「パートナー」碧さんのエッセイ
「たぶん寿命でしょうね。」
一ヶ月ほど前、近所にある時計店の主に言われた言葉を思い出した。
鏡台の上に置かれた止まった腕時計。これは高校入学の祝いに両親からプレゼントされたものだ。あの頃、腕時計は大人が身につけるあこがれの品だった。それが自分の腕にある・・・。私は腕時計をはめた左手を高くかざし、何度も何度も眺めていた。
以来二十年、この腕時計は私の大切なパートナーとなった。大学合格の喜びも、失恋の悲しみも、就職試験に失敗した悔しさも全部知っている。そしてどんな時も静かに私を見守り、時を刻んでくれた。そのパートナーが止まってしまった。最初は電池切れかと思い、電池を交換したのだが、わずか三ヶ月足らずでまた止まってしまったのだ。
「中の部品が傷んでいると、早く電池を消耗することがあるんですよ。大切にお使いの品のようですので、分解掃除をしてみますか。」
分解掃除の費用はちょっとした安い腕時計なら買える額である。もう少しお金を足して、最新のデザインの時計を購入することも選択の一つである。それに私は他の腕時計も持っている。就職祝いに親戚から頂いたものや、お気に入りの服に合わせて自分で購入したものなど、数個は持っている。けれど、私の左手首にしっとりとなじみ、長時間つけていても違和感を感じないのはこの腕時計だけなのだ。私は分解掃除を頼み、時計店を後にした。それが一ヶ月前。
「やっぱり寿命だったんだね。長い間ご苦労様、そしてどうもありがとう。ゆっくりと休んでね。」
私は腕時計をそっと鏡台の小引き出しにしまった。
しばらくは今持っている他の腕時計を使おう。でも、この後私の人生のパートナーとなってくれるのは、どんな腕時計だろうか。
「リューズを押すとき」Timothyさんのエッセイ
私は、バーボンをグッと飲み干し、約束の時間をまっていた。今日の私はいつもと違う。仕事が出来る男と見られなくてもいいのだ。そんな安堵感が私にあった。
『マスターもう一杯たのむ』と口からこぼれた、再びこれを飲む、カーッとのどが熱くなる。
西部開拓時代のアメリカ、カウボーイ達と同じ「時」を飲み込んだ。
グラスを傾け、腕にある私の「時」をふっと目に入る。
そろそろか・・・。今宵の「時」は、果たしてどんな情感に浸ることを要求するのだろうか。
「お疲れ」親友のKが私の肩に触れる。私は、彼に即座にこう言う「おめでとう、名前はもう決めたのか?」だれでも父親になる態度はこうなのだろう。親友である彼のニヒルな含み笑いを私は見逃さなかった。
「遅かったな。」
彼はこういった「ごめん、時間があまり分からないんだ。」
年代物の彼の腕時計は、動いているが私の時間とはまるで違う。
何か意味があるのであろう。娘が生まれた時からの、彼の時間なのか?
複雑にゆがむ彼の顔に彼はこう答えた。
「先日、他界した父の遺品のこの時計、リューズを再び押すときは、幸せのはじまりの報告なんだ。」
今宵の気まぐれな「時」がようやく私に新鮮な感情をくれた。
「引き出しに眠る時計」ナオナオさんのエッセイ
私が初め買ってもらった腕時計は小学生の頃、お決まりの手巻き式のディズニー時計。
嬉しくって学校から帰ると机の引き出しから取り出して腕につけた日々。いつのまにか時計の存在を忘れて時は過ぎ、引出しの中。
高校の入学祝にこれまた当時お決まりだったSEIKOソシエを親に買ってもらい大人になった気分。バスの時間、始業の時間、遊びの待ち合わせの時間いつもいつも私の左腕に当たり前のようにいた時計。大学受験にも一緒にいてくれた。就職試験にも一緒にいてくれた。
新婚旅行にもついてきた。子供を産む病院にもついてきた。私のお守りのような存在だった時計。
いろいろな時計を左腕につけたけれど、私にとって1番の時計はこのソシエなのに、なのに今は引出しの中。
家事、育児に追われ、腕時計無しでも過ごせる日々にどっぷりと浸かってしまった私。いざ時計をすると居心地が悪い。そのうちに電池が切れて引出しの中に。何十年も一緒にいたのに、一生懸命働いたのにって怒っているかな?
引き出しに眠るディズニー時計は娘にあげよう。
お気に入りのソシエは電池を入れて、これからのわたしを見守ってもらおう。
「誰かに似ている、腕時計」fuinchさんのエッセイ
この腕時計に出会うまで、腕時計をつけるのは好きではなかった。
その理由を考えてみると、元来面倒臭がりなのでつけたり外したりがおっくうなのと、どこか時間にしばられるような不自由さを感じたせいではないだろうか。
街にも時計があるし、学校にも会社にも正確な時計があるので、確かに時計を持ち歩かなくてもそんなに不自由はない。
だから、それまでの私の腕時計は、実に形式的なものだった。
でも、この腕時計と出会ってからは、時計はそういったあいまいな存在を超えて、私にとってとても重要な存在になった。それも一重に、この時計の外観を私が気に入っているからだろう。
その時計は、アナログで、シルバーのベルトに、青緑のフェイス。何と言っても決め手になったのが、果てしなく豊かな海を思わせる濃い青色の文字盤だった。もともと青が好きな私だが、その色は文句なく美しくて、いつも身につけていたい、と思わせるものがあった。
それを購入して以来もう3年近くになるだろうか。毎日つけていても、飽きることがない。重みがあるので、遅くまで残業をしている時など疲れたときには外したりもするが、それ以外では必ずつけているし、おっちょこちょいの私がなくした、ということも全くない。
つけると2割増し自分がかっこよくなるような、それでいてつけている自分こそ本来の自分であると思える時計。まさに私にふさわしい時計だったんだと思う。ここまで書いてきてふと思ったのだが、これは私の恋人にも言えることだ。遠くから見ると光を放っていて、近寄ってみると自分にしっくりとなじむ。つねにそばにいても、透明感のある存在ゆえに、私を自由に、そしてリラックスさせてくれる。
これは、偶然なのだろうか?
