応募期間 2004年1月10日〜2004年12月31日
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1年間を通じて、あなたと腕時計との出会い、思い出を綴ったエッセイを募集します。優秀作品は、月ごとに月間ベストエッセイとして発表、月間ベストエッセイ受賞者には、「kodomo-seikoオリジナル腕時計」をプレゼントいたします。あなたの腕時計の思い出、そしてあなたが腕時計と共に過ごした時間のことを800字以内で書いてお送りください。皆様からの応募をお待ちしております。
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2004年の作品
1月-2月 3月 4月 5月 6月-7月 8月-9月 10月-11月 12月
12月の作品(75作品)
「母の一声」西村 綾さんのエッセイ
「ルナの古時計」谷口 弘さんのエッセイ
「タイムイズマネー」林 竜史さんのエッセイ
「ペ ア ウ オ ッ チ」御前さんのエッセイ
「時計」舛形 建太朗さんのエッセイ
「いつも一緒な時計」柏原 里美さんのエッセイ
「卒業記念品」土田 紘子さんのエッセイ
「私を見ている大切なもの」橋本 智弘さんのエッセイ
「大黒柱時計」美濃 翔宗さんのエッセイ
「時計」小川 聖二さんのエッセイ
「 傷だらけの振り子時計」畠山 大さんのエッセイ
「買ってもらった腕時計」藤澤 徹也さんのエッセイ
「かわった時計」藤岡 嵩也さんのエッセイ
「これからの時間」富田 有梨さんのエッセイ
「パッポパッポ、ハト時計」佐藤 加乃美さんのエッセイ
「狸の目覚まし時計」南 絵里子さんのエッセイ
「お姉さんの時計」井内 愛莉さんのエッセイ
「義務時計」西原 翼さんのエッセイ
「止まらぬもの」桑原 千栄さんのエッセイ
「時計との思い出」村地 美保さんのエッセイ
「発見」松岡 美也子さんのエッセイ
「感謝せよ。」四宮 愛美さんのエッセイ
「生きている証」加藤 綾菜さんのエッセイ
「私たちと時計の関係」道上 祐季さんのエッセイ
「時計は生きている」新居 華奈さんのエッセイ
「動き続ける時計」亀井 絢さんのエッセイ
「大切な時間」佐藤 悠加里さんのエッセイ
「不定時法で時を刻んで」芦野 剛徳さんのエッセイ
「懐中時計」ショーン ツジモトさんのエッセイ
「とんがり帽子の時計台」藤田 俊文さんのエッセイ (12月のベストエッセイ)
「目覚まし時計のケース」小田 慶喜さんのエッセイ
「無愛想だった父の腕時計」
「おかあさんのとけい」岡崎 佑哉さんのエッセイ
「先生の腕時計」かとう あつこさんのエッセイ
「掛け時計と科学の世界」加藤 ミハルさんのエッセイ
「私の宝物」牛田 克彦さんのエッセイ
「幻の掛時計」長谷川 園子さんのエッセイ
「一番うれしかったバースデイプレゼント」東京生まれ沖縄育ちさんのエッセイ
「古い柱時計」若命 三千一さんのエッセイ
「キミのココロ・・」Wing.Ringさんのエッセイ
「10時1分34秒の秘密」石井 仁さんのエッセイ
「親父の目覚まし時計」金子 雅人さんのエッセイ
「同じ」平本 とよみさんのエッセイ
「未来を刻む時計」宮本 佳代子さんのエッセイ
「時を打つ」木村 留美子さんのエッセイ (12月のベストエッセイ)
「セイコー三針」篠永 哲一さんのエッセイ
「サインのない贈り物」円山 雪さんのエッセイ
「腕時計を買い換えた時」智ママさんのエッセイ
「時計は友達」香椎 璃羅さんのエッセイ
「懐中時計の思い出」細野 みち子さんのエッセイ
「お守り腕時計」廣井 彰人さんのエッセイ
「山小屋の掛け時計」東 瑞穂さんのエッセイ
「月曜日の腕時計」草野京子さんのエッセイ
「妻の贈り物」坂本 榮さんのエッセイ
「困った時計」杉浦 由美さんのエッセイ
「幻の時計」木村 真理さんのエッセイ
「初めての時計」吉村 聡子さんのエッセイ
