(2001年1月1日―2001年12月31日までの月間ベストエッセイ)
「シンデレラにした時計。」あかりんさんのエッセイ(12月の月間賞)
「最後の時計」やまみさんのエッセイ(12月の月間賞)
「大家のおばあさんの掛時計」masarumiさんのエッセイ(11月の月間賞)
「妻の3か月分」puckさんのエッセイ(11月の月間賞)
「手描きの腕時計」カモンエスさんのエッセイ(10月の月間賞)
「思い出の時計」isacさんのエッセイ(10月の月間賞)
「アナログ」Eikoさんのエッセイ(9月の月間賞) ----
第1回年間ベストエッセイ受賞!
「秘密」MORIさんのエッセイ(9月の月間賞)
「思い出の4時48分」Akikoさんのエッセイ(8月の月間賞)
「モダン・ガール」トシチャンさんのエッセイ(8月の月間賞)
「ママのサンタさんになった日」メイさんのエッセイ(7月の月間賞)
「“お姉ちゃん”の時計」くまこさんのエッセイ(7月の月間賞)
「忘れられない腕時計」てづまきさんのエッセイ(6月の月間賞)
「腕時計を見てはいけない」chutaさんのエッセイ(6月の月間賞)
「見栄張り時計」ナチさんのエッセイ(5月の月間賞)
「彼と時計」ミイさんのエッセイ(5月の月間賞)
「時計に恋した時のこと」himeさんのエッセイ(4月の月間賞)
「私の分身」タカチャンさんのエッセイ(4月の月間賞)
「初めてした腕時計」monetさんのエッセイ(3月の月間賞)
「初めて買った時計」たまご味のアイスクリームさんのエッセイ(3月の月間賞)
「いつか同じ腕時計を」komazawaさんのエッセイ(2月の月間賞)
「SilverWave」SilverWaveさんのエッセイ(2月の月間賞)
「父の形見の腕時計」ヨッシーさんのエッセイ(1月の月間賞)
「初めてのチクタク」purupooさんのエッセイ(1月の月間賞)
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2001年1月1日から12月31日までの全応募作品
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「シンデレラにした時計。」あかりんさんのエッセイ
私の母はとにかく働き者。私たち兄弟4人を看護婦をしながら育て、同居していた祖母と叔母にもいつも優しかった。少し傲慢な父のこともたてる、見ててイラダチを覚えるほどの良妻賢母ぶりだった。そんな母の誕生日に父は私を呼びだした。結婚後、初めてのプレゼントを贈ろうというのだ。結局、私の意見を全く聞かずに父が選んだのは、なんとも繊細な美しいデザインの時計だった。日に焼けた逞しい母の腕に不似合いなのは、どうみても明らかだったが、それを受け取った母は想像以上に喜んだ。
だが誰に言うともなく、ぼそっと「でもこんな上等なもの、して行く場所がないかも」とつぶやいた。そこで、これといった親孝行もしたことのないわたしたち兄弟がお金を出し合い、クラシックコンサートのチケットをプレゼントした。一度は行って見たいと言ってた母の言葉を弟が覚えていたのだ。嫌がる父の説得にも成功し、無事二人は初のクラシックコンサートに出掛けて行った。もちろん、嬉しそうにあの時計をつけて。それは思った通り、肉付きのよい母の腕には窮屈そうで、借り物のようだったけれど。何十年かぶりのデートから帰宅した母は、「夢のようだったよ、ありがとう」そう言った。その時、母の日焼けした真っ黒な顔が、涙がでそうなくらいステキに見えた。そして清楚ではかなげなデザインの腕時計が、そんな母に良く似合っていると思った。それがきっかけになって年に数回は二人だけで出掛けるようになった両親。その時だけ箱から出されるあの時計は、母にとってのガラスの靴なのかもしれない。夢のような時間を過ごすための。
「最後の時計」やまみさんのエッセイ
父の誕生日に
「何が欲しい?」
とたずねると、父は
「時計」
と答えました。私は
「高級なのは買えないよ」
と言いましたが
「それがいいんだ」
と父は言いました。父は母からもらった時計をしていました。それは父にとって少し高級で、しかも母からのプレゼントと言うこともあり、いわゆる『よそいき』だったのです。大切な物をしまっておきたいのはA型の性分か、私にはとても理解できました。私は喜んで父が心おきなく使える程度の時計をプレゼントしました。だけど私には父が毎日使ってくれることの方が嬉しかったのです。30年サラリーマンをしてお風呂以外は時計が離せない父。
私が高校3年生になった時、父がガンで入院しました。2度と退院できないことを私は知っていました。しかし父はベッドの上でも時計をはめ、毎日決まった時間に起き、
「規則正しい生活をしていないと、会社に復帰できない」
と言って時計をにらんだ生活をします。私のあげた時計は父を縛っているのだろうか。私は「ゆっくり落ち着いて」と言って時計をはずしたい気がしましたが、時を刻む時計と共に父が生きているのだと気付きました。父の支えになってくれた時計。父の鼓動が止まっても、時計は動いていました。やがて時計も針を止めましたが、父の命はそこに刻まれているのだと思います。
「大家のおばあさんの掛時計」masarumiさんのエッセイ
私と娘が五年間過ごした借家は、大家さんの庭に立っていた。