「5分すすんだ時計」mimizuさんのエッセイ
僕の時計は5分進んでいる。
だからといって壊れているわけではないし、
電池が無いと言うわけでもない。
死んだ祖父から譲り受けた時計。
時間が進んでいるのに気付き、時報で時刻をあわせようとした時、祖父が言った。
「それはそのままでいいんだよ。そのまま使っていなさい。理由はいつかわかるから。」
今になって思うと、常にゆとりを持って行動するようにと伝えたかったのかもしれない。
答えは結局聞けずじまいだったけど…。
でもじいちゃん、安心してくれていいよ。
今もこの時計は進んだままだから・・・。
10分を5分に変えちゃったけどね。
「諦めました」すわんさんのエッセイ
数年前、友人とシンガポールに旅行したときのガイドさん。
やたらに、日本語が上手で顔も日本人っぽくて、此処がどこか一瞬錯覚するほどでした。
私がシンガポールではめていたのは、旅行直前に社内の宴会があり、その時のゲームの商品でした。
値段やメーカーは判らないけれど、お洒落で格好いい時計だったので、ハードなゲームをなりふり構わず必死で勝ち取りました。その時計を、シンガポールのガイドさんに初対面の時から、「ちょうだい!」と迫られていました。拒んでいると2日目には、自分の時計を持参して「交換して!」と言われました。
でもその時計、私の血と汗と涙の結晶の時計に比べたらまだまだ小物でした。
3日目、帰国日、空港での手続きと引き換えに時計を迫られました。
ずるーい!!でも仕方なしに、差し上げて来ました...シンガポールの町は、都会だったなぁ...くらいの印象しかないのだけど、時計のおかげで、ガイドさんの顔はしっかり覚えてます。
私の時計、元気でしょうか・・・
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「アナログ」Eikoさんのエッセイ |
来月定年退職する義父。一人っ子の夫は食事会でも開こうかと言った。じゃ何か記念品を、と私はプレゼントの品定めをすることにした。日頃あまり顔を見にもいけないのだし、こんなときくらい私の稼ぎでちょっといいものを。嫁として、そんな小さな見栄をはりたくて、私は腕時計に決めた。
それほど有名ではないけれどブランドもので、外国の職人さんが手作りしたという、機械式時計だ。毎日ネジを巻かなければならないところがこだわりっぽい。大人の男性に人気ですよ、という時計屋さんの言葉にもひかれた。なにより、これから義父には手のかかるこの時計が似合うような、優雅な時間を過ごして欲しいと思った。
食事会の義父は普段無口なのに定年後の夢を語り続け、楽しそうで、でも寂しそうだった。最後に渡した時計に、ありがとうな、と一言、お礼を言われた。
数日後、用事で電話をしたら義父がでた。気に入った、と言う言葉が聞きたくて「あの時計、どうですか?」と聞いた。「うん、どうも数秒遅れるみたいやな、いや確かめたわけやないけど」意外な言葉が返ってきた。私は焦った。しどろもどろに電話を切り、調べまわり、ようやく機械式時計では1月に4、5分の誤差は許容範囲内なのだと知った。
義父に知らせてあげようとして、ふと、涙がでてきた。せっかくの時計が、なんだ遅れるぞこれ、とどこかにうっちゃられている……
ため息をつきながら電話をすると、義母がでた。義父は出かけたという。
「そうそうこないだはありがとうね。あの時計、お父さんすごく喜んでね、寝るとき以外ずうっとはめてはるんよ」
え? 私が言葉を失っているなか、義母は続けて
「毎日毎日お昼になったらちゃーんと時報に合わせてはるの。私、毎日も合わせんでも、って言ったんやけど、やめへんのよ」
……時計を構え、時報に耳をすませている義父の姿が浮かんだ。
思わず笑みがこぼれた。さっきとは別の涙も、そこにまざった。
「不釣合いな時計」かぐらさんのエッセイ
どこまでの範疇をそう呼ぶのか分からないが、私の親父はいわゆる「古い人間」である。言葉少なに背中で物を語るらしい。
それはなんとか引っかかるようにして、とある高校の試験に合格した時のこと、母を通して親父からだと渡されたのは、やたらと威風堂々とした高級感のある腕時計だった。あの人が自分にプレゼントくれるなんて、時計の針も反対に回っているのではないかと心配したが、なんとか正常に作動していた。
この腕時計が活躍しだしたのはごく最近の事である。わざわざ時間を腕に巻かなくても、たまに必要なのは目覚まし時計くらい。フラっと家を出てプラプラしてグータラと家に舞い戻る。何か言いたげな親父の姿も見て見ぬふり、スタスタと横を通り過ぎる。そんな生活を続けていたのだから、親父からもらったゴージャスな腕時計なんぞ付けた日にゃ、いかにも取って付けたような格好になり似合うはずもなし。2,3回試しに巻いてみただけで、あとは引き出しの奥で長い眠りに着いていた。
あの頃の私にはとうてい想像もできないだろうが、今の私の戦闘服は「背広」と呼ばれるあまり合理的とは思えない衣服であり、装備が腹時計だけではたちまち取り残される世界に居る。
正直なところ、まだ「似合う」とは言えないかもしれないが、私の日常となったこの腕時計。そろそろベルトもくたびれてきたので交換時かもしれない。
こんな私であるが、少しは彼に近づく事ができたろうか。
「傷ついた腕時計」GILさんのエッセイ
大学に進学する時に、私は大切な人から腕時計をもらった。私はその時計に毎日時間を教えてもらいながら、大学を卒業した。仕事に就いてからも、私の腕には同じ時計がまかれていた。しかし、ある日バイクに乗っている時、はっと思った瞬間にベルトが私の腕からするりと外れて大切な時計が地面にたたきつけられた。「あーどうしよう...」と悲しく、そして寂しい気持ちで時計を拾いに行ったが、案の定、リューズはどこかに飛んでしまい、傷ついた腕時計がとても痛々しかった。
すぐにデパートの時計屋さんに持っていったのだが、何軒訊ねても「リューズが飛んでるから、買い換えた方が安いですよ...」と同じ返事が返ってきた。私は「値段の問題じゃない!」と心では叫びながらも、私の腕に長年まかれてきた腕時計に対する愛着を捨てなくてはならないのかと考えずにはいられなかった。
打ちひしがれた思いを胸に、家の近所の小さな時計屋さんに駄目でもともとと思いながら相談しに行った。「とても大切な時計なのですが、どうにかなりませんか?」と聞いてみると、「あなたの時計に対する思いはわかります。しばらく時間を下さい」と返事が返ってきた。一週間後、再びその小さな時計屋さんを訪れると、新しいリューズがついた傷ついた腕時計がチッチッチッと動いていた。
私の時計に対する愛着を理解してくれた小さな時計屋さんのおかげで、今でもその腕時計は私の腕にまかれている。時計をくれた母親は、「新しいのを買えばいいのに...」と思っているのかもしれない。確かに傷ついた腕時計だが、私にとってはかけがえのない大切な腕時計にかわりないのだ。
「勇気のお守り」藤田蒼海さんのエッセイ
寂しさで壊れそうだった。自分自身が壊れそうだった。
独りきりの部屋に時計の音だけが虚しく響き渡っていた。
そういう毎日から抜け出したくて、でも自分ではどうすることも出来なくて...
