前に僕がは初めてもらった時計は祖父の形見でした。ぜんまい式の時計です。文字盤は剥げている所もあります。生前祖父は学校の先生をしていました。お葬式のとき僕は「いい先生だったよ。先生の持論は常に現実に立ち向かい逃げない、だった。先生は大切なことを僕に教えてくれたんだ。」と。その当時幼い僕はそんなことは全くわからず、はじめてもらった時計に喜んでいました。
その後小学校、中学、高校に入りました。この過程で苦労は特にありませんでした。中学に入ったとき入学記念ということで新型の多機能の時計を親に買ってもらいました。それをひどく気に入り祖父の形見の時計はほぼ忘れていました。確かそのときぜんまい時計のぜんまいを巻いても針は動かなくなっていたと思います。寿命だと思いました。
高校三年のとき、大学受験が始まりました。勉強嫌い名僕は理想が高い割には全く勉強をせず、当然のごとくすべての学校に落ちました。あえなく浪人になってしまいましたが、友人のやる「ガリ勉」のような勉強はできませんでした。秋風が吹く頃になってもです。机に向かうも集中力が30分と持たないのです。
そんな自分に失望していた日々、僕にも理由はわからないのですがあの「死んだ」時計を見つけたのです。そのときあの言葉を思い出しました。それは生きた言葉のように思われました。そのとき自分に言い聞かせました。「できの悪い自分に失望するのではなく、絶望せずに自分に立ち向かうべきだ」と。それ以降自分なりに努力し、第一志望には落ちるものの併願には合格しました。このとき合否ではない大切なものが自分に加わったと思いました。
この時計は時間を教えるためのものではなかったのです。生きる糧を教えるためのものだったのです。


「親父の腕時計」kuropieeさんのエッセイ

私の左手首には4個目の腕時計が留まっている。初めての腕時計は父が買ってくれた。私が中学1年生のときであった。
私は中学から私学へ通った。どちらかといえばお金持ちの坊ちゃんが多く集まる進学校であった。公立の中学とは異なり、入学の時には高額の入学金やら高価な教材や特殊な学生服など大変なもの入りだったと思う。当時、父は私と妹達3人の子持ちの公務員でありであり、とても裕福とは言えない家庭であった。両親の出費は大変だったろうと子供心に感じていた。
同級生は、みんなぴかぴかの革靴にきらきらの腕時計をしていた。何故だかわからないがそういう学校だった。革靴なんて初めてだから何か急に大人になったような気がした。でも腕時計はしなかった。父も高校まで我慢しろと言った。
そんなある日、突然、父が腕時計を持って帰ってきた。職場に時計屋が来たから買ってきたと言う。多分、息子が不憫でなけなしのお金で買ったのであろう。嬉しかった。だからその腕時計は傷つけないように大切に使った。私が成人して就職してからも暫く使っていたから10年以上も保ったのだろう。以来、自分で稼いだお金で買った3個目の腕時計をしている。父の買ってくれた腕時計は、20年前のときを指したまま今も私の机の引き出しの奥で永遠のときを刻んでいる。
家族の喜ぶことを何かしてやれるということは、男親の最高の役得である。そして子供はそういった親の思いを一番理解しているものなのである。子供も経験した自分が親になって、尚更そのような気持ちがよくわかる。


「後悔の時計」ひなたさんのエッセイ

「じゃあ、いってきまーす!」
お弁当におやつ、遊び道具などがいっぱい詰まったかばんを肩にかけ、玄関から飛び出そうとした私は、母の声にその動きを止めた。
「ちょっと待って。」母は私の左腕に、腕時計を巻いた。黒い皮ベルトに白い文字盤の使い古した時計。「遅くならないうちに帰ってきなさいよ。」
その日は初めての、子供だけの遠足の日だった。電車にも乗る(とはいっても無人駅・単線のローカル鉄道だが)。母は心配だったのだろう、大切にしていた腕時計を私に貸してくれたのだ。初めてつける腕時計。うれしさと同時に、左腕に感じる存在感が私を少し大人の気分にさせてくれた。
ところが、思い存分遊んで、さあ帰ろうという時だった。「ない!」左腕から腕時計が消えていた。そこらじゅうを探し回ったが見つからない。しかしいつまでも友達を突き合わすわけにもいかず、仕方なく帰ってきた。
もちろん、母に叱られた。ものすごく叱られた。怒りをとおり越して泣きそうにも見えるくらい。後で聞くと、あれは祖母から結婚するときに譲り受けたものだという。母もつらいだろうが、私もつらかった。警察にもお願いした。神様にも、サンタクロースにもお願いした。それでも時計は出てこなかった。
しかし、子供というのは薄情なものである。数ヶ月もするとすっかり忘れ、次に思い出したのはそれから2年後、祖母が亡くなったときだった。その時はじめて、祖母に謝っていなかったことに気が付いた。
「おばあちゃん、ごめんなさい。」棺の中の祖母に言ってみても、言葉が返ってくるはずもない。あの時計はどうなったのだろう。誰かに拾われて使ってもらっただろうか。それともどこかで人知れず、時を刻んでいたのだろうか...
この出来事を胸に刻み付け、今では私も親となった。5歳になる息子が持ってくるおもちゃの腕時計を、息子の腕に巻きながら、無意識に出る言葉。
「落とさないでね。」


「約束の時」aco-chanさんのエッセイ

10年前、私は沢山の腕時計を持っていた。
一目で、その金額までもわかるようなブランド時計。華奢で精巧な細工の施された、金無垢のブレスレットのような時計。大粒のダイヤがぐるりと文字盤を囲んだ白金の時計。
豪華な腕時計は、私の鎧だった。ひとつ手に入れるたび、次の時計を思った。もっと高価なものを。次は、誰も持っていないものを…。この時間は永遠に続くのだと思っていた。
僅かな時間でに手に入れた沢山の時計は、僅かな間に、一つずつ、私の元を離れていった。
ブランド時計は、どこかの店の洗面台に置き忘れた。
白金の時計はたまたま入った、バーのマダムに飲んだ勢いであげた。
華奢な金時計は、たち悪い男と別れた日、部屋から消えてなくなった。
かつて親切な男達からねだった腕時計は、知らぬ間に残らず消えていた。
惜しくなかった。その時計たちに、時間を教えてもらったことなど、実はなかったから。
私は腕時計をしなくなった。さりげなく文字盤が、他人に見えるよう、左手首を右手で触れる癖が治った頃、彼と出会った。
デートに必ず遅れる私に、彼は「約束は守らなくちゃいけない」とだけ言った。
「約束」
約束は、破られる為の、破る為のものだと思っていたのに。
私は彼を待つようになった。
その年のクリスマス「もう、待たせなくてすむね」そう言って、彼は私に腕時計をくれた。ステンレスのベルトのついた、大きな文字盤の時計で、私は初めて正確な時間を知る事ができた。今、私は毎朝、大きな文字盤の時計を腕に巻きつける。キッチンで水仕事をしても、オフィスで重い書類を胸に抱えても、この腕時計は忠実に私に時を教えてくれる。
決まった時間に子供を保育園へ送り出す為。
決まった時間に主人と仕事へ出掛ける為。
お客様との打ち合わせに間に合う為。
ステンレスのベルトの腕時計は、私に沢山の約束をくれた。そして、けして永遠ではないかわりに、ゆったりと愛しい時間を刻んでいる。