大家さんは、おじいさんとおばあさんで、息子さんが二人いらっしゃったそうだが一人は中学生のとき病で亡くなり、もう一人はまだ結婚されていなかった。おじいさんもおばあさんも孫のように娘をかわいがって下さっていた。私の勤めは時々残業もあって、そういう時、おばあさんが保育園にお迎えに行って下さり、「るみちゃんのおばあさんですかと言われたのよ」と嬉しそうに話してくれた。
私は夜遅く、大家さんの家に娘を迎えに行った時、おばあさんと玄関先に座って長話をした。大家さんの玄関先には掛け時計があり、私はその時計を見て「こんな時間になってしまい申し訳ありません」と毎回言ったが、おばあさんはいつも「まぁちょっと座って話してったら?」と言って下さった。冷え込む夜もあったが、大家さんは嫌な顔もせず、私の日々の母子家庭の不安、仕事の愚痴などを聞いて下さり元気づけて下さった。私は掛け時計の針がどんどん進むのを気にしながらも、甘えて色々な事を話したように思う。そして私は安心して娘とともに自分の家へと帰って行った。勤め先の掛け時計に比べて、大家さんの玄関の掛け時計はずいぶん昔のデザインだったが振り子がゆっくり刻むリズムさえ、「焦らなくていいんだよ」と言ってくれているようだった。
私はやがて故郷の人と再婚をし、大家さんの家からはるか離れたところに家を構えた。生活に追われ、私も夫も、毎日目覚まし時計で起き、せわしなく日々を送った。そのうち、赤ちゃんが生まれた。大家さんの事は気にかかっていたのだが、それ以上に毎日が猛スピードで過ぎて行った。私は毎日、段々疲れがたまってきたような気がした。何かを忘れているような、でもそれが思い出せないような気がした。先日思いきって電話をしてみた。「元気にしてたぁ?」なつかしい声が聞こえてきた。連絡をせずにいた私を責めるでもなく、本当に変わらない暖かい声だった。「ほんとうにひさしぶりです。申し訳ありません」涙が出そうになった。背後で丁度その時、掛け時計が夜8時を打った。あの不安だった日々に聞いた暖かい時を知らせる音。「焦らなくていいんだよ」というおばあさんの言葉が思い出された。しばらく話をして電話を切った時、安心が胸に広がり、あの疲れが取れている事に気がついた。そばで聞いていた主人が「今度大家さんのところへ行ってみようよ」と言ってくれた。うちにも今度、掛け時計を買おうかと思う。色んな事があっても淡々と乗り越えて・こられた大家のおばあさんのように、私もなりたいと思うから。
「妻の3か月分」puckさんのエッセイ
我が家の家族構成は、結婚して2年目の妻と0歳児1人、そして私の3人である。
妻は専業主婦。私1人の収入でつましく生活している。
贅沢はできないが、クリスマスとお互いの誕生日だけはささやかでも祝っている。
毎月私から妻に渡す生活費の中には、自分の1万円、妻5千円の小遣いも含まれている。
結婚して判ったことだが、これだけの小遣いを捻出するのもぎりきりで、妻には申し訳ないという思いでいっぱいだ。
それでも文句を言わない妻には、せめてもの思いで、クリスマス、誕生日には預金通帳から引き出すいわゆる特別勘定にてプレゼントを贈っている。
もちろん、自分へのプレゼントはあきらめているのは言うまでもない。自分がふがいなく、稼ぎがわるいのだから。
そんな折り、私の誕生日に1万5千円を超える腕時計を妻がくれた。
月5千円しかない自分の小遣いをためていたというのだ。
うれしいのと、申し訳ないので涙が出た。いいかえれば妻の給料の3ヶ月分ではないか。
私の場合、妻にプレゼントはあげているとはいっても、結局は通帳から落としていることに変わりはない。自分を恥じた。
少ない金額かもしれないが、小遣いなんだから、自分の好きなものを買えばいいのに。「小遣いが足りなくて、化粧品も買えない。」と言ってくれたほうが、かえって楽だったかもしれない。それなのに、まさか貯めていたなんて。
そういえば、最近妻は化粧品を買わなくなっているのは気づいていた。
女性はいくつになってもきれいでいたいと思っているのは知っている。それを奪ってしまい、切り詰めさせ、前から欲しいと思っていた時計を買わせている。妻にこんなことまでさせて貰ってしまったこの時計。ずっと大事に使っていきたい。そして、一生妻を大事にしたい。
「手描きの腕時計」カモンエスさんのエッセイ
虚をつかれ、目がくぎ付けになった。私はそんな時計を見た事がなかった。たぶん、言ってしまえば、なんだそんな時計か、と思うだろう。誰だって簡単に手に出来る時計なのだから。しかし、それでも、私はその時計を持つ事が出来なかった。
保育園でボスに君臨にしていた私は、さて、今日はどんなおもしろいことをしようかと腕組みしていた時、なにやら騒々しい一角が目に止まった。いつものけんか相手の純太君が中心にいる。あいつまた自慢話でもして、仲間を取り込もうっていう魂胆だな。いっちょ、やっつけてやらないと。そう意気込んで、輪の中に割って入った。その時、私の目に飛び込んできたのが、その時計である。これ見よがしに差し出された純太君の手首には、黒の油性マジックで、堂々と腕時計なるものが描かれていたのである。