そんな時、私は彼に出逢った。彼は私には無いモノをたくさん持っていた。
少し楽天的だけど前向きな考え、自分のことよりも大切な人のことを考えられる優しさ
気が付いた時にはもう彼に惹かれていた。
それから私達はお互いの話をしたり、喧嘩したり、笑いあったり、同じ時間を重ねた。
けれどそんな幸せな時間も長く続かなかった。
「別れよう、今のままじゃダメだよ。」彼のヒトコトが胸に突き刺さった。
「先のことはどうなるか分からないけどこれからは友達として付き合っていこう。」
私はただうなずくことしか出来なかった。そしてその時彼は私に腕時計を手渡した。
「これは君がこれからちゃんと前を向いて行けるようになるための勇気のお守り。」
こうして私達は友達になった。けれど私の気持ちはまだ切り替えられていない。
彼から貰った腕時計を見つめては自分の気持ちと戦っている。
あとどれくらい時間が過ぎればいいんだろう。
いつか心から笑って友達として彼の隣にいることが出来るのだろうか。そう思う反面、2人の時間はこの先同じ時を刻むことはないのだろうか。そんな想いも頭の中を巡る。
ただひとつ言えることは私は今でも彼を愛していて、彼から貰った時計が私に勇気を与えてくれているということ。
だから私は彼に貰った腕時計とともに前を向いて生きていきます。
「二つの腕時計」ライラックさんのエッセイ
彼は腕時計をしない。私たちは趣味が合うので、洋服や本を選びによくショッピングにでかける。なのに、腕時計をみにいくことはなかった。私はガラスのショーケースに入った瀟洒な腕時計に憧れ、出かける度に横目でちらちらみていた。
ある日、私は彼に聞いた。「なんで腕時計をしないの?」。彼の答えはこうだった。「だって重心が変わるだろ」。重心?重心が変わるくらい重い腕時計。私は、それを想像してみたが、あまり現実味のないものだった。家に帰ってから、腕時計をはずしてはかりにかけてみた。10グラムもなかった。例の、彼特有の皮肉なのかもしれない。
私は、時計をしない彼との時間が好きだった。幼い頃のように、楽しかったり、つらかったり、感情の動きに合わせて、時は自在に伸び縮みする。出遭った頃、はじめて遊園地へいった帰り道、「すぐ時間がたっちゃうね」といってがっかりしたのを覚えている。いつしか、私もプライベートでは腕時計をしなくなっていた。
そんな彼との出逢いから、はや数年、私は、今年から社会人になった。休日に彼と遊んでいても、「ごめん、明日、会社だから」と、時間を気にするようになった。彼は彼で、生活が忙しくなり、私は、街頭の時計をみて走り去って行く彼の後姿を目にする事も多くなった。時計が知らせる時間は、二人だけのプライベートな時ではなく、誰もが共有しているオープンな時を刻んでいた。私は、それを恨めしく思った。
ある日、彼と私は、ひさしぶりに食事に出かけた。食事をしながら、私はぶしつけに彼にあるものを差し出した。「プレゼント?」。意外な事態に、彼は疑いの表情をした。開けてみると、それは、2本の腕時計だった。「手にしてみてよ」。私は言った。「重心が変わる」こともないくらいの軽量のものをえらんだのだ。
2つは、違う時を刻んでいた。1つは、午後9時48分を示していた。もう1つは、午後9時35分。店の時計は、おおよそ、長針と短針が「9」のところで重なり合うくらいだった。
ひとつは、最近忙しい彼の生活に合わせ、本来の時間より、2,3分はやく設定したもの。もうひとつは、10分近く遅らせたもの。これから、彼と私は、通常の時間より、10分、余分に時を共有するのだ。
FOOTMANIAさんのエッセイ
実は、私は普段腕時計をしない。といえば聞こえがいいが、欲しい時計がべらぼうに高いので買えないだけなのだ。かといって他ので我慢することも出来ず、でも不便だしなあ、と今までズルズルきている。どうしても必要なときは母の腕時計を借りて出かける。
その銀の、国産の何でもない時計は、父の兄嫁つまり叔母の形見である。形見分けのとき、母が行った時にはいいモノは全部他の親戚に分けられ、これしかなかったそうだ。いい物かどうかはおいといて、シンプルでどんな服でも合うのでまあいいかと母は結構気に入っている。
母は病弱だった。昔長期の入院をしたことがあって、私はその間叔父の家に預けられた。叔父夫婦はともに障害者で子供はいなかった。きっと大変だったろう。今になってやっとわかってきたが当時の私にはそんなことはちっともわからなかった。
毎朝叔母は目玉焼きを焼いてくれた。それも半熟の。半熟が嫌いな私にはそれがつらかった。しかも毎朝だ。でも言えなかった。だから食べなくなった。ある日大事に集めていた折り紙の入った箱を叔父に捨てられた。そんなに大事だとは思わなかったらしい。私は誰もいないところで泣いた。
この時計をする度に目玉焼きや折り紙など色々浮かび上がってくる。そう、時計は時を刻むだけでなく過去の思い出も呼び起こす。叔父夫婦がいない今、あの頃もっと思いっきり物を言えばよかった、叔母に冷たく当たらなければよかった、という気持ちでいっぱいになる。
高い時計もいいけれど、私はこの銀の時計が今では大好きだ。そして、この時計でこれからどんな思い出が作れるのかと楽しみにしている。
「一緒に過ごした時」くまこさんのエッセイ
私が初めて腕時計を買ってもらったのは、高校入学の時だった。時計屋さんへ行き私の好きな時計を選ばせてもらった。初めてなので、どれを選んで良いかさんざん迷ったが、黒い時計に決めた。何もかも黒。当時、黒が気に入っていた色だったのだろう。
そして、新しい時計を腕にはめて新しい高校生活に夢を踊らせて楽しんでいたが・・・一ヶ月たたないうちに身体の調子がおかしくなりとうとう入院をすることになった。季節はまだ春の終わり。味気ない入院生活が長くなりそうと決まったとき、寂しさと悔しさでまだ新しい腕時計をして病院の屋上へと駆け上がっていった。
お昼からずっと屋上で過ごした。何も考えなかった。他にも患者さんがいたが、私の腕から小さな音が絶えずなりつづけていた。コツコツと。無心になっていたんだろう。夕方近くまで音を聞き続けていた。小さな音が私を勇気づけてくれたようだった。何も考えなくてもいいよって。絶えず時間は流れているからって。今の時間はきっと私に必要だったから与えられたんだって。
そんなことを時計は言っているようだった。
時計と一緒に過ごしたお昼からの時間があるからこそ今の私がいるのだと思う。時計に教えられた一時であった。
そして、約15年たった今でもあの時の時計は現役である。時計の方が元気かも!!