「時計の思い出」真鍋 祐輔さんのエッセイ
「ハト時計」西岡 万理さんのエッセイ
「時計の役目」山下 美紀さんのエッセイ
「刻まれた年月」渡辺 紀代子さんのエッセイ
「時計と人間」半田 知也さんのエッセイ
「大事な時間」田中 彩海さんのエッセイ
「戦火に生きた時計」池田 孝子さんのエッセイ
「置時計と母」石田 宰さんのエッセイ
「温かい流れのなかで」桂さんのエッセイ
「確かなリズム」瀧本 真衣さんのエッセイ
「腕時計のない生活」後藤 順さんのエッセイ
「父さん、ボンボン時計、元気?」メロディさんのエッセイ
「手放せない入学祝いの腕時計」脇 長生さんのエッセイ
「手首のひみつ」森山 勉さんのエッセイ (12月のベストエッセイ)
「腕時計は男からもらう!?」山田 淳子さんのエッセイ
「時計ってえのはこういうもんでしょ」蛯名 政之さんのエッセイ
「かっこいいボロ時計」じゅんじゅんのパパさんのエッセイ
「銀の懐中時計」内山 良久さんのエッセイ
「母の一声」西村 綾さんのエッセイ
私は、早寝早起きの人である。体質なのか、はたまた長年の習慣の為か、朝は6時に起き、夜は9時には床につく。一度寝たら最後、夜中に目を覚ますことは、そうない。地震で家族皆が目を覚ました時でさえ、私はぐっすり眠っていたのである。 そんな私にとって、夜中の試験勉強は頭を悩ませるものであった。時間を大切に、少しずつ積み重ねて勉強すればよいものを、懲りずに毎回切羽詰まった状態に陥るのである。毎夜のことであるので、家族の誰かに揺すって起こしてもらうのもしのびない。そこで、家中の目覚まし時計を集めることにした。1つ目の目覚ましは無意識で止まり、2つ目の目覚ましも手探りで止め、3つ目、4つ目くらいで上半身を起こしつつ、眠い目をこする。目覚まし時計たちは、どの子も元気に騒いでくれる。うん、これならばいけると思いきや、この方法は家族に不評だった。安眠妨害である。そこで目をつけたのが、誕生日に妹がくれた銀色の目覚まし時計である。子グマの絵のついた、見た目可愛いまさに優れ物であった。なぜなら、我が家唯一の録音機能がついた一 品であったから。クマの一声よろしく、家族総出の「起きなさ〜い!!!」は、かなり深い眠りの私をたたき起こしてくれた。初めて使った録音機能の便 利さに家族一同感心し、家族の愛情たっぷりの怒鳴り声に、私は大満足であった。言うまでもなく、この時計は長いこと私の愛用品として大活躍することとなるのだった。
「ルナの古時計」谷口 弘さんのエッセイ
うちの田舎には、10年間、古時計が置かれていた。今は、壊れてしまいそれも見ることができなくなったが。昔は、その時計がよく音を立ててなっていた。今でも時々、脳裏から夢に出てクロ事があるが、ボーンボーンと12時なると、鳴るその音がたまらなく愛しい。特に月明かりでは、夜景によくあい、夜の羽音を奏でる。ちょうど、今の高いところに掛けてあり、その下で耳を傾けると、なんだかとっても落ち着く気分になれる。
よくそこで、その音を聞きながら、幻想し、イマジネーションをしていた。昭和の情景が浮かばれる。古きよき時代の景色である。また、海からも近いので、潮騒や潮のにおいも感じられる。特に感じられるのは、静かな海辺である。その景色もその時計の下では、まどろみとなり、思わず寝てしまうこともあった。
気がつくと月が照らしていて、祭りや楽しげな人々の声が夜の闇にまぎれて、遠くから聞える。やきとりのにおいも鼻に感じられ、とても忘れられない暖かいものであると感じた。その位置は、今は、別の時計となってしまったが、あの楽しげな情景は今もどこかで存在しているのだろうか?心の片隅でそうつぶやきながら田舎へ帰ると、必ず見ては、心から涙が出てくるのである。もう一度時を遡ることができたなら、じっくりと観察をしてみようと思った。
「タイムイズマネー」林 竜史さんのエッセイ