これさ、パパが描いてくれたんだ。大人のちょっとした悪知恵と遊び心。が、それよりなにより、父親との濃密な時間と温かい愛情を、その手描きの腕時計は物語っていた。誰もが、いいな、いいなと熱い視線を送っている。今日家に帰ったら僕もお父さんに描いてもらおう。うん、私も。友達は皆はしゃいでいた。私はただ黙ってその時計を見つめるだけだった。勢いよく膨らんでいた心が、見る影もなくしぼんでいった。ボスの威厳はもう、ない。プイッとその場を離れた。歯を食いしばったけど、涙が出てきそうだった。私は父と離れ離れに暮らしていたから、どんなに欲しくても、それは到底叶わぬ望みだった。
これまで幾つかの腕時計に出会ったが、どれも私の腕に長く巻かれる事はなかった。つい最近まで使っていた時計も、洗濯してだめにしてしまったばかりだ。殺風景な手首を見つめながら私は、本当はず―っと、あの時計が欲しかったんだよなと昔を思い出した。父は今、家で静かな生活を送っている。父にねだってみようか。いや、いい年して、みっともないだろうか。
「思い出の時計」isacさんのエッセイ
「どうしても時計がほしかった。たんじょう日の朝、机の上にママよりと書いた小さな包みがおいてあった。なかには時計がはいっていた。ぼくのほしかったドナルドダックの絵のあるデズニー時計。時計はズボンのポケットに入れられたまま、洗われてしまった。時計は、もう動かない。でも、時計は机のなかにしまってある」
これはあの子が小学校3年生の時に学校で書いた詩である。あれから、もう30年も経つが、わたしは一言一句、正確に覚えている。
「先生にほめられたんだよ」と自慢げに原稿用紙を見せてくれたあの子のうれしそうな顔は、今もわたしの脳裏に焼き付けられている。わたしは詩心などまったく持ち合わせておらぬおよそ唯物的で現実的な男だったが、その時、なぜかこの詩にひどく心を打たれ、たまらぬいとおしさが込み上げてきて、思わずあの子を抱きしめてしまった。その後、どんな時計を買い与えたかは記憶にない。
それから間もなく都会育ちの妻は姑とのいがみ合いに疲れ果てて、あの子を連れて東京の実家に帰ってしまった。あの時、妻を追って家を出ていたならば、まったく別の人生が開けていただろう。しかし、わたしはそうせずに安穏ないわゆる町医者の道を選んだ。妻たちの荷物を整理していて、あの子の机の中にその時計を見つけ、そっとポケットに忍ばせた。
先日、思いがけずあの子が演出し出演するドン・キホーテのバレー公演のパンフレットと招待券が届いた。30年ぶりにはじめて見るあの子の舞台姿に涙がとめどなく溢れた。公演が終わって楽屋に向かったが、廊下は花束を持った女性フアンでごった返していた。わたしは公演の間中に握りしめていたあの時計と腕にはめていた父の形見のローレックスをはずして封筒に入れ、受付の女の子に渡して立ち去った。
「アナログ」Eikoさんのエッセイ ----
第1回年間ベストエッセイ受賞!
来月定年退職する義父。一人っ子の夫は食事会でも開こうかと言った。じゃ何か記念品を、と私はプレゼントの品定めをすることにした。日頃あまり顔を見にもいけないのだし、こんなときくらい私の稼ぎでちょっといいものを。嫁として、そんな小さな見栄をはりたくて、私は腕時計に決めた。
それほど有名ではないけれどブランドもので、外国の職人さんが手作りしたという、機械式時計だ。毎日ネジを巻かなければならないところがこだわりっぽい。大人の男性に人気ですよ、という時計屋さんの言葉にもひかれた。なにより、これから義父には手のかかるこの時計が似合うような、優雅な時間を過ごして欲しいと思った。
食事会の義父は普段無口なのに定年後の夢を語り続け、楽しそうで、でも寂しそうだった。最後に渡した時計に、ありがとうな、と一言、お礼を言われた。
数日後、用事で電話をしたら義父がでた。気に入った、と言う言葉が聞きたくて「あの時計、どうですか?」と聞いた。「うん、どうも数秒遅れるみたいやな、いや確かめたわけやないけど」意外な言葉が返ってきた。私は焦った。しどろもどろに電話を切り、調べまわり、ようやく機械式時計では1月に4、5分の誤差は許容範囲内なのだと知った。
義父に知らせてあげようとして、ふと、涙がでてきた。せっかくの時計が、なんだ遅れるぞこれ、とどこかにうっちゃられている……
ため息をつきながら電話をすると、義母がでた。義父は出かけたという。
「そうそうこないだはありがとうね。あの時計、お父さんすごく喜んでね、寝るとき以外ずうっとはめてはるんよ」
え? 私が言葉を失っているなか、義母は続けて
「毎日毎日お昼になったらちゃーんと時報に合わせてはるの。私、毎日も合わせんでも、って言ったんやけど、やめへんのよ」
……時計を構え、時報に耳をすませている義父の姿が浮かんだ。
思わず笑みがこぼれた。さっきとは別の涙も、そこにまざった。
「秘密」MORIさんのエッセイ
あれはぼくがまだ中学生の頃だった。当時、ぼくにはサヤカというガールフレンドがいた。彼女の家は裕福で趣味も乗馬という、ぼくたち一般庶民からすれば、通常の生活からは縁のないものだった。
そんなぼくがサヤカとつきあうようになって乗馬を始めた。最初はまるで駄目であったが、三ヶ月もすると、なんとかサマになって乗れてきた。当然、二人のデートはいつも乗馬クラブであった。華奢なからだで巧みに大きな馬を操るサヤカはとても美しかった。
そんなある日、突然の入院をサヤカのお母さんから聞かされた。風邪をこじらせたらしいとのことで、ぼくはお見舞いに、貯金を下ろして買った腕時計をプレゼントした。もちろん中学生が買うものだから、高価な時計ではない。文字盤に花の絵が描いてあるピンクのかわいい時計だった。サヤカもとても気に入ってくれ、この時計をしていると辛く痛い検査も我慢できるのだと言った。