「父の時計」のりりさんのエッセイ
暑かった今年の夏。私たち家族には一生忘れられない夏になった。
7月の末、父が呼吸不全で突然倒れた。その日から、父の生涯で最も辛かったであろう闘病生活が始まった。
たまたま私たち家族はその日実家にいたので、救急車の後を追うようにすぐに病院へと向かった。入院してすぐに「下手すると、あと数時間かも知れません」と医師から宣告された母は、ずっと廊下で泣いていた。集中治療室で処置を受けている父には会えず、廊下で泣いている母の側で私は為す術もなく立っていた。3時間ほど経った時、医師から病室に入ってもよいという許可が出たので母と共に入室すると、そこには意識がまだはっきりしない、人工呼吸器を着けられた父が横たわっていた。医師の、今日、明日、ということはない、との言葉で、小さい子どもがいる私たち夫婦は、母を残してその日は帰宅することにした。
翌日、私が子どもたちを連れて見舞いへ行くと、父の意識は戻っていた。話せないので、筆談ではあったが。その入院中の父がずっと肌身離さず着けていたのが、時計である。
父は時計には全くこだわりのない人だった。安い時計を1年に1度ぐらいは買いかえていたと思う。その父が、ある時ブランド物の時計を買った。いつ買ったのかは知らないが、ここ何年かは同じ時計を着けていたので、よほど気に入ってたのだろう。
一時は快方に向かったかに見えたが、父の容態は徐々に悪化した。最後まで意識がしっかりしていた父には苦痛だったろう。父はずっと退院できると信じていたが、お盆をすぎてしばらくして、やっと苦痛から解放された。父の腕には最後まで愛用の時計が着けられていた。
父が長く愛用し遺したものと言えば、その時計だけである。私にはその時計が父の闘病生活と重なり、彼の精一杯生きた証のような気がする。
「自分で買った時計」イヴォンヌさんのエッセイ
高校に入学する時父に買ってもらって以来、20年間使っていた時計をなくしてしまった。
長年連れ添ってきた時計をなくしたショックは大きく、すぐには新しい時計を買う気になれなかった。
とりあえず、独身時時代会社で、誕生日のお祝いにもらった安物の時計を、引出しの奥からひっぱりだしてきて使っていたが、いい年をして、見るからに安っぽい時計をするのは、どうにも我慢ならない。
私の夫は、モノに一切お金をかけたがらない人なので、新しい時計が欲しいと言っても、いつも彼がやっているように
「JRの忘れ物市で買ってこい」と言うだけだろう。電池代より高い時計を持つのは愚かなことだと思っている人なのだ。
私も、何十万もする時計が欲しいとは思わないが、夫のように、時間さえわかれば何でもいい、とまでは割り切れない。
しかし、家計から私の望むような時計を買うお金を捻出するのは難しい。
私は専業主婦、すなわち無職で無収入の身だが、小遣い稼ぎ程度には"投稿"という奥の手を使う。
雑誌などの"読者欄"に手紙を出し、ささやかな謝礼をもらうのだ。もちろん載らなければ何も出ないし、すべての手紙が載るわけではない。
効率の悪い稼ぎ方ではあるけれど、今の私にできる方法はこれしかない。
何十通も手紙を出し、大半はボツになるものの、わずかながらも採用される手紙はあって、通帳に預ける謝礼金の残高は少しずつ、少しずつ増えていった。
そうしてためたお金で、ついに3万7千円の時計を、3割引で買った。買ってすぐ、私はその時計を腕にはめて町を歩いた。
きらきら輝くステンレスのバンドに、さくら貝のようなピンク色の文字盤の真新しい時計。
平凡な時計だけれど、自分の力で買った時計。時計が変わっただけなのに、さっきまでより少し誇らしげに、胸を張って歩けた。
自分の足で歩く喜び、自分の手でつかむ幸せを、ほんの少し味わえた瞬間だった。
「ささやかな反抗期」narukoさんのエッセイ
有名学習塾に、何の相談もなく両親に通うように命じられた時、私は「行きたくない」の一言が言えなかった。中学2年といえば思春期真っ只中の反抗期。友人達が、周囲の大人に反抗期パワーを炸裂させているのに、私はかなり「お利口さん」だったと思う。嫌々塾に通い始めて、益々勉強が嫌いになった。長時間の授業、山のような課題、息つく暇もないくらいに過ぎていく勉強漬の毎日に、反抗期パワーは徐々に鬱積していった。
あれは塾の夏季講習会の時だった。黒板の前で、延々と授業をしている先生の顔を見ていたら、突如無気力になってしまい、板書をしていた手を止めた。まだ授業時間はたっぷり残っていて、さて何をしようか考えていたら、貰ったばかりの腕時計に目がいった。その腕時計は、当時大ブレイクしていたゲーム付の物で、息を潜めながら、初めてその機能を試してみた。スリル感も重なってか、そのゲームに私はついつい夢中になってしまった。周りの生徒は皆一心不乱に黒板の文字を書き写しているのに、一人私は、板書するふりをしながらゲームを楽しんでいる。
「先生を欺いているんだ私..」とへんな優越感に浸っていたその時、人の気配を感じ振り向くと、ニヤッと笑った見回りの先生が立っていた。そして、持っていた教科書で私の頭を一叩きすると、腕時計を没収して帰っていった。周囲の生徒達は皆ボーゼンとしていたが、私の顔は何とも言えない顔をしていたに違いない。今まで、先生に怒られることなどなかった私。その私が先生に怒られて教科書で頭をコズかれ、しかも注目されてる!!あの時の、恥ずかしい様な嬉しい様な複雑な気持ちは、今でも忘れることができない。
それから程無く、私は両親を説得してその塾をやめた。自分の身丈にあった塾を自分で見つけ、新たに通いだした。腕時計のゲームを授業中こっそり楽しむことも、それ以降はなかった。
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「秘密」MORIさんのエッセイ |
あれはぼくがまだ中学生の頃だった。当時、ぼくにはサヤカというガールフレンドがいた。彼女の家は裕福で趣味も乗馬という、ぼくたち一般庶民からすれば、通常の生活からは縁のないものだった。
そんなぼくがサヤカとつきあうようになって乗馬を始めた。最初はまるで駄目であったが、三ヶ月もすると、なんとかサマになって乗れてきた。当然、二人のデートはいつも乗馬クラブであった。華奢なからだで巧みに大きな馬を操るサヤカはとても美しかった。
そんなある日、突然の入院をサヤカのお母さんから聞かされた。風邪をこじらせたらしいとのことで、ぼくはお見舞いに、貯金を下ろして買った腕時計をプレゼントした。もちろん中学生が買うものだから、高価な時計ではない。文字盤に花の絵が描いてあるピンクのかわいい時計だった。サヤカもとても気に入ってくれ、この時計をしていると辛く痛い検査も我慢できるのだと言った。