「最高の贈り物」モモカさんのエッセイ

中学3年生の時、ブランドでも何でもない1500円の時計をつき合っていた彼氏にプレゼントした。当時の自分のお金では高いプレゼントだった。なぜ時計?というと、時計はいつも身に付けるもの。一緒にいれなくても時計をみれば、ふとしたときに私のことを思い出してくれるはずという精一杯の知恵をしぼって考えたプレゼントだった。その考えは9年経った今も変わらず、値段もブランドもこだわるようにこそなったが、大切な人には時計をプレゼントしている。それはただの自己満足であるだけかもしれないが、それでもいいと思っている。誰にだってあると思う。プレゼントしたいものが。私にはそれが最高の贈り物なのだ。そして、値段が高くても安くても、想いがこもっていればそれでいい。そして、大切な人であれば、親でも彼氏でもいいのだ。


「祖母からの贈り物」どんぐりさんのエッセイ

「『今』を大切に」
中学入学のお祝いに添えられていた祖母の字。
品物はセイコーのエメラルドグリーンの腕時計だった。
はめると、ズシッときた。ネジを回さなくても静かに動く針。
その心地良さに、私は大人になったと思った。
普段だったら、プレゼントに大はしゃぎするところだが、
神妙な気持ちで祖母の字を何度も見返したのを覚えている。
そして、「勉強も部活も頑張るぞ」と心に誓ったのだ。
でも、入学してしばらく経つと、そんな決意は何処吹く風で、
私はすぐに遊びほうけ出した。勉強するのは定期テストの前くらい、
部活のバスケットもさぼりぎみだった。
きっと、バチが当たったのだろう。それからしばらくして、
私は祖母からもらった時計を無くしてしまった。
怒られると思うと誰にも言えず、ドキドキしながらこそこそ探しまわった。
いつ何をしていても、落ちつかなかった。
三週間ほどたった日曜日。もうすぐ祖母が上京するという日、とうとう父にみつかった。
「時計をしてないじゃないか。あれはいつも身につけておいた方がいいんだぞ」
私は仕方なく白状した。父はしばらく黙っていたが、出かけるぞと言い、
私をデパートに連れて行った。そして、同じ時計を買ってくれたのだ。
高額だった。久しぶりにはめた時計が手錠のように重く感じられた。
「今の生活、楽しいか?」
帰り際、父にポツリと聞かれた。私の生活ぶりは母から聞いていたに違いない。
私は何も言えなかった。心まで重くなった。父が責めないのも辛かった。
あれから、20年。祖母も父も他界した。
今の私は、ふたりにどのように写っているのだろうか。
何度もつまずき、反省し、また転ぶ。その繰り返しだ。
時計の表面は結構、傷ついた。
でも、中はエメラルドグリーンに輝いている。


「消えた時計」みどりさんのエッセイ

25年前。高校入学のお祝いに腕時計を買ってもらいました。数多くある時計の中から私の選んだ物はワインレッドの文字盤に銀の鎖のシンプルだけれど当時の少女にとっては、とてもオシャレな物でした。
高校生活が始まり、私は一人の男性に恋をしました。彼が友達の先輩と知り、自分の部活動をぬけて友達の部室に遊びに行きました。夏のある日、Yシャツの袖を折っていた彼の左腕に私の目は釘付け。
「これ?男のくせに赤なんておかしい?」と聞く彼に、いいえ、と首を振り、黙って私の時計を見せました。なんと偶然にも私と彼の時計は同じ種類の物だったのです。
時計のおかげかどうか、その日初めて話をしたのに、そのままお付き合いが始まり私の卒業まで続きました。
東京に出てきて初めての夏休み。三ヶ月間電話で話すだけだった彼と会えることだけを楽しみに帰省しました。「明日あえるね」そう一言だけ電話をし、家族の待つ家へ。おみやげを渡し、明日の為に早く寝ようとしたその時です。腕時計がないんです。今まで一度もどこかに置き忘れたことのなかった時計です。新幹線を降りた時には時間の確認もしたのです。”どこに忘れたのだろう”一生懸命考えましたが、はずした覚えはありません。多分駅から家までの途中に落ちているはずです。夜中になっていましたが、必死に探しました。歩いて10分の道を2時間かけて探しましたが見つかりませんでした。
翌日、疲れと悲しさを引きずったまま、彼との待ち合わせの店に着いた私の目は、彼の左腕で止まってしまいました。「俺、時計替えたんだ…」東京と静岡では離れていること。この先何年もたまにしか会えないのはツライこと。「ペアで買ったわけじゃないけどさ。何となく今までの時計使いづらくて」そう話す彼の左腕しか見ることのできない私。
前日時計をなくしたのは、時計が自分から姿を消したのだろうか。20年以上経った今でも、そう思っています。


motoさんのエッセイ

夏の夜、暑さのためか目が覚めた。ぼんやりした頭で時間が知りたくて、私は布団から這い上がり、勉強机から手探りでペンライトをつかんだ。
壁掛け時計に光を当てた。闇の中、暗いオレンジ色に浮かび上がった文字盤。01:10、一時十分。時刻を知ってなんとなく安心したのか、再び眠りについた。
どれくらい眠ったのだろう。また目が覚た。もう一度ペンライトをかざす。01:10。秒針はぴくりとも動かなかった。時計が止まってしまったのだ、そう思い洋服箪笥の一番上の小さな引き出しをそろそろと開ける。母がそこに自分の腕時計をしまっていることを知っていたから。
10:05。手のひらの中の母の時計は確かに十時五分で止まっていた。
世界が止まったのだと思った。私は腕時計を握り締めカーテンをめくって窓を開けた。自分だけの世界だと思った。
翌朝、目を覚ますといつもどおりの朝が訪れていた。食事のとき母に部屋の掛け時計が止まってしまったことを告げた。しかしそれ以上のことは言わなかった。母の大切な腕時計を勝手に見たことが後ろめたくもあったのだ。
これが私の腕時計にまつわる一番古い思い出だ。あの時私は確か小学校の低学年。今思えば夢でも見ていたのかもしれない。しかし母の腕時計をペンライトの光にかざしながら感じたわくわくした気持ちと部屋を漂っていた不思議な空気は忘れられない。
あの時計は今でも母の腕で静かに時を刻んでいる。