当時はなぜ風邪なのにそんな大変な検査があるのか気が付かなかった。それからしばらくして、サヤカは突然死んだ。深夜、急に容体が悪化し、家族の到着を待たずして死んでしまった。訃報を聞いて急行したところ、サヤカは自分の部屋のベッドの上で寝ていた、いや、ぼくには寝ているとしか思えなかった。それほど安らかな死に顔だった。不思議と涙も出ず、ぼくは葬儀の日取りを聞き、サヤカの家を後にした。ぼくがプレゼントした時計は、最後まで付けていてくれた。死ぬ間際も、主治医には「この時計が私を守ってくれるの」と言っていたそうである。
サヤカの家を出た途端、ぼくは涙が止まらなくなった。擦れ違う人が皆、振り返る。だけど、ぼくは泣いた。声をだして泣いた。火葬にするとき、サヤカのお母さんから、「この時計はサヤカだと思ってあなたが持っていて」、と言われ渡され、今でもぼくの書斎の机の中にこの時計はある。そのことは今の妻も知らない、ぼくだけの秘密となっている。
「思い出の4時48分」Akikoさんのエッセイ
小学校のとき、母が左手にしている時計にあこがれた。本人にはその気は全くないのだろうが、袖をめくってちらりと時刻を垣間見る後ろ姿がかっこよかった。友達が放課後に腕時計をしているのをみて、さらに欲しくて仕方なくなった。買ってよーと何度もおねだりしてに1月の誕生日にやっと買ってもらった。白のベルトと文字盤に赤の文字。かわいくて気に入った。それからというもの私はその時計をずっと大切に使っていた。
だがついにその時はきた。門限を5時と決められていた私は、いつものように腕時計をはめて出かけた。しかし友達のうちにいくといつも話込んでしまいその日も門限まであと5分となった。友達のうちから家まで15分。走っても10分はかかる。その時私は思い付いた。そうだ、時計を遅らせて知らなかったことにすればいいんだ。友達のうちから走って帰る途中腕時計を外し得意げに5分遅らせたあと、はめ直すのに時間がかかるからとポケットに入れたまま走った。やったーセーフ、ちらりと家の時計を見た。もちろん5分過ぎている。でも大丈夫、自信ありげに母に自分の時計を見せようとポケットに手を入れた瞬間、あれ、ない・・・どうやら道中に落としたようだった。でもなくしたなんて言えない。とっさに言い訳を考えた。道に迷っている人がいたから教えてあげて、途中までついていってあげたの。
一度家に入ったあと、時計を探しに行く口実を考えた。あれ、友達のうちに忘れ物をしてきたみたい。とりにいってもいい?
門限後の外出許可をもらった私はすぐさま家を飛び出した。それから私の目に涙が浮かぶまでにそう時間はかからなかった。私はすぐ前の交差点に落ちていた腕時計を発見した。やったー、あった。と思った瞬間、ぐちゃぐちゃに割れた文字盤をみて唖然とした。その時計には、4時48分が刻まれていた。その時計を手にして泣く泣く帰宅した私に母は優しく言った。確かに間に合ってたねって。
「モダン・ガール」トシチャンさんのエッセイ
私の母は大正生まれの、本人いわくモダン・ガールでした。確かに、着道楽なところはありました。身に付ける物全てにお金がかかっていて、本物志向でした。かなりな数でしたが、しかし、それは少しずつ買い揃えた物でした。母自身ががむしゃらに働いて、今で言う「自分にご褒美」の為に買った物でした。生活そのものも本物志向、ゆえにシンプルで無駄がありませんでしたし、何よりも物を大切にしていました。その分、私たち三姉妹には何も回ってきませんでした。「将来自分で一生懸命働いて買いなさい」と言っていました。しかし、子供たちの教育に関してだけはお金をしぶりませんでした。女一人でも生きていける教育を施してくれました。
母は終戦の翌年に、夫(私の父)を亡くしました。その時母はまだ32歳でした。それまで母は働いたことがなかったので、実際はとても苦労していたようですが、そこは自称「モガ」、ツライ顔など見せたことがありませんでした。「しんどい顔をしていたら、顔が歪む。シワが増える。本当に貧相になる」と言っていました。決して楽な毎日とは言えませんでしたが、母はたまにその日の気分に合わせて服、靴、帽子に腕時計をコーディネイトして、一人で映画を観に行っていました。
母はそんなに大事にしていた物をある日、処分していました。「もう着ないから。こういうのは、残していても、後の者が処分に困るから」と言って・・・。まるで自分の死期を予感していたかのようでした。その数ヶ月後、母は突然逝ってしまいました。残された遺品は、腕時計だけでした。それらは孫たちに喜んで引き取られて行きました。どこかフェミニンな部分を残しながらも、毅然とした感のするその腕時計たちは、母そのものでした。
「ママのサンタさんになった日」メイさんのエッセイ
前日の夜はもう8時ごろからベットに入った。どきどきして眠れなかった。明日は大仕事が待っている。なんせ気づかれたらおしまいだから。
あまり寝れなかったが、どうにか奇跡的に、目を覚ませば早朝5時近かった。私は枕もとにきちんと置かれた贈り物を手にサンタさんとなった。
私は母子家庭で母と2人で生活している。当時小学6年生ではあったが私のところには生まれて一度もサンタさんが来たことはなかった。私のサンタさんはあまりにも忙しすぎた。