当時はなぜ風邪なのにそんな大変な検査があるのか気が付かなかった。それからしばらくして、サヤカは突然死んだ。深夜、急に容体が悪化し、家族の到着を待たずして死んでしまった。訃報を聞いて急行したところ、サヤカは自分の部屋のベッドの上で寝ていた、いや、ぼくには寝ているとしか思えなかった。それほど安らかな死に顔だった。不思議と涙も出ず、ぼくは葬儀の日取りを聞き、サヤカの家を後にした。ぼくがプレゼントした時計は、最後まで付けていてくれた。死ぬ間際も、主治医には「この時計が私を守ってくれるの」と言っていたそうである。
サヤカの家を出た途端、ぼくは涙が止まらなくなった。擦れ違う人が皆、振り返る。だけど、ぼくは泣いた。声をだして泣いた。火葬にするとき、サヤカのお母さんから、「この時計はサヤカだと思ってあなたが持っていて」、と言われ渡され、今でもぼくの書斎の机の中にこの時計はある。そのことは今の妻も知らない、ぼくだけの秘密となっている。
「時の流れにながしたものは・・」Donさんのエッセイ
物心ついてからでも、20世紀を丸まる半部過ごした私。10代のころ、夏休みに入ると最初にするのが、計画表作成。1日を分単位まで区切った予定が入る。朝6時起床、6時半にはラジオ体操へ、から始まる1日。勉強は朝の涼しい午前8時半から10時半、テレビの番組もそんなに無くて、午後8時30分には寝る予定表だったと思う。それが、夏休みの終わるころには、宿題はまだ終わらず、両親の手を煩わせて工作を夜なべでと言う体たらく。20代には、なぜか、待ち合わせに間に合わず「あんたとの待ち合わせは、時計の無い所でないと...」と友人に言われてしまった。30代、ほとんどの友人達は、人並みに結婚、出産、育児へとこまを進めるのを横目に、間に合わない私は、キャリアウーマンでもないのに、なんとなくそのまま。色々有ったけど、過ぎてしまうと、なにもせずにここまで来たような気がするこの頃、ふと気が付くと、待ち合わせ20分前にはそこにいて、気に入った本を出して読んだり、編みかけのセーターの続きを編んだりして、待っている自分・が。待っている相手が、あの20代からの友人だったりして、一人苦笑したり。悪くないな、こういうのも、と思いながら、腕時計をふっと見る。
「腕時計ジェンダー」keekunさんのエッセイ
小学5年の冬休みにお年玉をはたいて腕時計を買った。11歳の女の子が選んだわりには、紺色の皮ベルトのババくさい時計だった。当時、何の疑いもなく時計のフェイスを手首の内側に向けてはめていたのは、母がそうしていたからだ。母は「何十年も買いかえてない」と繊細なデザインのシルバーの時計をはめながらぶうぶう言っていた。
中学、高校とあがっていくにつれて、どうやら女子はフェイスを内側、男子は外側にするのがジョーシキらしいと気がついた。確かに、時間を見るときのしぐさが、女子巻き(?)だとキュッと脇が閉まり、手首を心もち曲げたりして実に女らしいし、男子巻きだとすぐ横に人がいたらエルボーをいっぱつお見舞いするんじゃないかという勢いで男らしさをアピールできる。
社会人になって、やりもしないのにダイバーズウォッチを買った。それまで自分の時計のはめ方に疑問をもったことはなかったが、ごついダイバーズを女子巻きにして時間を見ると、もんのすごいマヌケなのである。それまでちっとも気がつかなかったが、選びに選んだ自慢の時計のフェイスも女子巻きでは他人からは見えづらい!だいたい女が内側で男が外側なんて誰が決めたのよ!と、社会での男女差別を身にしみて感じるようになっていたことも手伝って、どんなエレガントな時計でもフェイスを外側に向け、ひじをぶうんと振りあげて時間を見るようになった。
さて、そんな頑固者も、彼氏の地方転勤にくっついていってあっさり仕事を辞めてしまった。婚約指輪はいらないから腕時計買って!とねだり、かねてからの憧れだったシルバーの高級自動巻をまんまとせしめた。4年たった今でも見飽きず、結婚指輪はしないくせに、この時計だけはその辺に買い物行くだけでもいちいちいっしょに連れて行く。フェイスはもちろん外側。いつか子供が生れたら、「何十年も買いかえてない」とぶうぶう言ってやるのだ。
「節目のプレゼント」chintaさんのエッセイ
初めて自分のモノとして時計を手に入れたのは、小学校に上がった年だったろうか。
文字盤の中央でディズニーのキャラクターが踊る、手巻き式の腕時計だった。
当時、時計はまだ高価な商品で、子供が持つのはとても贅沢なことだった。
やっかみ半分の近所の子供たちから、顔を見るたび時刻を尋ねられて閉口したおぼえがある。
やがて、私がおとなになるにつれ、父が無理をしてでも小学生になったばかりの坊主に高価な時計を買い与えた意味が、徐々にわかってきた。父はきっと、こう言いたかったのだ。
「息子よ、時を惜しめよ。どのように時を過ごしたか、それがどのように生きたか、ということになるんだよ」と。
その証拠に、中学、高校、大学、就職と、節目を迎えるたびに、私は時計をプレゼントされた。
その間に、時計はその機能もデザインも価額も、大きく変化した。
何よりも、人々が時計に対して持つ価値観が最も変わったのではないか。
だが父だけは変わらない。私の二人の子供たちも、節目のたびに時計を手に入れている。自分の父親ではなく、彼らの祖父に買ってもらったものを、である。
記念すべき年に、大切な人に時計を贈る。これは贈る側にこそ、大きな意味を持つ儀式なのだろうか。
「母のくれた腕時計」もりちよさんのエッセイ
私が高校に入学するお祝いにと、母が腕時計を買ってくれた。といっても、一緒に買いに行くのも煩わしく感じて適当に自分の好みを伝えて買ってきてもらったもので、あまり感激はなかったように思う。最初は目新しいこともあってはめていたけれど、手首に何かついている感覚に慣れきれず使う機会は少なかった。
再びその時計を見たのはつい最近。私は結婚して子供も生まれた。母親と会うのは年に2,3回ほどのペースだ。ダンボール箱を整理していたらこまごましたアクセサリーとともに、あの時計がでてきた。ずいぶん久し振りの出会いである。時計の針は止まっていて動かない。久し振りに見るその時計はデザインもすっきりしていて、買ってもらった当初よりも自分に似合っているように見えた。
子供を連れて買い物中、近所の時計屋にその時計を持ち込み電池交換をお願いする。久し振りに見た時計をこんなに気に入ることができたことが自分でも意外で、ちょっと嬉しかった。だが時計を見ていた店主の顔が難しくなる。「電池切れじゃなくて壊れてるみたいですよ。部品を取り替えないと」。値段を尋ねると即答は出来ないが1万円以上はかかるとのこと。なんとなく気が抜けてしまい、結局修理を断って店を出た。そんなにお金をかけてまで直そうとは思わないけれど…。