「天からの贈り物」harmonyさんのエッセイ

8月の真夜中。急に電話のベルが鳴る。なんだかベルの音が普段よりも暗く感じる。電話機までの距離が長い。電話の向こうには義兄の声。「ふっちゃんが……」そこから先は何も聞かなくても私には分かった。
義兄が家に帰ったときには、姉はもう死んでいたというのだ。急いで姉の家に向かった。そこには冷たくなった姉。泣いても、泣いても止まることない涙があることを、その時初めて知った。
寂しさの中、姉のお葬式を済ませ自宅に戻ると、清涼飲料水会社から娘に腕時計が届いていた。
姉が生前に私の娘のために、缶ジュースのポイントを貯めて、応募してくれていたものだった。
姉のやさしさがいっぱい詰った腕時計。世界に一つしかない私と娘の大切な時計だ。


「妻の3か月分」puckさんのエッセイ

我が家の家族構成は、結婚して2年目の妻と0歳児1人、そして私の3人である。
妻は専業主婦。私1人の収入でつましく生活している。
贅沢はできないが、クリスマスとお互いの誕生日だけはささやかでも祝っている。
毎月私から妻に渡す生活費の中には、自分の1万円、妻5千円の小遣いも含まれている。
結婚して判ったことだが、これだけの小遣いを捻出するのもぎりきりで、妻には申し訳ないという思いでいっぱいだ。
それでも文句を言わない妻には、せめてもの思いで、クリスマス、誕生日には預金通帳から引き出すいわゆる特別勘定にてプレゼントを贈っている。
もちろん、自分へのプレゼントはあきらめているのは言うまでもない。自分がふがいなく、稼ぎがわるいのだから。
そんな折り、私の誕生日に1万5千円を超える腕時計を妻がくれた。
月5千円しかない自分の小遣いをためていたというのだ。
うれしいのと、申し訳ないので涙が出た。いいかえれば妻の給料の3ヶ月分ではないか。
私の場合、妻にプレゼントはあげているとはいっても、結局は通帳から落としていることに変わりはない。自分を恥じた。
少ない金額かもしれないが、小遣いなんだから、自分の好きなものを買えばいいのに。「小遣いが足りなくて、化粧品も買えない。」と言ってくれたほうが、かえって楽だったかもしれない。それなのに、まさか貯めていたなんて。
そういえば、最近妻は化粧品を買わなくなっているのは気づいていた。
女性はいくつになってもきれいでいたいと思っているのは知っている。それを奪ってしまい、切り詰めさせ、前から欲しいと思っていた時計を買わせている。妻にこんなことまでさせて貰ってしまったこの時計。ずっと大事に使っていきたい。そして、一生妻を大事にしたい。


「出会いのお守り」ayosさんのエッセイ

頭でっかちの時計だった。保険証の横に居場所を間違えたかのように置かれていた。
「宇宙船みたい」当時高校生だった私はそう思った。そして、「チョット変わっててかっこいい」そう思って時計を手に取った。ずっしりと重い。手巻きの時計だった。古い時計だ。お父さんのかな?お母さんのかな?私はその日から毎日その時計をつけた。重くて正直邪魔だった。でも、何故か大切に思えた。
母は私の腕を見て「まぁ、懐かしい」。「お母さんの?」と聞くと「今はね」。「使っていい?」そう聞くとにっこり笑った。
大切な保険証の隣においていたわりにはそっけないなぁと不満を覚えたものの、なんとなく大切にしなくてはいけないと思った。この気持ちはどこからきたんだろう…時計から何かオーラが出てる気がしたのは気のせいだろうか。答えは出ないまま時計は私のお供になっていた。
2年後、私が大学に行く時、両親がお守りにと、何枚かの写真を持たせてくれた。その中には両親が大学時代に出会った時の写真もあった。
「あっ・・・」
母の方を抱く父の腕に、その時計があった。すその広いGパンをはいた父に良く似合ってる。照れたように笑う二人は大学時代に恋に落ちていたのだ。
「お母さん、この時計…」
「うん。お父さんが始めてくれたプレゼントがこの時計なのよ」
「そんな大切なものを私がつけていていいの?」
「あなたも、これからの大学生活で、素敵な人に出会えるといいね。それはお守りよ。いってらっしゃい」


「遅れない腕時計」しょうたろうさんのエッセイ

その武骨な腕時計に耳を当てると、夏のシベリアを思い出す。
ロシア極東の街ハバロフスク、私はここからモスクワ行きの特急列車に乗ることになっていた。
ハバロフスクのホテルバーには旨い酒がある。アルメニアコニャックだ。これを調子に乗って、しこたま飲んだのがいけなかったのかも知れない。モスクワ行き特急に乗る当日、なんと二日酔いのため寝過ごしてしまったのだ。
この日、朝9時にフロントに出向き切符を受け取るはずが、今は9時半過ぎ。フロントのお姉さんの顔がみるみる険しくなっていく。しばらくして、ついたての奥から旅行会社のおじさんが飛んできて、何でお前がここにいるんだ!と叫ぶ。叫ぶが早いか、私と私の荷物を引っつかみ彼の自家用車へと突進する。
なにがなんだか分らない私に向かって一言、
「列車を追うぞ!」
とだけ言うと、猛スピードで次の停車駅目差して車をとばしてくれたのだ。
けれど、この努力は実らなかった。前方に大きな河が現れたその時、おじさんがぽそっと、
「あれがお前の乗る列車だ」
と呟く。見れば右窓には悠然と走る我が特急「ロシア号」。
我々は追いかけるのを諦め、ホテルに戻る。
車中でただうなだれている私を見てか、おじさんは何も言わなかった。長い沈黙の後、おじさんがふいに口を開いた。
「俺の時計は絶対に遅れない。どうだお前のと交換しないか」
私はおじさんの武骨なそれに一目惚れした。私の腕時計はそれ程高価なものではなかったので二つ返事でOKした。
果たして、おじさんがしていたネジ巻き式の腕時計は決して遅れることはなかった。何故か?毎日きっちり2分ずつ進むからである。
私はこの腕時計をつけてロシアを旅した。以来、この時計のおかげだろうか、遅れたり、寝過ごしたりということはなかった。