そこで今年のクリスマスは私がサンタさんになろうとおこづかいでお花の腕時計を用意し、メッセージカードを添えたのだった。
起こさないように、静かにママの寝ているベットの上にたどり着きそっと枕もとにおいた。
今考えると、地震でも火事でも起きないママが起きるはずはなかったのだけど・・・。
どきどきしながら自分の部屋に戻り、安心して寝てしまった。
「バンッ」と部屋のドアが開き、走ってきたママは私を抱きしめた。ママが泣くと私も泣く。じきにママが笑い出して私も笑い出した。そしていつものように朝ご飯を食べた。
なぜ私がサンタってわかったかは、包み紙が近所のだんご屋のものだったかららしい。
ママは酔っ払うとすぐにお花の腕時計を見せびらかし、この話を何度も何度もする。
「“お姉ちゃん”の時計」くまこさんのエッセイ
もう20年以上も前の寒い冬の朝だった。父が私にこう告げた。
「弟が生まれたよ。」
あいまいな幼い記憶の中で、父に連れられ病院に向かう自分が腕時計をつけていたことだけは
鮮明に覚えている。
その時計は、アニメのキャラクターの胴体部分を開くとデジタルの時間表示が出てくる仕組で、原色のゴムバンドに通してある、おもちゃの延長みたいな代物だった。
でも、当時の私には大切な宝物。
そして私は何より初めて会う弟に見せたかった。
母のおなかが大きくなるにつれて周りから、お姉ちゃんになるんだよ、といわれていた私。
幼いながら、プレッシャーを感じ、“お姉ちゃん”になる自分を想像出来ないでいたのだろうか。時計を身に付けることで自分を勇気づけていたのかもしれない。
しかし、それだけではない。
母の大きなおなかに耳をつけて弟の存在を“聞き”、なんとも不思議で、楽しみでわくわくして過ごした日々。そして待ち望んだ弟とようやく会える日が来たのだ!
時計は精一杯の正装のつもりでもあったと思う。
姉になった自分のために、そしてはじめて会う弟のために。
その日、結局弟に時計を見せることはなかった。
赤い顔をした本当に小さな弟はすやすやと眠っていたから。そして私はその小さな姿にただただ見とれて時計を見せることなど忘れてしまったから。
その様子は、写真にしっかり収められている。
ベッドに眠る赤ちゃんを懸命に覗き込む幼女。
カメラを意識している様子はない。放心しているような、恍惚とした表情だった。
そして、その細い左手首には、はみ出るくらい大きなキャラクターのついた時計。
弟の人生の始まりの日。私が姉になった始まりの日。
その瞬間を刻んでくれた大切な時計。
あらからすぐその時計は壊れてしまい、もう今はない。
けれど、あの原色の愛らしいキャラクターの時計をいつも心のどこか身に付けて生きてきたような気がする。そしてこれからも。
「忘れられない腕時計」てづまきさんのエッセイ
私の左の手首には生まれつき茶色の大きなあざがあります。腕時計をするとあざはちょうど隠れて見えなくなるので、ずいぶん小さいころから腕時計をいつもしていました。
人に言われるのが嫌だったのです。
もうずいぶん前のことです。そのとき、私は中学生でした。
理科の授業で実習をしていたとき、不意に腕時計のバンドの金具が外れ、床に落ちてしまいました。小さく細い針のような金具は、理科室の木の床板の隙間に消えて、なくなってしまいました。
仕方なく私は輪でなくなった腕時計をポケットにしまい、実験を続けました。左手はいつもと違う不安な感じがします。軽くなっただけでなく、なんだか裸にされたような気恥ずかしさを感じたのでした。
そんな私の手つきは変だったのでしょう、隣りの席の男の子がどうかしたの、と話しかけてきました。
「腕時計の金具、落としちゃってん」
「フーン・・・あれ、手、なんかついとらん?」
私はびくっとして手をひっこめました。
「あざなの、うまれつき」
やっとそれだけ答えました。
真っ赤になって黙ってしまった私を見て、男の子は、びっくりしたような目をしました。
それからしばらくして、自分のしていた時計をはずして、私に押し付けました。
「貸したる」
短くそう言うと、それっきり男の子は話しかけてきませんでした。
少年向けのスポーツウォッチを見ると、あの時男の子が貸してくれた、ちょっと汚れた腕時計を思い出します。
「腕時計を見てはいけない」chutaさんのエッセイ
腕時計を見た瞬間「時計を見るな!」と怒鳴りつけられた。
生中を片手に楽しそうに語っていた社長から発せられた、突然怒鳴り声に、飲み屋の喧噪が遠のいた。
社長は言う「それは俺の話をもう聞きたくないと言っているのと同じだ」と。社長は、バイトで転がり込んだ僕も、社員の様に扱って、飲みにも連れて行ってくれる。彼にはいつも「何でも良いから常に周りを見て考えろ」と言われていたが、僕は様々なことにひどく無頓着で、意味が分からなかった。それでも僕は、その日以来、人に会うときは腕時計をはずすことにした。時計を見る無礼を無くす為だった。
しばらくして気が付いた。他人は僕を黙って見ている。ならば僕は彼ら以上に見て、感じて、考えなければならないと。腕時計を見ている暇は無い。そのうちに僕は腕時計をいちいちポケットにしまわないが、覗き見ることも無くなった。他に見るべきものはたくさんあると、体が覚えたのだと思う。
「父の形見の腕時計」ヨッシーさんのエッセイ
私の大切な時計は、父の形見の時計です。 私の父は「100歳まで生きる」が口癖でしたが、その半分の50を超えたばかりの一昨年ガンで他界しました。