結局、動かないままに壊れた時計は相変わらず私の手元にある。捨てようにも捨てきれない、いつのまにか私の中でその時計を大切に思う気持ちが育っていたようだ。こういうのを、思い出の品というのかな、と思う。
「あなたの生きた時を刻んで」空さんのエッセイ
留学するからと突然言い出して、「淋しい」とか「行かないで」とか私に言う間も与えず、見送りに行った空港で、あなた自分の腕にはめていた腕時計を私にくれた。
「俺のいく国の時間に合わせてあるから」と言った彼に
「かっこつけて、ドラマの見過ぎよ」と必死で照れ隠しをした私をあなた、笑って見ていた。
あなたが帰って来るまでは、これがあなた変わりだと、あなたの過ごす大切な時間だと思い、信じていたのに、それから数ヶ月たったまだ寒い冬の朝、我が家に一本の電話が鳴り、受話器をとったむこうで、その人は声を殺すようにして、昨夜、彼が事故で死んだことを告げた。
彼の、誕生日の日だった。
あなたを思い出にしてしまうには、まだまだ足りない時間。
だってあなたがくれた腕時計は、まだ現地の時間を刻み続けている。
あなたはここに帰って来たけれど、心はきっとまだむこうにあるのね。
「いい国なんだ、人もほがらかでね。将来、一緒にここで暮らさないかい?日本とは違って、ここはとても時間の流れがゆるやかだよ。」
それが、私の聞いた最後の言葉になった。
あなたのくれた腕時計は、今もゆるやかにあなたの愛した国の時を刻み続けている。
「青い青い腕時計」ライニャーさんのエッセイ
それは初めての恋だった。もちろんそれまでも片想いだとか、友達に毛の生えた程度のお付き合いならしたことはあったけれど、正真正銘本当の本物の恋はあの18の初夏から始まった。
その恋の始まりは一本の電話だった。その電話の主は斜め後ろの席の少年Hだった。Hとは話をしたこともなければおはようの挨拶すらしたことがなかった。そんな少年Hからの電話。私はかなりドキドキしながら話をした。とりとめのないたわいのない話を終えた少年Hは最後に「友達になってくれ」と言った。「べつにいいけど」私は答えた。口からさっき食べたばかりの夕食を吐き出しそうになるくらい、心臓はドキドキしっぱなしだったが、つとめてさりげなく私は答えた。
それから幾日かして私たちは恋人同士になった。相変わらず私はドキドキしっぱなしだった。
2ヶ月がたった7月14日。少年Hが初めてプレゼントをくれた。手のひらサイズの箱に入ったそのプレゼントはブレスレットのようなきれいな腕時計だった。文字盤は青くそれは宇宙のようでその周りを三日月がかたどってあった。青い青い空の下、青い青い海を前に、青い青い腕時計はいつまでも私の腕に輝いていた。
青い青い腕時計は二人の間でいくつもの時を刻んだ。いくつもの思い出を刻んだ。
時には睨まれたり、涙で濡らされたりもしながら・・・・
あれから10年が経ち青い青い腕時計は動かなくなったけれど時々腕にしてみる。いくつもの思い出とともに青い青い腕時計は私の腕にいつまでも輝き続ける。そして私の隣にはもう少年ではなくなったHが笑っている。いつまでもいつまでも。
「淑女の腕時計」Asamiさんのエッセイ
私は生来ずぼらで、約束の時間に遅れてばかりいる。
駅まで走りながら何度も腕時計を見やるたび、ああ、あの人にはまだほど遠いとため息をつく。
「あの人」とは私の小学校4年生のときの担任、芳野先生である。
小柄でウェーブのかかった髪が長い、控えめな女性だった。
いつも地味なスーツ姿が多かったが、腕時計だけは別だった。
細い金のチェーンベルトのもの、光沢のある銀のブレスレッド型、
茶の革ベルトで留めたムーンフェイズ。
先生の持っていたたくさんの腕時計は、毎日彼女の腕を華やかに彩っていた。
今思えば、教師として押さえた個性を、そこへ凝縮していたのだろうか。
授業も終わりに近づくと、先生は壁掛けの時計ではなく、
少し上げた自分の腕にちらと視線を走らせた。
「今日はここまでにしましょう」という言葉が出ると、待っていったように鐘は鳴った。
伏せた目から腕時計に注がれる視線に、私はよく見とれていたものだった。
その優雅で女らしい動作に、漠然と大人への憧れを感じていたのである。
自分もいつの日か同じようになりたい。そう思ってから、15年の歳月が過ぎた。
私は未だあの優雅さには追いつけないでいる。
道のりは遠そうだが、腕時計を携帯電話で代用する無粋な真似はしないつもりだ。
「ピンク」SHINOさんのエッセイ
「ピンク」。ピンク色といってもいろいろある。生まれたての赤ちゃんの肌のデリケートな色、少女が着ているワンピースのような愛らしい色、ドキリとする余蘊刺激的ななルージュの色、・・・。私はそんなピンクが嫌いだった。なぜか女性らしさを感じさせる、甘い、どこか媚びた感じのするこの色が大嫌いだった。
しかし、いま私はピンク色の腕時計をしている。ショーウィンドウに飾られていたピンクのスウォッチに魅せられたのは、ちょうど20歳のクリスマス前だった。当時、学生だった私のバイト代でも買うことができる安価なもので、時計を耳に近づけるとおもちゃのように「チャッ、チャッ、チャッ」と時を刻む音がした。時折、腕にはめた時計を見てみる。ピンクの文字盤が等間隔に眈々とした表情で並んでいる。少しベージュが混じったような深みのあるピンクのベルトは、細かいラメを含んでいるようでもある。ただ見ていて飽きない。偶然にしか見ることができない夕方の空のようなピンク色なのだ。
不思議なことにこの時計をしていると幸せな気持ちになれるのだ。手許にピンクがあるだけで、なぜか優しくなれる。ピンクの腕時計は人目につくのか、身振り手振りをして話していると私のみならず周囲の人々もいつしか幸せな笑顔に包まれていく。ピンク色した夕焼けの空が私たちを包んでくれているようだ。秒針が時を刻む「チャッ、チャッ」の音と一緒にフットワークも軽くなっていくのがわかった。でもどうしてだろう。あんなにピンクが嫌いだったのに。
強くなりたくて、とんがっていた10代。男の子に負けたくなかった10代。いつのまにかピンクを敬遠していた。でも今は違う。無邪気でかわいいピンク、女性らしい艶やかなピンク、地球ごと優しく包み込んでしまう和やかなピンクが大好きだ。そう思えるようになったのは、ピンクの腕時計のおかげだ。肩の力がすぅっと消えた。
「はじめての腕時計」akkeさんのエッセイ
私がはじめて腕時計をもらったのは、中学にあがるとき。
父がパチンコの景品でもらってきた物でした。
進学のお祝いのプレゼントがパチンコの景品だったことに、
母は少々腹を立てた様子で、露骨に嫌な顔をしていました。
だけど・・・私はとても嬉しかった!