「右手のおまじない」あきさんのエッセイ

逆上がりができない、飛び箱は4段まで。スポーツが大の苦手で、できるだけ避けて静かに暮らしてきた。そんな私が大学入学と同時に入ったのがテニスサークル。ねらいはズバリ、サークル勧誘で出会った3回生の先輩。テニスがすこぶるうまく、女子校から共学に進学した私にとって女の子の扱いもスマートな彼は、さわやかでかっこよく見えた。スポーツができないのは臆病な思いこみ、ちゃんと練習すればうまくなるかも…とテニスを始めたが、私の読みは甘かった。授業をさぼって自分なりに励んだもののいっこうに上達しない。大好きな先輩からひとり残されボレーの特訓を受けるのはうれしくもあり悲しくもあった。左利きの彼はいつもラケットが左手、腕時計は右手。テニスも恋もなかなか追いつかない私は、彼に少しでも近づきたくて彼をまねて右手に腕時計をつけた。私にとって、右手の腕時計は恋とテニスをがんばるためのおまじないだった。
先輩の誕生日。彼のバイト先へ押し掛け、意を決して告白した。好きな人に告白するなんてはじめて。プレゼントは目覚まし時計。朝起きた時と眠る前、1日のはじまりと終わりに彼のそばにいられるように。その後、デートにこじつけるも、理想と現実は少し違っていた。スポーツ万能の彼とからしきダメな私では趣味が違いすぎたのかもしれない。だんだんとフェードアウトしてしまった。
卒業して、風の噂に先輩が結婚したと聞く。相手はサークルの女性陣の中で一番テニスがうまい1つ年上の先輩。テニスがうまい者同士、2人はお似合いだ。私には右手に腕時計をつける習慣が残った。今は、「どうして右手に腕時計をするの?」と聞かれる時にだけ、けなげだった自分と恋の思い出がよみがえる。


「手巻きの腕時計」PANICさんのエッセイ

小学生の頃、ディズニーの腕時計が欲しかった。「小学生に時計はいらない」と、泣いてもわめいても、父は買ってくれなかった。今、あんなに泣きわめいてまで欲しい物が、私にはあるんだろうか、とふと、淋しく思う。
中学生になり、父に買って貰った初めての腕時計は、実用第一のセイコーの手巻き時計。男物のように文字盤が大きく、数字も大きくて見やすくて、何よりも薄いのが気に入っていた。
それが年頃になり、時計もおしゃれな物、可愛い物と変えていったっけ。海での遊びを覚え、ダイバーウオッチも買った。仕事を任され、時間に追われ、高価な時計をはめ、その腕時計をはずしては眠れない、という日々を送ったこともあった。
そして、今、私の腕に収まっているのは、中学の時に買って貰った、あの、手巻きの腕時計。去年、ネジが壊れて持っていった時計屋のおじさんが、びっくりしてた。「これ、3〜40年前のでしょう」って。「部品、あるかなあ」って心配顔だったけど、1ヶ月後、きれいに修理された時計が戻って来た。
この時計をはめていると、同じ時間でも、のんびり過ぎて行くような気がするのはどうしてだろう。
そして毎朝、丁寧にネジを巻きながら、今は亡い父との、いろいろな場面を思い出すのである。


「龍也へ」さなさんのエッセイ

思い出すのは、私がまだ19歳だった頃の事。「可愛い時計だね」私のバイト先に入って来た社員の龍也と交わした言葉。
2ケ月後、私と龍也は手をつないで歩いていた。私の腕には龍也のつけていた時計が、龍也の腕には私のつけていた時計が、二人と一緒に仲良く時を刻み始めた。
何度目かの記念日に、龍也はハートのチェーンの腕時計をプレゼントしてくれた。嬉しくて嬉しくて、龍也と一緒に時を刻み続けた。
春夏秋冬、晴れた日も雨の日も、嬉しい時も悲しい時もずっと。
正確に時を刻んでいた時計が、いつしか時間がずれるようになった頃、二人の時間もいつの間にかずれてきた。私の時間が戻ると龍也の時間がずれ、龍也の時間が戻ると私の時間がずれるようになってしまった。
そして私のもう一つの時計は、ほかの人との時間を刻み始めた。失って初めて気がつくのは、一緒に過ごした時間の重さ。本当に大切だったのは誰か、本当に必要だったのは誰か気が付く。
もう一度一緒に時を刻んで行きたい!そう願った私の思いは、残念ながら叶わなかった。思いを届けることすら出来なかった。
ハートのチェーンの腕時計は、今は時を刻んでいない。私のハートも時を刻めなかった。
あれから5年の月日が流れ、新しい腕時計をつけ始めた私は、ゆっくりと正確に時を刻み始めた。
もう大丈夫。あなたと過ごした時間の重さももうすっかり忘れてしまったよ。これからはまた新しい時間を大切な人と刻んで行きます。でも、この先もし二人の時間がぴったり重なる事があれば、その時は飲みながら語りましょう。お酒の味もしっかりわかるようになったよ。楽しみにしています。


「おばあちゃんの腕時計」ayasaitohさんのエッセイ

「ねえ、みてみて。」
祖母が私に四角い立派な箱を差し出した。
「あけてみて。」
ニコニコしていう祖母に言われるがままに私はその箱を開けた。
「わあ…」
小学生だった私は思わず声をあげた。そこにはキラキラと光る腕時計があった。いつも質素な生活を送っている祖母からは想像もつかないような豪華な腕時計。私はただ驚いてそれを見つめていた。
「TVのプレゼントで当たったの。まさか当たるなんて思わなかったわ。」
祖母は嬉しそうに笑った。そして、不意に私の耳ウチをした。
「これねおばあちゃんが死んだらあなたにあげるからね。」
また驚いた。祖母の口からそんな言葉を聞くなんて思っていなかったからだ。思わず私は首を横に振った。
「おばあちゃんがずっと使ってて。私にくれることなんて考えなくていいから。」
私の言葉に祖母はまたうれしそうに微笑んだ。
「そうね。でも、約束。私が死んだらあなたにあげる。それまではおばあちゃんが使うから。それならいいわね。」
優しい言葉に私は頷いた。
それからなにか特別なことがある時、祖母はいつもその時計をつけていた。
お正月、家族旅行、金婚式、従姉たちの結婚式…。節目の時、そのキラキラした時計は祖母の腕で光っていた。そしてその時計をするとき、祖母は決まって私に言うのだった。
「これはあなたにあげるからね。」っと。
祖母が亡くなって4年。私の手元にあの時計はない。
叔母達があわただしく遺品を整理していったので、誰かがもらっていったのだろう。でも、あの時計は私の心の中で動き続けている。
今もあの笑顔の祖母の腕で。