時間医学というものがある.その時間帯によって,やることが違うと健康効果も違うというのだ.人間は基本的には朝起きて,夜寝るが,人によっては夜起きて朝寝る人もいる。夜がたて゛も長生きの人もいるが、基本は自然に合わせた生活をしたいものである。自分も夜型なので、人のことは言えないが・・・。時は金なりというが、まさしくそのとおりだと思う。好きなことをやってると時間はあっという間に過ぎてしまうが、嫌いなことやくだらないことをやってるとすごく長く感じるものである。ある程度は時間を守り,時間を大切にしたいものである。タイムイズマネーというからなあ・・・。
「ペ ア ウ オ ッ チ」御前さんのエッセイ
時というものは、一生懸命に生きている人にも、ただ漠然と生きている人にも平等に時間を与えてくれる。
1人の男と1人の女が、それぞれ生きてきた時を経て、めぐり合い愛し合い、2人でともに時を過ごす約束をする。
いくばくかの時を経て、待ち望んだ愛の結晶の誕生に、互いに手を握り合い励ましあって、地球上ではそんなに時を経ていなっかたのだろうが、2人にとっての長い長い時の経過を感じながら涙した時から始まったいくつかの涙。
立ち上がったと喜び、いじめられたと悲しみ、幼稚園・小学校・中学校・高等学校に入学したと喜び、人生の中で耐えなければならない数々の苦しみに、その時々に涙して、あっという間の時であったような気もするし長い長い時を経ているような気もするし、人から見れば2人が出逢って、時は平等に20年の時ということになるらしい。
2人で育んだ愛の結晶が、アルバイトをしながら蓄えたもので、本日結婚20周年日に「ペアウオッチ」をプレゼントしてくれる。
懸命に生きて、懸命に家族の絆をかためながら、時を重ねて、その時々を大切に生きてきたことが見事に華を咲かせてくれた。
素直に嬉しい。今まで流した涙の数を超えた華が咲いてくれた。過ごしてきた時が間違いでなかったことが証明されたと確信できる。再び素直に嬉しい。
これから先、まだまだ2人の人生は長い筈。プレゼントされた「ペアウオッチ」とともに大切に過ごしたい。必ずすごせる自信もある。ありがとう。
「時計」舛形 建太朗さんのエッセイ
人間というものは、楽しい時には時間を忘れ、楽しくないときは時間を思いだすという、とてもおもしろい習性を持っている。
例えば、テレビゲームをしている時にふと時計を見るともう2時間もしていた時とか、友達の家に遊びに行った時に時計を見ると、もう家に帰る時間になっている、こういったことが他にもたくさんある。逆に考えて見ると、勉強している時や、自分にとって興味のない話をされているときなどに、時を気にしてしまいます。
たまに僕は時とはなんだろう、と思ってしまいます。その疑問は僕の中では、まだ解明されていません。だけど、その疑問についていまの僕がわかっていることがひとつだけあります。それは、人間が死んでも、地球が宇宙から消えても、時という言葉は永遠にきえさらない言葉だと思っています。
一日の時間24時間というのは、どういやってわかったのだろうか、そういう面では人間は頭がいいと思います。
時計というのは、とっても不思議だと思います。多分どの人も時計っていったい何ですか?時間とはなんですか?と聞かれたら答えることができないと思います。こういった、普段なにげなくよく使う言葉でも意味がよくわからない物ががたくさんあり、時計もその一種だと僕は思いました。
「いつも一緒な時計」柏原 里美さんのエッセイ
時計は私たちには欠かせないもの。いつも一緒にいるような気がします。朝起きるのは目覚まし時計ではじまり、夜も部屋にあるいろいろな時計の針の音を聞きながら眠りにつきます。私は時計の針の音が大好きです。夜寝るときは針の音がしないとなんだか落ち着かないんです。時間の流れを表す針の音はわたしたちの生活には欠かせないものとなりました。