水色の文字盤と水色のベルト。華奢なデザインでとっても素敵だった。
つけているだけで大人の女性になれた気分でした。
そして、父から大人っぽい腕時計をプレゼントされた事で、
私もこれで少し大人扱いされたのだと、
そう思えたことが何より嬉しかったのです。
その晩はもちろん、腕時計をしたまま寝たのでした。
あの時の嬉しさ、初めて自分の腕時計を手にした感動は、
10年以上が経過した今でも、鮮明に思い出すことが出来ます。
素直に嬉しかった時の記憶って、きっと一生忘れないのでしょうね。
それから、今では当時の母の不機嫌な顔のことも、
「くすりっ」と笑える出来事になりました。
なぜなら、私も結婚して子供が生まれたからです。
私は自分の子供への、初めての腕時計を、どんな風に渡そうか。
今から楽しい悩み事です。主人には譲れないぞ。うん。
「初めての腕時計」ひっぴぃさんのエッセイ
私の周りでは、小学生の頃から皆腕時計をもっていた。
私は中学生になってもまだ腕時計を買ってもらえず、すごく友人が羨ましかった。両親におねだりしても駄目だった。どうしても必要なときは、姉のものを借り、貸してくれない時は父か母のものを借りた。
高校に入学した私に初めて腕時計をプレゼントしてくれたのは、兄だった。
すごく、すごく嬉しかった。
「安物だから、おもちゃみたいなものだよ」
兄の気持ちがすごく嬉しかった。友人のどんな高い腕時計よりも良い物に見えた。
どこに行くにも寝るときにもつけていた。
余りにも使いすぎて、皮のベルトが切れてしまった。
仕方ないので、ポケットに入れて持ち歩いた。
母が「新しい腕時計買う?」と聞いてきたが「いらない」といった。「じゃぁ新しい皮ベルトに変える?」それも断った。
兄がくれた腕時計。それは、兄が私のために選んで買ってきたもの。ベルトを変えると違うものになってしまいそうで嫌だった。
見るに見かねてか次は姉が私に腕時計を買ってくれた。
「それ、もう腕時計じゃないよ」
確かに、腕にはつけれない腕時計。仕方ないので兄に貰った腕時計は皮ベルトを全てとり紐を通して机につるした。
私の腕には二代目腕時計。嬉しかった。姉や兄の気持ちが嬉しかった。
この時、友人の言葉で初めて気が付いた「お姉ちゃんやお兄ちゃんのと仲良いんだね」
そうかもしれない。喧嘩ばかりと思っていたけど本当は大切な姉や兄。
私の使い方が悪いのかしばらくすると二代目も一代目の隣に並ぶことになった。
今でも思い浮かぶ姉や兄が「まだ持ってるの?捨てればいいのに」と言ったときの顔。
”大切な物なんだよ”心の中でつぶやいた。
紛失しないようにと、それから何かの箱に入れて、今はどこにあるか分からない。どんなに探しても見つからない。
あの二つの腕時計は私に大切なもの教え与えてくれた。
ずっと、お守りだと思っていた。辛いとき握り締めていた。
家を出てから心の支えだった。人間関係に悩んでもこれを握って頑張れていた。
どんなに探しても、出てこない腕時計、今もう一度この手で握り締めたい。
「君の一生」そういちさんのエッセイ
こんにちわ!
これからよろしくな!
ぴかぴかだな− 君ばかり見てると時間が気にならないなぁ
風呂も一緒だぞ 寒い日 暑い日 僕の彼女です
えっ?袖で見えない? まあまあ、、
試験勉強ねむいです
最近ピカピカじゃないね 歳をとったのさ
マイペ−スってやつね
あれ?休憩かい?また電池いれてやるからな
これからも僕の人生みててくれよ 僕のもう1人の家族ようん(^^)
「止まった時計」マヨイネコさんのエッセイ
最近左手につけていたシルバーの腕時計が突然止まってしまった。「なに?もう電池切れ?」
時計屋に持って行く時間もないままに、一日、一日が過ぎてゆく。いつもより身軽な左手が物寂しく思える。と言うよりも不便で仕方がない。いつもの癖でつい時間を見ようと視線を下に落とすのも、うっとおしく思えてきた。
仕事に行く朝、ふと換わりになる時計はなかったかと、タンスの引出しの中をガチャガチャとあさってみた。使わなくなったアクセサリー、かたっぽしかないピアスの山、お土産にもらったいくつものお守り。その中に私はすっかり忘れていた一つの腕時計を見つけ出した。ただでさえ時間のない朝にあれやこれや迷ってる時間などあるわけがない。私はとっさにその時計をなれた手つきで腕につけるとそそくさと出勤した。その時計がもはや時を刻むのをやめてしまっている事にも気が付かないままに・・・。
満員電車に揺られる中、ふと時計に目を向けた。「ん?んん?12時・・・半」それに気が付くまで時間はかからなかった。「動かない時計つけるなんて、バカみたい!」と思うと同時にその時計からどこか懐かしい匂いが漂ってきて鼻を優しく刺激した。そしてゆっくり過去へタイムスリップしてゆく感覚に溺れた。今となっては黒いベルトは白く擦り切れ表面のガラスにも細かな傷が沢山ついている。おまけに動かなくなった・・・。
高校の入学祝いに買ってもらったその時計。初めて手にしたピカピカの時計。嬉しくて、少し大人になったみたいで、毎日毎日磨いていた。制服からチラッと覗く瞬間がたまらなかった。時にさりげなく見せたりして、とにかく自慢の時計だった。
しかし、そんな大事なものをなくしてしまうという事があるのだ。気がついたら時計は自分の居場所を離れ、姿を消してしまった。「どこかに落としたに違いない」学校中を探し回り、半べそをかきながら夕暮れに染まる校舎の中を捜した。そんな日がどれだけ続いただろう。回りの友人も人事とは思えない様子で毎日一緒になって学校を旋回してくれた。「絶対見つかる!」と最後まで諦められなかった。と言うより見つかるような気がしてならなかったのだ。しかし何の手がかりもないままに毎日が過ぎてゆく。時間が経てば経つほど宝物との距離が遠のいていくように感じられた。そして長い1ヶ月が過ぎようとしていたある日。「ねぇっ!今ね、体育教官室行ってきたんだけど、なんか落し物の時計あるみたいだよ!!行ってみなよっ」思いがけない吉報が私の耳に入ってきた。半信半疑、いや、根拠のない確信を抱き私は抑えきれない興奮を露に教官室のドアをノックした。体育教官室には2.3人のモリモリした体格のパンチパーマが良く似合う先生が居り、生徒から常に恐れられていた。わたしのも何度か呼び出しにあい、何度かお邪魔した事があったが、そのときは一切の事を忘・れていた。「早く、早く時計に会いたい」それだけだったのだ。先生はそんな私に「落ち着け!」といって注意していたように思える。ゴツゴツとした大きな手から顔を出していたのは・・・まさしく私の時計だったのだ。1ヶ月もの時間を経て私の手に、元の居場所に帰ってきたのだ。私は先生に抱きついてしまうほどの勢いでお礼をいい、あらとあらゆる人へ感謝をした。信じていた通り時計は小旅行をして帰ってきた。一月ぶりに再会した私の時計はどこか薄汚れて、やつれたように思えたが今まで以上に愛着が湧き、大切にするようになった。
電車がカーブに入り大きく揺れた。思い出の中を浮遊していた意識が元に戻り、止まっていた時間が再び動き出した。ピクリとも動かない古びた時計。胸の奥が熱くなる。この時計との懐かしい思い出。なんでもないきっかけで再会し、思いがけない所でこの時計から素敵な時間の贈り物を貰った。