ちょうど私の結婚が決まり、これから準備というときに父の病気が発覚し、その半年後に亡くなりました。結局父は私の花嫁姿を見ることは出来ませんでした。
父の葬儀を終え家族が日常生活に戻った頃、居間にある仏壇から時計のアラーム音が聞こえてきました。父が毎日していた腕時計のアラーム音でした。
それまで気にもとめていませんでしたが、父が生きている頃から毎日同じ時間になるとアラーム音を鳴らせていたのです。小さいけれどしっかりと聞こえてくるその音に、この居間でくつろいでいた父の姿が思い出されました。
父は建設現場で土や埃にまみれて働いていたので、毎日していた腕時計も汚れて傷だらけになっていました。 しかし父がいなくなった今、私たち家族にとって、父の汗がしみこんだこの傷だらけのデジタル時計は、どんなにキレイで高価な時計より大切な宝物です。
この腕時計は今、父と最後に行った家族旅行の写真と一緒に仏壇に飾られ、時を刻み続けています。 新世紀を迎え、私は先延ばしになっていた結婚式を間近に控えています。
一緒に腕を組んでバージンロードを歩くはずだった父はいませんが、父の面影を思いながら私はお嫁に行きます。 父も私の花嫁姿を遠くから見てくれていることでしょう。
今でもあのアラーム音を聞くと、時間と共に薄れてしまう父の面影が鮮明に思い出されます。 父の人生は止まってしまいましたが、この時計だけはこれからもずっと家族の写真の横で
時を刻み続けて欲しいと思います。
「初めてのチクタク」purupooさんのエッセイ
「ほら、孝ちゃんの欲しがっていたチクタクだよ。」
小学生になった最初の日、石田の叔父さんが、そういって私の腕に巻いてくれた、小さくて、シンプルなボーイズウオッチ。叔父さんが高校生の頃に使っていたTissotの手巻き式だった。三越の時計部に勤めていた叔父さんが、自分の手で修理を重ねながら、ずっと大切にしてきた時計。託された、宝物。
少しだけ大人気分の私にとって、ドキドキする素敵な贈り物だった。
私は小さい頃からチクタク(時計)が大好きだった。当時住んでいた家から歩いて数分。表参道交差点に面して、大きな時計屋のショーウインドウがあった。両親や叔父さんと散歩に出ると、玩具屋よりもそのショーウインドウの前で動かなくなった。
チクタク、チクタクと時を刻む針の動きは、魔法のように思えた。
最初の時計は、それから約10年間、私の左腕で時を刻んだ。
高校生になって時計はセイコーの自動巻に変わった。それも叔父さんの見立てだった。粗野で乱暴になった私の左腕に、あまりにも上品な佇まいの、キングセイコーという名のその時計を、私はあまり大切にしなかった。落としたり、投げ出したりするうちに、私の左腕はなにも身に付けなくなっていた。
大学を途中で出て、社会で働くようになってから5年ほど経ったある夏、
石田の叔父さんは亡くなった。静かな面影にぴったりの、静かな幕切れ。
まるで時計がピタリと止まるような、そんな死だった。
少ない身内だけの見送りの後、父が私に自分のはめていた腕時計をはずして、渡した。
見覚えのあるキングセイコーだった。
「お前のお古だったけど、気に入ってたから。石田さんに頼んで、修理してもらいながら使っていた。」叔父さんのはにかんだような笑顔が、ふと過った。
あれから10年、キングセイコーはキチンと正確な時を刻んでいる。が、今でも私の左腕は、時計をしない。それは叔父との大切な想い出を、再び失くさないためなのだ。
「いつか同じ腕時計を」komazawaさんのエッセイ
父の腕時計が好きだった。鈍く光る、銀色の腕時計。洒落っ気がない実用一点張りの時計だったが、その無骨なところが好きだった。
小学校3年生の時だったと思う。日曜の朝、目がさめると、居間のテーブルの上に父の腕時計が置いてあった。帰宅が遅く、腕から外したまま眠ってしまったのだろう。いけないことだとはわかっていたが、私はたまらず手を伸ばし、そっと自分の腕に付けてみた。
ヒヤリとした金属ベルトの感触。思っていたよりも、ずっと重い。私は、父が眠っているのをいいことに、そのまま外へ出かけた。ちょっとだけ友達に見せびらかしたかったのだ。
思ったとおり、悪ガキたちも興味を感じたらしく、父の腕時計に群がった。「かっこいーなー」「すげー」「オレにも見せてよ」と数人が揉み合ったそのとき、腕時計がするりと飛んで、道端の用水路にポチャリと落ちた。全員が青ざめたが、子供に拾えるはずもなく、怒られることを覚悟で私は家に戻った。
ベソをかきながら事の顛末を話すと、意外にも父は怒らなかった。「いいんだよ。それより、用水路に入らなくてよかった。なに、時計なんかまた買えばいいさ」といって笑った。父の寂しそうな笑顔。そのとき私は、自分が父の信頼を裏切ったこと、そして時計よりも私のことを心配してくれたことを知って、大声で泣いた。
その後、父は違う腕時計を買った。お気に入りだったあの時計と同じものは、見つからなかったようだ。日本製ではなかったのかもしれない。
あれから30年。いまでも私は、時計売り場の側を通ると、ついあの腕時計と同じものを探してしまう。もしかどこかで見つけることができたら、それを買って父に返したい。
父はもう、忘れてしまったかもしれないけれど。
「SilverWave」SilverWaveさんのエッセイ