私が針の音が好きな理由は目を瞑っていても時間は過ぎていくという感じが生きているということが実感できるからです。このことを友達に言うと、チクタク、チクタクいってうるさいと思っている人多くいます。なのでこれから、針の音を聞くと私は生きてるんだなあとかそういうことを感じてもらいたいです。
私が時計の種類の中で一番好きなものは、砂時計です。これは針の音はしないけど、時間が流れているということが目に見えるからです。時間を計るわけでもないのに、砂時計をひっくり返したくなるのは何でだろうと思います。多分、誰でも目の前に砂時計があるとついついひっくり返してしまうと思います。私はその後、全部砂が落ちてしまうまで見つめつづけることができます。砂時計には人の気持ちをひきつけるものがあると思いました。
時間はいつも変わらない速さで流れているのに場合によって速く感じたり、遅く感じたりすることがあります。時計は私たちの気持ちと一緒な動きをするとても不思議な道具だと思います。私はそんな時計が大好きです。
「卒業記念品」土田 紘子さんのエッセイ
私は小学校の卒業記念に掛け時計をつくりました。小学校のころとても仲がよかった友達と一緒につくった時計。今、その時計は私の部屋の机の上のかべにかけています。勉強をしているとき、その時計はいつも私を見下ろしています。
「カチ、カチ、カチ、カチ・・・。」
永遠に動き続けていそうな元気のある時計。それが、私のつくった時計です。
その時計を見ると、小学校のころを思い出します。デザインを考えて、一生懸命つくったこと、おもしろい担任の先生に手伝ってもらったこと、仲良しの友達に一人一人メッセージを時計の裏にかいてもらったこと。他にも、思い出せばたくさんの思い出がよみがえってきます。
今、私は受験勉強のまっただ中です。国語や英語の問題を解くときにいつもこの時計を使っています。こんな苦しい時間でもこの時計を見ると、楽しかった日々や、今は転勤してしまった先生を思い出すのです。そして、もう一度勉強に集中でき、がんばることができます。家に居るときの大半は、この時計の一緒に過ごします。
私にとって、この卒業記念品は、私の記憶をよみがえらせてくれる、とても大事な物にいつの間にかなっていました。これからも、この時計と一緒にいましていることを思い出にしていこうと思います。大人になって、この時計を見て、よかったなあと思える日がいつか来る日まで・・・
「私を見ている大切なもの」橋本 智弘さんのエッセイ
私の思いでの時計は,小学校の時に作った時計です。すごく悩んでデザインを考えたことを覚えています。小学校の卒業記念に作るということで,とても悩みました。とても悩んだ結果うさぎのデザインになりました。始めに下書きをして,次に彫刻刀で彫っていきました。その時に,たくさんの人が手を切っていて,私は気をつけようと思った記憶があります。そして色を塗り完成しました。
今,その時計は,私の部屋の壁にあります。いつも,その時計を見ると小学校生活の中の楽しかったことそして悲しかったことなどが思い出されます。友達と笑い合ったこともけんかしたことも今ではとても良い思い出であり,何物にも変られない思い出で,絶対にもう二度とあじわうことの出来ない今までで一番大切な物です。
今,考えてみると私の使っている時計の中で一番多く使っていると思います。朝起きるときに見て,学校へ行くときに見て,勉強の途中に見て・・・。何をするにも,時間を見るときはその時計です。私が時計をみているのなら時計も私を見ているのかな,と思うと,ちょっと恥ずかしくなります。
いつも私のことを見てきた時計。いつも勉強にスイッチの入らない私に「カチ・カチ・・・」と追い打ちをかけてくれる時計。この時計は,私のことを全て知っているたくさんの思い出のつまった大切な物です。今までありがとう。そして,これからもよろしくお願いします。
「大黒柱時計」美濃 翔宗さんのエッセイ
この話に出てくる時計は、ぼくの家にある時計です。この柱時計は僕の生まれてくる前から、家を見守ってくれています。