ホームに降り、いつもの道を小走りに急いだ。そして心に決めた。
「今日、時計屋さんにいこう!」
時を越えて私はかけがえのない宝物を手にしていた。
「銀の腕時計」えりさんのエッセイ
私はあの時計をいつも見ていた。ごちゃごちゃとしたショーケースの中で輝く銀の腕時計。ずっと欲しかった。でも私には値段が高すぎた。父にも母にも何度も頼んだが承諾は得られなかった。それでもあきらめずにねだり続けたらやっと折れ中学生になったら買ってもらえるという事になった。
忘れもしない1997年4月9日、入学式。ようやくこの日が来た。中学生になった。入学式の帰りに私は母と時計屋さんに立ち寄り念願の銀の時計を自分の物にした。それからは嬉しくてどこに行く時もつけていた。学校に行く時遊びに行く時はもちろん、そして家の中でも。しかしその割には不合理な所もあった。スカートのポケットに入れたまま洗濯してしまった事。机からつるりとすべらせて落としたこと。そしてよく行方不明にし探していた。でも時計はいつもチクタクと時を刻み私から離れなかった。
しかし。それは半年くらいたったある日の出来事だった。私は友達とプールに行った。水着に着替えそして忘れずに時計を外しロッカーに入れておいた。充分泳ぎそして帰ってきてロッカーを開けた。すると時計が消えていたのだ。嫌な予感が頭を横切る。誰かにとられたのだろうか・・。服に着替えるより先にかすかな希望を胸にフロントの人に落し物に銀の時計はないか聞いた。が、なかった。無用心に入れておいたから盗まれてしまったのだろう。こうなるなら時計をつけて泳いで壊れた方がましだった。夢であって欲しかった。残されたのはほんのわずかな時計との思い出。
あの時計は今どこだろう。まだ時を刻んでいるのだろうか。
「韓日の時差」mayさんのエッセイ
「コリアンタイムだョ!」そう言って彼女は待ち合わせの時間に遅れてくるのが常だった。韓国ではKoreanTimeといって独特の時間観念があるそうだ。ましてや美しくなることに異常に執着する韓国女性は化粧に時間を多く費やす。日本に留学に来て日の経たない彼女もご多分にもれずそうだった。僕と一生懸命コミュニケーションを取ろうと、覚えたての拙い日本語が上手く使えないのがもどかしいのか、体を大きく使い、時計を振りかざし言い訳する姿が堪らなく愛しく思えた。そんな彼女が夏休み中帰国することになった。見送りに行くと約束をした僕だが、まんまと約束の時間に遅刻した。「アナタもコリアンタイムもっているの?」
見送りの際彼女は「韓国と日本は時間がおんなじダョ」と教えてくれた。国際電話をするとき、時差が無いということを言いたかったようだ。「この時計で毎日11時になったら電話するよ」そういって彼女に僕の時計を付けて送り出した。
僕の左手にある彼女の時計は男の僕がするには気後れしそうなほど可愛らしいものだった。裏側には何やらハングル語で書いてあるが僕にはサッパリ解らない。息を吐き時計に残る彼女の香水の匂いを吸い込んでみると遠くにいる彼女を身近に感じることができた。生まれた国が違っても、違う文化を持ち、違う言葉を話す人でもこうして身近に感じることができる喜びと不思議さに心が震えるような感覚に襲われた。
「韓国と日本は時間がおんなじダョ」彼女の言う言葉に嘘はなかった。韓国と日本には時差はない。けど、様々な“差”を乗り越えてほんとに分かり合える「友人」になる為にはどうしたらいいんだろう。僕の左手にある不釣り合いな時計を見ながらそんなことを考えた。
「復活の時」mariさんのエッセイ
高校生の時、何度言っても遅刻する彼に、ディスカウントショップの軒先で大量に吊るされた安物のデジタル式腕時計を買って無理やり持たせた。
「時計なんかいらないよ」
10年前の高校生にはせかす時間もほとんどなく、もらった本人にもどうでも良いようなその安物の袋には、ご大層な「電池7年保証」の文字が踊っていた。
「こんな時計誰が7年も使うんだろうねえ」と二人で笑うほど安っぽいその時計は、それでもきちんと時間を刻み、時を知らせ、私達の役に立ってきた。ピカピカで、最新の機能を積んだ新しい時計を買うまでは。
その後彼は進学し、社会人となり、私の夫になった。時間は彼にとって貴重なものに変わり、時間の重要度と比例して腕時計も立派なものへと変わっていった。
そして何度めかの引っ越しを済ませ、古いものを詰め込んだ箱を開けたとき、懐かしいデジタルの腕時計が箱の隅の小さな袋の中から再び顔を出した。
なくしたことさえ忘れていたその腕時計は、誰にも見られることのない数年をへた今も、なんと正確に時刻を表示していた。知らせる人もないままに時を知らせ続けたその腕時計を見たとき、私の胸はぎゅうと熱くなってしまった。
夫もその時計がいまだに動き続けていたことに感激し、たくさんの思い出も一緒に甦ってきた。
思い出話を連れてきたその腕時計は、再会とともに我が家での復権を果たし、今は他のピカピカのほかの腕時計たちとともに、夫の時計箱に飾られている。
「二つの腕時計」ユメヒトさんのエッセイ
私の家の古い小さな引き出しに、二つの腕時計が仕舞われている
あれは、学生時代の寒い日…
電気店のショーウィンドーの中の学校の靴箱のように並んだTVから
「今年はホワイトクリスマスになりそうです…」と話し掛ける同じ顔を眺めながら、バイトで貯めたお金が入る財布と、私よりも冷たくなった彼女の手を握り時計店に入ったのを、今でもその腕時計を見ると思い出す…
同じ学校に通う彼女と揃いの腕時計を買おうと二人で決めたのだった…
「雪だから白い文字盤にしようと…」白い文字盤の揃いの時計を買い
一秒も違わぬよう時計店でしっかりと時計を合わせた…
古い小さな引き出しの二つの腕時計のひとつは今はもう止まっている…
その腕時計はどちらのものかはもうわからない…
「彼女は八歳年上の男性と結婚した…」と学生持代の友人に聞いている
「夢」ジェイさんのエッセイ
僕がその腕時計と出会ったのは高校入学して間もない頃。
父が入学記念にと言って買ってくれました。
振ると充電できるシンプルな形の腕時計。休み時間にはよく友達に面白がって振られてました。
家族と一緒に過ごした時。高校で友達とふざけあっていた時。バイトで。恋愛してる時。受験や大学生活で。いろいろな時を一緒に過ごしてきた腕時計。僕のお気に入りの腕時計です。
僕はもう二十歳を過ぎて、酒もそこそこ飲めるようになりました。父と酒を飲み交わしてみたいと思いますが、それは一生叶わない夢になってしまいました。形見ではないけど、父が生きていた記念的なものとして僕は一生この腕時計を大事にしていきたい、そう思います。
もしも僕が天国に行けるとしたなら、父と一緒に飲んでみたい。思い出を語り合いながら、間には親孝行に肩などもたたいたりもしながら。もちろんその時にはこの腕時計をつけて。
(注)この「思い出の腕時計エッセイ募集」に書いていただいたエッセイの著作権は、セイコーインスツルメンツ株式会社に帰属します。予めご了承下さい。
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