私が中学に入学するとき、父が腕時計を買ってくれると言いました。
うれしくて、カタログで格好よさそうな腕時計を探し、父を引きつれて近所の時計店へ行きました。 ところが、店のショウケースに並んだピカピカの時計を見て目移りし、なかなか決まらないでいる私に、父が「カタログのはどれだ」と急かせました。
「これだア。」と私が指差した時計の値札を見た父は、少しマイッタような顔を見せながらも財布の紐を緩めてくれました。
ピカピカの腕時計は見た目はシンプルでも10気圧防水と頑丈で、名前もシルバーウエーブと格好よく、毎日学校にしていくのが楽しみでした。
時が経ち、私は消防官になりました。始めての火災現場での活動は想像以上に危険で、苦しく、そして、やりがいのある仕事でした。ちょうど今のように寒い夜中、全身ずぶ濡れで顔中すすだらけにした先輩が鼻水を垂らしながら「よく、頑張ったな」と労われたときも私の腕にはシルバーウエーブが光っていました。私も先輩になり、煙の噴きだす2階の窓に進入しようと、はし子を登っているときのことでした。後輩にはし子を押さえさせホースを担ぎ、はし子を中段まで登ったところ、バックドラフトに似た爆発で2階の窓枠が落下してきました。咄嗟にはし子にしがみ付いた私の左腕にガツンと衝撃を感じました。「しまった、腕が切れたか。だが、この手を離せば転落する。」と思いながらも、はし子の途中ではただ落下物がおさまるのを待って絶えるしかありませんでした。(こうゆう場面では不思議と痛みは感じないものです)しかし、私は救急車で運ばれることはありませんでした。切れて血だらけであろう私の左腕には、身代わりになってくれたシルバーウエーブが煤だらけで時を止めていました。
以来、私の左腕にはお守りとしていつもシルバーウエーブが時を刻んでいます。私と一緒に24年、パーツが無く電池交換も大変な状態ですが、これからも私の体の一部として永く付き合っていけるよう願っています。
「初めてした腕時計」monetさんのエッセイ
私がはじめて腕時計をして、すごく感慨深かったのは、高校の受験の時です。
高校受験に行く時だけ、中学校に腕時計をして行ってよくて、なんだか誇らしげで、急に大人になった気がしました。
それまでは自分の腕時計は持っていなくて(おもちゃみたいなのは持っていたけど)、高校に合格したら、腕時計をプレゼントしてくれると叔母が約束してくれていて、あんまり物を貰っても「嬉しい!」と心から思う事の無い私でも、合格した嬉しさもあって、高校合格祝いの腕時計は本当に嬉しかったことを覚えています。物忘れの激しい私でも無くすことなく大学生になるまで、きちんと使っていました。
大学生になって、バイトをしてすごく分不相応な高級な腕時計を買ってから、その叔母に貰った腕時計は使わなくなってしまいましたが、腕時計をするということは、何だか大人の証拠のような気がして、大好きでした。
なのに、いざ一応「ホントの大人」になってみると、車に乗れば時計があるし、携帯にも時刻が表示されるし、日にちや曜日まで表示されるので、なかなか腕時計をすることがなくなってきました。
そうして、大事にしていた腕時計を引っ張り出して見てみると、もう電池がなくなって、針がじーーっと止まっていました。何だか、「あんなに喜んでたくせに、お前ってヤツは、いつもそうだよ。飽きっぽいんだから!」と、責められて居るような気がしました。
そこへ、このインパクの、このパビリオン。時計が、「もうちょっと時間のこと、僕の事、思い出して大事にしてよ!」と、私を連れてきたような気がします。ごめんね。明日、電池交換しに行こう。
「初めて買った時計」たまご味のアイスクリームさんのエッセイ
「これ、していけよ」
出掛けようとした時、当時小6だった兄が言った。
手には、兄が自分のお金で初めて買ったという腕時計を持っていた。
「これ、100円だったんだよ」
とても得意げな兄の顔を見て、私は断れなくなってしまった。
そして、左手首にその時計をした私と兄は、2人で駅前まで自転車を飛ばした。
国道沿いの長い下り坂はスピードを出せるということもあり、スリリングを味わいたい私と兄は大好きで、いつものとおり一気に飛ばした。
5分後、駅前の駐輪場に着き、自転車を置いて歩こうとしたら、兄から「時計は?」ときつい言葉が飛んできた。
その言葉に押されて左腕を見ると、腕にはベルトしか残っていない。
『さっきの下り坂、スピード出してたから、落っこちちゃったんだ・・・』
そう思っても、さっきの得意げだった兄の顔を思い浮かべると、何も答えられない。
「やっぱり100円だったからな・・・」言葉とは裏腹にあきらめられないという兄の表情。
その日のお出掛けはとても暗いものとなった。
たった100円だったけど、兄にとっては自分で買った時計だった。1日限りの特売で、同じお店に行ってももう2度と手に入らないのだ。高い時計を小5の私が弁償できるわけでもなく、そのまま約15年が過ぎてしまった。
今はキョリができてしまった兄との間だが、当時の仲良かった頃を忘れずにいたい。
「時計に恋した時のこと」himeさんのエッセイ
手にした感触が忘れられない時計がある。
高校の時だった。私はサッカー部のマネージャーをしていて、少しだけ憧れている先輩がいた。ある日の練習後、私は「ちょっと持ってて。」とその先輩の時計を手渡された。先輩が顔を洗っているほんの少しの間だけ、私はその時計を握っていた。男らしいがっちりとした時計で、私のより重いその感触に先輩大人だなあ、と感じていた。私は多分、その瞬間に恋に落ちたのだと思う。