「初めての腕時計」Nau2さんのエッセイ

小さい頃、腕時計はとても高級品でなんだか大人っぽい、敷居の高いもののように思っていた。町で腕時計をしているのは大きい人ばかり。高機能そうなデジタル時計をつけた制服のお兄ちゃんや腕に巻きつける皮の美しいものを腕に巻きつけているスーツ姿の男の人、女の人なんてブレスレットみたいにきらきらした時計をはめていた。
私は時計が欲しかった。
宝石みたいに貴重な時計。とても役に立つし、いつも私の腕で時を刻んでくれる。それになんだか時計をはめるだけで、私も大人の世界に足を踏み入れることができる。そんな気分になっていた。
小さいなりにも時計にも良いものと悪いものがあると知っていた私は、近所のスーパーで売られているような安い時計には興味はなかった。ましてやお菓子のおまけなんて言語道断。どうしても大人が買うような「時計屋さん」で売っている「本物の時計」を手に入れたかった。子供だからってごまかされないぞ、私は本物を手に入れるんだと意気込んでいた。
しかし、意に反してなかなか時計は手に入らなかった。というのも母親の「なぜ時計が必要なのか」という質問にしっかりと答えることができなかったからだ。大人になりたい、なんて理由にもならないし、なんだかむず痒くて言葉にもできない。まだ小学生なら時計なんて必要ないという母の考えに屈するしかなかった。
結局、中学校に入るときにキャラクター物の時計を買ってもらった。キャラクター物といっても腕の部分が皮でできていて文字盤の周りは金色で針が黒くて大人っぽくて、その頃の私にとっては高級に思えた。うれしかった。はめていける時はいつでもどこにでもその時計をはめていった。はじめのうちは時間を見るだけでうれしかった。ただ、時計をはめていても大人になれるということはなかった。今の私に大人の女の人がはめていたブレスレットのような時計はきっと似合わないだろうと思った。私にとって時計はただの道具になった。
しばらくするとお気に入りのその時計は、電池を入れ替えても、振っても、指で弾いても、何をしても動かなくなった。私はまだ子供で、私の時間は動いているのに、私を大人にしてくれるはずの時計の時間は止まったまま動かなかった。なんとなくその時計に見捨てられたような気分を味わい、自分の幼いときの甘い幻想と、それをまだ引きずっていることに微苦笑しながら、中学生だった私は引き出しの奥に初めての腕時計を突っ込んだのだった。


「でたらめ時計」Yuichiさんのエッセイ

中米グアテマラで貧乏旅行中、市場で一個の安いデジタル腕時計を買った。でたらめ時計だった。時々、進んだり遅れたりしてしまうのだ。
“時々”というのがなんともいやらしい。常にだめなら買い換える決心もできるのに。当時はバックパッカー道を極めるべく貧乏旅行を徹底追及していたから、おいそれと無駄使いすることは許されなかった。
もっともでたらめ時計は時間にルーズなこのラテンの国ではさして問題にならなかった。時間どおりに到着したと思った現地のスペイン語学校の授業、じつは時計が遅れてて15分も遅刻していた。ところが当のスペイン語教師はまだ来てないという始末。そんな国だった。
でも、ひどい目にも会った。ある遺跡を訪ねようと、バス停に着くと既にバスは出てしまっているという。見るとまたしても腕時計は20分も遅れているではないか。おかげで次のバスを6時間も待たされる羽目に。極めつけはようやく乗り込んだ次のバスが2時間も行かないうちに今度はパンク。高速道路で3時間もロスしてしまった。それもこれもこのデタラメ時計のせい。このときばかりは、早く新しい時計に買い換えようと決心した。
しかし、この時計を忘れられない決定的なものしたのは、コロンビアでの出来事だった。僕はカリブ海に面した美しいコロニア風の港町を旅していたが、そこで首絞め強盗に会った。バスを降りた瞬間、いきなり後ろから腕が回ったかと思うと5秒もしないうちにあっけなく“落ちて”しまった。数分後意識が戻った時には、バッグどころか現金を忍ばせていた腹巻まですべて盗られた後だった。茫然と道端に座り込む僕に一人の若いコロンビア女性が近づいてきた。手には僕の腕時計を持っている。どうやら強盗たちは一度私の腕からむしり取った腕時計を安物とみるや放り投げて立ち去ったらしい。“ケガはない?大丈夫?”と訊ねる彼女はエメラルドを思わせる深緑の瞳をもつ美しい女性だった。彼女は親切にも僕を警察まで連れて行ってくれた。それがモニカとの“出会い”だった。
あれから3年。旅を終えた僕は、さすがに今はこの腕時計を、机の引出しに眠らせてしまっている。それでも、時々深夜にそれをそっと取り出しては、ゆっくりと眺めている。中南米の埃を十分に吸ったその表面はかなりしらっ茶けている上、ベルトももう切れかかっている。時間を見ると午後2時半。どこの国の時間ともわからない時間だ。それでも、いまだに不器用に時を刻み続けているのはちょっと嬉しい。このデタラメ時計、どうやら僕の人生のある部分を導いてしまったようである。なにしろ、今僕の傍らで静かに寝息を立てている僕のワイフこそ、あの時のモニカなのだから。


「周さんの贈り物」minaさんのエッセイ

 中学校に入った年、父が始めて腕時計をくれた。「さあ、手をだして。」といって父は私の左手に時計をのせ、カチリと金具を止めた。自動巻きで、今の時計よりずっと重かったが、私はその重みになんだか大人になったような気分がした。青い文字盤は光の具合で、赤みがかったり、濃紺になったりして本当にきれいだった。「いい時計だろう。大事にするんだぞ。周さんが持ってきてくれたんだからな。」と父は言った。「まだ、中学生にはもったいないくらいだ。」父もうれしそうだった。周さんは父の幼馴染で、外国航路の貨物船に乗っていた。一年に一回くらいしか日本にはやって来ない。それでも父と長い友情を培い、この時計はその友情のしるしのひとつにちがいなかった。時計をもらった最初の晩、私はそれを左腕にしたまま、そして右手でそっと時計をにぎって眠った。時計の重さのせいか、少し眠りは浅かった。