僕が物心つきだしたのは四・五歳の頃からで、その頃から僕はこの時計と共に過ごしてきました。その頃の僕はこの時計のことを、時計とは見ておらず、ずっとおもちゃだと思っていました。分銅に付いているチェーンで遊んだり、扉を開けたり閉めたりして遊んでいました。
しかし、この時計が動き出したのは四・五年前のことです。僕が子供の頃遊んでいた時計は動いていなかったのです。いつからかは分かりませんが、この時計は長い間休憩していたようです。いま考えてみると、その頃よく壊れなかったなと思います。
そして今、時計は元気に振り子を揺らしながら、「カチッカチッ」と時を刻み、十五分おきに「ゴーン・ゴーン」と時間を知らせてくれています。たまに、知らせる音が遅れて遅刻しそうになることもありますが、毎日、時計の針を合わせてあげたり、振り子を揺らしてあげたり、分銅を持ち上げたりしています。この時計の鐘の音によって、家族の心が和んだり、元気の源になることもあります。いつもぼくを遅刻させないように、美しい鐘の音で、今日も僕の背中を押してくれ、一日を頑張ろうという気持ちにさせてくれます。これからも、ずっと元気に鐘を鳴らしながら見守っていてほしいです。
「時計」小川 聖二さんのエッセイ
ぼくの家にある時計はぼくが今の家に引っ越した時になにかの祝いでもらった時計です。8年間使っているのですが、まだまだきれいで、何時かになると、きれいな、音が流れます。引っ越した当時は、そのとけいがなるたびに、きれいな音だなぁと、1つ1つのメロディを楽しみながら聞いていました。音がなるたびに、「今何時?」と、楽しそうに聞いていたけど、今になると、時計の音がなっても、ぜんぜん何も思わなくなり、時計すら、あまり見なくなりました。でも、1日の内の朝の時は、学校にいく時間を確かめる程度だけ見ます。
そこにあることに、なれてしまうと、そのことがぜんぜん気にならなくなりなす。気にならないことは、こわいことです。時計は、見るためにあるのに、見てもらえないと、時計もつらいと思います。そういうことも気にしながら、生活すればいいのではないかと思う。
ぼくたちがあたりまえに生活している中で、時計が全てなくなればどれだけ困るだろう。時計の大切さを自分自身が知って時計を大切にすることが大事だと思います。だから、これからは時計を必要以上に見ていきたいと思います。時計が流す音も、何気なく流れているのではなくて、何かに意味があって流れることを自分も理解していきたいです。
「傷だらけの振り子時計」畠山 大さんのエッセイ
真夜中だれもいない居間にたった一人で鳴る時計。ぼくの生まれる前から今までぼくの成長や兄弟、家族の成長を多く見てきた時計が「ボーンボーン」と鳴るたびにぼくは、ぼくは、その時計の針に目を奪われる。一目見て「まだ時間がある」といい少しの睡眠をとる。起きて寝ぼけながらもその時計の示す時刻に「寝過ぎた」という気持ちをいだき、なぜかすこし怒りをぶつけてしまう。
大きな振り子の付いた時計だ。その左右に動く振り子に目をキョロキョロさせながら見続ける。何もすることが無くただ時計の動く振り子を見ているだけでなぜか楽しくなった。
たまに振り子がとまってしまうと動かないその振り子を見て、どうしたんだと困ると同時に、時計が動かなくまったらと焦りも出てくる。けれどそれは、少しの休みにすぎなかった。一晩寝て、また朝見てみると元気にぶんぶん揺れている。時計に安心することもあった。
最近になってその時計を見る回数が増えてきた。小学生のころは、ただ一目見て時間が分かればいいしか思ってなかった。けれど今その時計の傷の多さに驚いた。何年間掛かっているのかは、知らないけれど表面にあった多くの傷を見てこの時計も頑張っているなぁと思うようになった。
ぼくが生まれる前からあり今も掛かっている時計。ぼくの泣いた時、笑った時をいつもその場で見てくれていた時計。これからもその時計を見ながら成長の続きを見てもらいたいと思う。