それ以降、練習の時も試合の時も、私は気が付けば先輩のその時計を見つめていた。少しの時間だけど私の手のひらで刻んだ時間があることを、あの時計は覚えているだろうか、そんなことを考えていたと思う。
今はもう先輩が何をしているかも、時計はまだ動いているのかも分からない。だけど、先輩の顔はもうあやふやなのだが、あの時計の感触だけは、はっきりと覚えているのだ。
あの時計が私の記憶をのせて動いてくれていればと今でもたまにあの頃のことを思い出す。
「私の分身」タカチャンさんのエッセイ
過去30年にわたり、愛用し続けている時計がある。正に私の分身と言って良い。
商社員として中南米諸国を転々としていた当時、免税港パナマで購入したOMEGAである。購入価額は当時の換算レートで4万円弱であった。新入社員の初任給が一万円強であった事を考えると、身分不相応な高価ともいえる。以来約30年、私の手元から一日も離れた事はない。その間、時計の歴史も様様に発展した。手巻きから、自動巻き、デジタル化と機能的には変遷し、形態も変化した。多くのメーカー、ブランドが現れ、そして消えていった。そのような変遷も、私にとっては全く無縁であった。愛用のOMEGAガ、他のブランドへの浮気心を些かも抱かせなかったからである。手巻きの必要も無く、電池の切れる心配もなく、ただ手を動かすだけで、忠実に休む事なく時を示してくれる。世の中の流行に右顧左眄することなく、自らの与えられた道を歩む求道者のような姿に感動を覚えた。華やかな、けばけばしいデザインに人々の関心が集まる事もある。併し、いつしか忘れ去られて行く。私の時計OMEGAはデザインも実にシンプルである。華やかさもなければ、けばけばしい装飾もない。併し、私は一度として、飽きを感じたことはない。寧ろ奥深い神秘性さへも感じている。本当の芸術品とは、単純にして人々の目を飽きさせない神秘性をもったものではないだろうか。その意味では私の時計OMEGAは正に世界最高の芸術品ではないだろうか。残念にしてその愛すべき時計も寄る年波には逆らえず、毎日2,3分遅れるようになってきた。そして私にむかって囁くのである。「人間あくせくしてどうするの。1分、2分なんて、どうって事ないじゃ
ないの。第一の人生はおわったのだから、のんびり行こうよ』私はこの時計とは終生離れられそうも無い。
「見栄張り時計」ナチさんのエッセイ
本当に欲しいものを言ってみて。誕生日に何かプレゼントしようと思いそう父に尋ねると、はじめは何もないといっていた父が、最後にぼそっと言った言葉。それが腕時計。でも、そんなに欲しいんじゃないんだぞ。ってすぐ否定してたけど、母いわく、父が欲しかったのは見栄張り時計だったらしい。兄が今年結婚することになって、話が進んでいくにつれ、相手の両親と会う機会が増えたようで、銀行のお偉いさんのむこうの親と、普段スーツなんて着ない父じゃ大分格差がつくらしく・・・時計くらい、いいものを。せめて・・・それが父の本心だったらしい。別に相手の親に対抗心なんて、わたしはなかったけど、父の密かなその見栄がかわいくて即行で買いに行ったツヤ消しのシルバーの時計。少しでも見栄が張れるようにと、ちょっとだけフンパツした。5年前に東京に就職して、実家に帰れることなんてめったになかったし、これも親孝行。そう思って送ったら、珍しく父から電話をかけてきた。ありがとう。それだけ。でも、そのあとでた母が言ってた。お父さんうれしくて、あの時計神棚にしまってるのよって。
それから何ヶ月かは、あの時計は神棚にあって未使用だったらしいが、最近ついに父の腕に登場して、スーツからわざと見えるようにつけてるらしい。 そして精一杯の見栄張り時計として大活躍してるようだ。これも、母から聞いた話なんだけど・・・
「彼と時計」ミイさんのエッセイ
「これ」
初めてのクリスマスプレゼントに彼に手渡された。
「何だと思う?」
「何かなあ。わからない。」
本当は、私は箱の中身はわかってた。ずっと欲しがってた時計。でも、高価だったし、言い出すのが悪くて、ずるい嘘をついた。
「これだよ」
開けて見た箱の中身は、やっぱりあの時計だった。何度も売り場の前を通って、眺めてた時計。シルバーの腕輪に華奢なカットされたガラスの円い盤面。
すごく嬉しかった。でも、それと同時にこわかった。
彼が時計を買うために何度も深夜のアルバイトをして、無理をしてるのを知ってたから。
「ありがとう。大切にするよ。」
その言葉どおり9年経った今も大切に持っている。
その彼とは7年つきあった。何度もあの時みたいに無理をしているときがあった。
その無理をやめたとき、私たちの間は終わりを告げた。
今は、無理をしない関係が、幸せを運んでくるって知っている。あの時の私たちに会えるものなら、会って言いたい。
「そんなに無理しないでいいんだよ。等身大でいいの。」
錆びやすいシルバーのあの時計を見ると、胸が切なくなって、そんなことを思い浮かべる。
(注)この「思い出の腕時計エッセイ募集」に書いていただいたエッセイの著作権は、セイコーインスツルメンツ株式会社に帰属します。予めご了承下さい。
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