「俺のファイブアクタス」HWさんのエッセイ

燻し銀のような輝き。動じない風貌。静かで流れるような動きには、秘めたる闘志すら感じる奴。
お前はいつも左手首にあって、俺の時を刻んできた。
お前は、時間という媒体を使って俺を支配し、俺はお前を頼りにしてきた。
セイコーファイブアクタス。
高校の入学式にと、父が選んだのはモスグリーンのお前だった。俺はどれほど喜んだ事だろう。その何日も前、ウインドウ越しにお前を見付けた時から、俺はお前に惚れていた。入学式では、左手首にあるお前の事ばかり見詰めていた。
お前に惚れた奴らは多かった。二十三石、完全防水、自動巻き、多くの男子生徒がお前を付けていた。ブルーのお前の兄弟を付けている奴もいた。
まさにお前は、青春のシンボル、花形だった。
俺の青春と共に十五年が過ぎた頃、突然お前は時を刻まなくなった。世界中で俺一人、時間の流れから見放された気分だった。俺の時間は止ってしまった。俺は祈るように町の時計屋へ飛び込んだ。「多分、大丈夫でしょう。」親爺さんの言葉を信じて待った。
オーバーホールの末、お前は元気に戻ってきた。また俺の時間が動き出した。
それから十年、お前は休む事を知らない。
いつまでも俺のときを刻め。
俺のファイブアクタス。
お前は俺を支配し、俺はお前を頼りにしてきた。
俺と共に歩め、俺のファイブアクタス。
いつまでも。


「新聞配達」まさきさんのエッセイ

私は中学3年の頃から高校を卒業するまでの4年間、新聞配達をしていました。毎朝5時に起きて40分ほどかけて、60件ほどのお宅に新聞を配っていました。
新聞配達でもらうお給料は今となっては何に使っていたのかあまり覚えていませんが、初めてもらったお給料で買ったのが、腕時計でした。それほど高価な物ではなかったのですが、自分で稼いだお金で始めて買ったものだったので、私はその腕時計をとても大切にしていました。毎朝目がさめると、枕もとにおいてある腕時計で、5時であることを確認し、腕時計を身につけると、新聞配達の開始でした。腕時計を買ってから、私はいつも同じ時間に同じお宅のポストに新聞を配ることができました。あるお宅のおじいちゃんは私が新聞を持っていく時間になると、外に出て、新聞を待っていてくれました。私は新聞配達を通じて、次第におじいちゃんと仲良くなり、毎朝顔を合わせてちょっとしたおしゃべりをするのが日課になっていました。私が高校を卒業し、上京して3年経った今でも、おじいちゃんとは手紙のやり取りをしています。
結局、私は新聞配達をしていた4年間、づっとこの腕時計をつけていました。今はもう、この腕時計は壊れてしまって動きません。でも、おじいちゃんから手紙が来る度に、腕時計がまだ動いているような気持ちになり、いつも新聞配達をしていた朝のことを思い出します。


「母の想い」ゆみとぼくさんのエッセイ

「腕時計が、要るね」
私が高校に入るとき、母が言った。
「いらないよ。時計なんて、教室にあるから」
「でも、これからはバスに乗るようになるし、部活で遅くなることだって、あるだろうし」
「じゃあ、お母さんの時計を貸して。あの、文字盤の大きいやつ」
私は母の持っていた古い時計が気に入っていた。文字盤が大きく、長年使い込まれたせいかどこかしらノスタルジックなセピア色の時計。
「あんな古いの・・」
「いいよ、あれで」
あの時、私は本当に腕時計など欲しくはなかった。買うほど必要なものだとも思っていなかった。
ところが、母はなぜか「ごめんね、ゆみちゃん」と謝ったのだ。
母が謝った理由が分かったのは、その年のクリスマス。二人でデパートに出かけたとき、母は嬉しそうに言った。
「腕時計、買ってあげる。クリスマスプレゼント。お金なら、大丈夫。心配しないで、ね」
母は、私が遠慮していると思っていたのだ。
もしかしたら、母の時計を借りるたびに、私に詫びていたのかもしれない。新しい時計を買ってあげられなくてごめんね、と。
腕時計を選ぶ母が、あんまり嬉しそうで、買ってもらうのも親孝行なのだと知った。あの頃の物価から考えると、ずいぶん無理をしてくれたのだろうけれど。
携帯電話が時計代わりになり、百円ショップで時計が売られている今、あえて値の張る腕時計を買う必要はないかもしれない。それでも私は、腕時計を買ってくれた母の気持ちを大切にしたい。いつか子供ができて、その子が高校に入学したら腕時計を一緒に選びに行こうと思う。母のことを話しながら。


「大家のおばあさんの掛時計」masarumiさんのエッセイ

私と娘が五年間過ごした借家は、大家さんの庭に立っていた。
大家さんは、おじいさんとおばあさんで、息子さんが二人いらっしゃったそうだが一人は中学生のとき病で亡くなり、もう一人はまだ結婚されていなかった。おじいさんもおばあさんも孫のように娘をかわいがって下さっていた。私の勤めは時々残業もあって、そういう時、おばあさんが保育園にお迎えに行って下さり、「るみちゃんのおばあさんですかと言われたのよ」と嬉しそうに話してくれた。
私は夜遅く、大家さんの家に娘を迎えに行った時、おばあさんと玄関先に座って長話をした。大家さんの玄関先には掛け時計があり、私はその時計を見て「こんな時間になってしまい申し訳ありません」と毎回言ったが、おばあさんはいつも「まぁちょっと座って話してったら?」と言って下さった。冷え込む夜もあったが、大家さんは嫌な顔もせず、私の日々の母子家庭の不安、仕事の愚痴などを聞いて下さり元気づけて下さった。私は掛け時計の針がどんどん進むのを気にしながらも、甘えて色々な事を話したように思う。そして私は安心して娘とともに自分の家へと帰って行った。勤め先の掛け時計に比べて、大家さんの玄関の掛け時計はずいぶん昔のデザインだったが振り子がゆっくり刻むリズムさえ、「焦らなくていいんだよ」と言ってくれているようだった。
私はやがて故郷の人と再婚をし、大家さんの家からはるか離れたところに家を構えた。生活に追われ、私も夫も、毎日目覚まし時計で起き、せわしなく日々を送った。そのうち、赤ちゃんが生まれた。大家さんの事は気にかかっていたのだが、それ以上に毎日が猛スピードで過ぎて行った。私は毎日、段々疲れがたまってきたような気がした。何かを忘れているような、でもそれが思い出せないような気がした。先日思いきって電話をしてみた。「元気にしてたぁ?」なつかしい声が聞こえてきた。連絡をせずにいた私を責めるでもなく、本当に変わらない暖かい声だった。「ほんとうにひさしぶりです。申し訳ありません」涙が出そうになった。背後で丁度その時、掛け時計が夜8時を打った。あの不安だった日々に聞いた暖かい時を知らせる音。「焦らなくていいんだよ」というおばあさんの言葉が思い出された。しばらく話をして電話を切った時、安心が胸に広がり、あの疲れが取れている事に気がついた。そばで聞いていた主人が「今度大家さんのところへ行ってみようよ」と言ってくれた。うちにも今度、掛け時計を買おうかと思う。色んな事があっても淡々と乗り越えて・こられた大家のおばあさんのように、私もなりたいと思うから。