「買ってもらった腕時計」藤澤 徹也さんのエッセイ
ぼくの思い出は腕時計です。その時計は、ぼくが小学三年生のころにぼくの伯父が買ってくれました。綺麗な箱に入っていて買ってもらった時に結構うれしかったです。その時計は今も大切にしています。腕時計は今も普段使っています。機械ではないのでアラーム機能やストップウォッチなどが使えないので残念です。この時計が長持ちすればいいと思います。そしてそれをずっと使ってみたいと思いました。そのためには時計お大事に使ってホコリとかを時計につけないことが大切だと思うこうゆう思いでのある時計をぼくは大切に使いたいなと思った。この時計はかれこれ6年間ぐらい使っているので大事にしようと思います。
でも僕は機械の時計もいいと思います。なぜなら普通の時計と比べて壊れにくくてストップウォッチとかアラームとか日付けとかがついているからです。そうゆう機能があったら、もっと使いやすくなると思います。その方が、ストップウォッチとかで時間の正確に測れたり、アラームで朝にきちんと起きられます。腕時計そんなのがあったらそれだけでいろいろできるからです。ぼくもほしいと思いました。
結果は腕時計はいろんなことに使えるのがわかりました。一番大事なことはどこででも時間の知ることができるからです。ぼくはそういうところがいいと思います。
「かわった時計」藤岡 嵩也さんのエッセイ
小学校のころよく見ていた時計は少し変わった形をしていた。ガラスの皿に針を盛りつけたような形だった。数字があるべきところには白い円があり、その周りは真っ黒だった。
小学校のころは遊び過ぎでしかられるくらい遊んでいた。夏でも冬でもおかまいなしで中学三年生で受験勉強だけでヒーヒーあえいでいる現在の僕には信じられないほど元気だった。正午ごろに昼食を終えるとそのころの門限であった午後5時まで遊んだ。いくら遊んでも遊び足りなくていつまでも友達と過ごしたかった。
ある日のこと、いつものように友達と遊んだ。午後2時まではテレビゲームをし、それから近くにあるコンビニに行って、また1時間ゲームをやって、門限の5時まで外で遊んだ。毎回このスタイルで遊んだ。飽きはしなかった。鬼ごっこなど、楽しめていたころがなつかしい。日が傾くと時計が気になり始める。遊びに夢中になっていて親が呼びに来た、ということがよくあった。するときまって同じいいわけをしていた。
「だって、数字書いてないけん、見まちがったのに。時間きとるんなんて気づかんかった」
その時計には、数字が書いてなかった。いいわけするには大変都合のよい時計だった。
そんな時計も、今はもうどこにいったかわからない。その時計は動くのをやめてしまった。僕もほとんど遊ぶことをしなくなった。ひとつの節目が終わったのだと思った。今その時計の代わりにある時計はどこにでもあるような時計だ。こういうとき時間が流れていることを実感する。あのころは、週に何度も遊ぶという生活がかわるなど考えもしなかった。しかし、僕は今、中学生から高校生へという人生の分岐点まできている。
「これからの時間」富田 有梨さんのエッセイ
朝。目覚まし時計の音。もう少し寝ていたい。だから、気が付かないふり。私には、毎朝お世話になっている目覚まし時計があります。その時計には、長い間お世話になってきました。
それは、三年前。私の誕生日に、その時計はやってきました。チクタクと音を立て、大きな音で鳴るその時計は、私の大事な友達が私のために、とプレゼントしてくれたものでした。もう、中学生になるんだから、朝ぐらいちゃんと自分で起きよう。私はそんなことを思っていました。その時から、私はこの目覚まし時計のお世話になっているのです。
もらって嬉しかった時計も、今となってはただの目覚まし時計。朝を告げるちょっとうるさい時計です。起きるまで鳴り続けて、あと少しでも寝ようものなら許さない様子。今日も、起こされてしまいました。でも、この目覚まし時計があるから遅刻しなくてすむのかな、と感謝しています。