「私達の腕時計」iceさんのエッセイ

私は、21歳で、小さい会社の会社員。恋人は同じ会社で主任をしていた。彼とのつき合いは、もう二年半になっていた。
初めてのデ−トの事は、はっきり覚えている。あの日、夕焼けが、私達を照らしていた。この横丁には小さい店がたくさんあった、一番思い出に残っている、骨とう品店だった。二人でこの骨とう品店の前で立ち止って、窓の中のペアの腕時計を見ていた。ただの腕時計じゃなくて生命が宿っているような時計だった。二人は静かにその時計を見た。時計の中に二人の気持ちが見えるようだった。でも、この時計はとても高かったので、買うことが出来なかった。
その後、彼は一生懸命働いて、二年で係長になった。そして、その時計を手にすることが出来た。私達は毎日、この時計をし、すぐに、自分の一部分になった。毎日、楽しく過きて行った。
でも、彼は、突然、話もせずに消えて行った。でも、会社の机の上に一冊のノ−トが置いてあった。「ぼくは時計と一緒にいつでも君の側にいるよ。」
彼は、今も、この時計をしているはず。そして、時計を見る度、一緒に過ごした時を思い出している。彼は私のもとに帰って来ると信じている。


「父と母と・・・」すばるさんのエッセイ

「ホントたくさん持ってるねぇ」、会社の制服が廃止になって5年。着替えるのと同じような感覚で集めた数多くの時計。「ほらほら、またこんなところに置きっぱなしにして。」と母の小言もいつものこと。でも・・どうしても、もうつけることができずに、そっとしまい込んでいる時計がある。「父がくれた」、そして「母からもらった」二つの腕時計。
サラリーマン業が合わず自由業で生計を立てていた父は、家にいることがめったになかった。そんな後ろめたさからだろう。子供にはとことん甘く、あれは私の8歳の誕生日。突如、今から帰るいう電話が。ざわつく受話器の向こうで「何んでもいいから。欲しいもの何でもいいんだ」とせっつくような、そして弾んだ声。とはいえ、めったに話をしない父からの電話ですっかり緊張した私は受話器のコードをぐるぐる指に巻くばかり。見かねた母が「ほら、ハツカネズミ飼いたかったでしょ?」と促され、「あのね、ネズミの・」と話出したとたんガチャンと電話が切れた。ほどなく父が息せき切って帰宅し「ほらっ!」と差し出したのは、なんと赤いベルトがアクセントの高価なミッキーマウスの腕時計だった。当時、私は時計の見方さえままならなかったし、本当は動くネズミが良かった気もしたけど、父の「いいだろう」を裏切るのは気がひけて、いそいそ小学校につけて行った。その日先生から「おもちゃを持ってこないように」と指摘され、泣いて猛反撃した。「おもちゃじゃない。一番高い時計選んでくれたんだ」と。
そんな父に暗雲が立ち込めたのが大学2年の頃。転がるように我が家の家計は苦しくなり私もどっぷり奨学金のお世話になった。父の能天気さと気丈な母のがんばりでなんとか卒業。「さぁ、これからは私ががんばらないと」と気負っていた3月、母が就職祝いに時計をくれるという。「スーツも買ってやれなかったのだから。」としきりに繰り返す母と百貨店へ。ムリしなくていいのにと言うと、にこりと笑う母の顔は、あの日の父と同じ気がした。
「ほんと、古いのは始末したらいいのに。」と母。「はいはい」と返事しながら、うんうん、でも、やっぱりね。これは・・・そっとしまっておくんだ。一番大事だから、もう使えない。いつまでも、ずっとずっと持っておく。


「真っ黒な夜空の下で」陽咲南さんのエッセイ

生まれて初めて買ってもらった腕時計は、中学一年の12歳の時だった。黒いベルトで、アナログ式の文字盤まで黒だった。何故だか、その真っ黒な時計が私は一目で好きになった。今にして思えば、それからその腕時計と過ごすことになる時間を予感したからなのかもしれない。
水泳部だった私は、放課後、部活を終えると、まだ濡れた髪のまま走って帰り、腕時計と塾用のカバンを持って、塾に向かっていた。腕時計を手首にまわし、夕陽が落ちて、赤色から紫色にかわる空の下にいる自分が好きだった。そして、真っ黒な闇がたちこめる空の下で、勉強していると、ちょっとだけ大人になれたような気がしていた。その夜の空の下で、私は塾一番の秀才に恋をした。中学校の違う彼とは塾でしか会えなかった。だから、授業中に腕時計をのぞきこむ度に、彼と一緒に居られる時間が減っていくのにため息をした。夜中に机に向かって勉強していて眠くなると腕時計をのぞきこんでは、彼も今頑張っているのだと自分を励ました。それは、誰も知らない、私の秘密の片想いだったから、彼の写真もボタンも、彼を思い出させてくれるものは、何もなかった。だからこそ、塾でしか使わなかったその腕時計が、彼と私をつないでくれる唯一の物のように大切に思っていた。一緒に過ごした時間を刻んでくれたその時計を透かして、彼を想っていた。
あれから10年以上の月日が流れた。真っ黒な空の下でしか使わなかったあの時計を卒業して、今度は、青い空の下に向かっていける時計を買った。だけど今でも、腕時計を手首にまわす、あの瞬間に、まるで、夜空に輝いた星のような、小さなときめきをおもいだすことがあるのだ。


「僕の宝物」流水さんのエッセイ

昭和36年、二輪車業界大手企業に入社した。当時は、どこの家も貧しかった。社会人となり、腕時計は、欲しくて堪らなかったが、高嶺の花であった。最初に手にした腕時計は、父の使い古しのお下がりであった。発条仕掛けの古時計は、よく動かなくなった。その都度、修理に出し、高い修理費を支払ったことを記憶している。
昭和45年、三重県から東京の本社役員室秘書に抜擢された。父母が、「祝いに何か買ってやろう」と、言ってくれた。その言葉を待ち構えていたように「腕時計を祝って欲しい」と、即座に言った。
久しぶりに母と街に出た。以前から目星をつけていた時計店に直行。「これや、この腕時計を祝って欲しい」一番高い腕時計を指差した。ヘリコプターから腕時計を落下させ、それでも大丈夫と、大々的に宣伝していたシチズンのパラショック付腕時計である。当時としては珍しい、日付、曜日入り自動巻き腕時計でもあった。正確な価格は覚えていないが、3万円弱のサラリーの僕には、手が出せない価格であったことは確かである。親類からの餞別に不足分を母が出してくれて、希望の腕時計を手にすることができた。初めての僕の腕時計である。
以来、流行の中で、いくつも腕時計を買ったが、手元には残っていない。だが、シチズンの腕時計は、思い入れが深く手放すことができない。誰もが「すごい値打ちものですよ」と、言ってくれる。高校生の娘もほしがるほど、アンテイックの腕時計は値打ちあるものらしい。三十一年も昔の時計である。なんの値打ちもないと思っていたが、時代は、昔のものを高く評価するようになった。
今、机の引出しの中にある振ってやれば昔のまま正確に時を刻むシチズンの腕時計。腕にしている十九年前に妻から贈られた、思い出のセイコードルチェの腕時計。その二つの腕時計は、僕の宝物になっている。


「お気に入り」meikoさんのエッセイ

小学生の頃の門限は団地の街灯がつく頃だった。その日も私は友だちと公園で遊んでいた。だんだん暗くなって、みんながそろそろ帰らなくちゃと言い始めた。私は自慢の腕時計を見る。赤いバンドで文字盤にシンデレラの絵が描かれた時計だ。「まだ5時だから大丈夫」自信を持ってそう言った。そしてゴム飛びを再開した。しばらく遊んでいると、普段はみかけない背広姿の人たちが次々と帰ってくる。冬は暗くなるのが早いな。そんなことを思いながもう一度腕時計を眺める。あれ? さっきと同じだ。なんでまだ5時なの?
でも、それを言い出せなかった。そのとき街灯がついた。平静を装い、「電気ついたから帰ろう」そう言って、家に帰った。
「何してたの、こんな時間まで」と母のどなり声が聞こえた。「え、だって、時計が5時だったんだもん」と応えて何気なく家の時計を見ると、もうすぐ7時だ。どうしよう、明日友だちになんて言えばいいんだろう。みんなも家で怒られているんだろうな。でも、どうして時計が止まってるんだろう。家を出るときには確かにカチカチ鳴ってたのに。私にはわけがわからなかった。すると母が「ちょっと見せて」と私の時計を見て、横にあるポッチをさわってる。「あら、ネジまいてないじゃない」と、言われてもピンとこない。
そう、私は時計はネジをまいて動くんだということを知らなかったのだ。それまで私は何気なく時計の横にあるポッチを触っていて、なんとか止まらずに動いていたのだか、それがつきてしまったのだ。幼稚園の頃から持ってる大好きな腕時計だったのに。どうしてそんなことを今まで知らなかったんだろう。明日友だちにどんな顔で会えばいいの? いろいろ考えるうちに、なんだか大好きな時計に裏切られた気分になってきた。
それからしばらくは腕時計をする気にもなれず、私の机の中でシンデレラが笑っていた。


「お待たせ」sam24zさんのエッセイ

「まだこないのか… いつもこんなことしちゃって…」
腕時計をみると、もう1時半だ。デートは12時だったのに…彼女は一体何をしているんだろう。駅の改札口何回見ても、彼女は出って来ない…
「2時だ…今日は来ないのかな…」
諦めよと思った時に、彼女の姿を見えた。しかし、彼女は、他の男と一緒にいた。最初はただの友だちだと思ったんだけど、彼女は、彼の手を握ってまま歩いてた。幸せそうな顔をした。
「バカじゃない…」
直面しよと思ったんだけど、結局出来なかった。彼女は、幸せならそれでいい。
腕時計は、彼女と一緒に買った物だった…もういらないと思ったんだけど、やっぱり捨てられなかった。


keroさんのエッセイ

本当かどうかは分からないが、心理学的に「時計は恋人を意味する」と聞いたことがある。
時計を身につけるのを嫌う人は恋人に束縛されるのが嫌い。反対に時計を常に身につけていたいと言う人は恋人に常に一緒に居て欲しい人。
その嘘だか本当だか分からない話をきいてから、私は好きな人が替わる度に時計を替えている。そして、机の引出しには時計が3つ。
その中に、一番安っぽくて、傷もたくさん付いていて、動かない時計がある。
それは、英国での留学時代、極貧生活の中で精一杯の無理をして買った時計。
ショーケースに並んでいる時計の中から彼の目と同じブルーの文字盤のものを選んだ。
ビー玉のような薄くて深い青。
あれからもう5年。日本に帰国してからはもうすぐ2年。私は今でも、その動かない時計を身につける時がある。それは、自分に自信が欲しい時。元気が欲しい時。
異文化の中で笑ったり泣いたり怒ったりした事を、その時計はいつも見ていた。
全力で全てにぶつかってきた時間。一緒に居た時計。
あの時間を精一杯生きてきたことが今の私の自信だ。
いつか、あの時計以上の時計が現れるのだろうか、と思う。
いや、現れてくれなくては困る。そして、その時計を一生身につけていたいと願う。


「妻にもらった腕時計」Youさんのエッセイ

ショーウインドウの中を覗きこみながら、ボクの心臓はスキップしていた。
半開きになった口からよだれが滴り落ちそうになり、
「ずるるる……」
慌てて吸い上げるボク。
ずっと憧れていたオメガの腕時計が目の前にある。しかも、あと数分でボクのものになるのだ。
その日、当時婚約中だった妻に、
「いま何がほしい?」
と、訊かれたボクは、迷うことなく、
「オメガの腕時計!」
明るい声で答えた。
「じゃあ、婚約指輪のお返しに買ってあげる」
「えっ!」
シドニーの免税店で目にして以来、欲しくてしかたのなかった腕時計が自分のものになる。――ボクの心臓はスキップをはじめた。
妻は、オメガの腕時計を現金で購入。
「わーおっ!」
さっそく自分の左手首に腕時計を着けると、
(この腕時計は、ボクのために作られたんじゃないか)
そう勘違いしてしまうくらいフィットしている。
ボクは、妻に多大な感謝をしながら店を出た。
それから結婚式を挙げ、数ヶ月が過ぎたとき、
「ねえ、毎月送られて来るこの四万円の請求書はなに?」
突然妻に訊かれた。ボクは、明るく、
「おまえの婚約指輪の代金。十回ローンで買ったから、まだ五回くらい残ってるんだ」
実は、ボクは、妻にプレゼントした婚約指輪を十回ローンで買っていたのだ。しかも、結婚してからもずっと払いつづけていた――。
妻の放つマイナス四十度の視線を受け、ボクはこそこそとその場を退散したのである。


(注)この「思い出の腕時計エッセイ募集」に書いていただいたエッセイの著作権は、セイコーインスツルメンツ株式会社に帰属します。予めご了承下さい。