私は、これからもこの目覚まし時計のお世話になっていくと思います。中学校三年間の思い出も、時計の中に刻まれているのです。時間はこくこくと過ぎていってしまうけれど、その一分一秒を大切にしていきたい、そう思っています。これからの未来も、こうして変わっていくのです。だから、私は時計と共に生きているのです。これからも、この目覚まし時計を大切にしていきたいです。
「パッポパッポ、ハト時計」佐藤 加乃美さんのエッセイ
時計といって最初に思い出されたのが祖父の家にあったハト時計でした。そのハト時計は一時間ごとに、「パッポ、パッポ」と愛らしい声で私たちに時間を教えてくれます。
昔はそのハトの声があまり好きではありませんでした。なぜかというと、せっかく親戚みんなで楽しく遊んだり世間話をしたりと盛り上がっていたのにそのハトの声のせいで、「あ、もう帰らないと」と言ってみんな帰る支度を始めてしまうのです。しかし最近になってはハトの声があっても誰も帰りださなくなりました。だから私はハトに勝ったような気がしてうれしかったです。そしてもうハトを嫌わなくなりました。むしろ、鳴いている姿がかわいいと思うようになりました。
今年の夏、祖父の家を建て直すことになりました。思い出のいっぱいつまった部屋、懐かしいにおいが全部なくなってしまいました。今はその上に白くてまっさらな家がでんっとたっています。思い出なんて最初から無かったかのようにたっているのです。なんだか他人が私たちの家にあがりこんで態度でかく座っているようです。かすかに腹が立ったような感じがしました。しかしその中であの「パッポ、パッポ」とあのまぬけな声が聞こえてくるのです。その瞬間、「あ、やっぱりここは祖父の家だ。みんなの集まるところだ。」と安心できたのです。
私の思い出の品はハト時計でした。それは誰でも一人一人が持つことのできる素敵なものだと思います。思い出の品は持つだけや見るだけでほっとできる不思議な力を持っています。私はそんな品をたくさんつくっていきたいと思います。
「狸の目覚まし時計」南 絵里子さんのエッセイ
毎朝使っている目覚まし時計は、狸の形をしている。小学校に入学した時に某通信教育から入学祝として、送られてきた。つまり、私の家に9年弱くらい居座っていることになる。なかなか壊れない。しかも、「おはよーさぁ、朝だよー起きてー、起きてー。」と言いながら、人を起こす。顔はなかなかにこやかで、起こされたら“起きなくては・・・”という気持ちにさせられる。
そんな狸の目覚まし時計は、私がとっくに中学へ入った今もまだ、ランドセルを背負っている。はずそうと思えばはずすことはできるのだが、私はあえてはずさない。なぜかというと、その狸には小学校の頃からの思い出がつっまていると思うからだ。ランドセルをはずすことによって、思い出が消えてしまうようなきがする。そんなことを勝手に思っているのは、私だけだろうか。とにかく、狸はランドセルをはずすことは、一生ないのである。
さて、今まで私を起こしてくれ、将来の活躍を期待されている狸だが、最近はあまり起こしてくれなくなった。なぜだろうと思い、親に聞いてみると、思わぬ返事が。 「あんた、自分でとめてるよ。」え・・・。今までさんざんほめちぎっていた狸にも、弱点が1つ。それは、声が小さいことだ。目覚まし時計として、致命的な欠点をおった狸には、とりあえず、がんばって私を起こしてもらおうと思うが、私も、自力で起きれるようにがんばろうと思う。
「お姉さんの時計」井内 愛莉さんのエッセイ
私の思い出の腕時計は,身内のお姉さんにもらった腕時計です。私の初めてもらった黄色い腕時計はお姉さんがいつもしていた腕時計でした。黄色くて可愛らしいデザインのその腕時計は,お姉さんの特別な宝物だったのにもかかわらず,それをまだ知らなかった小さかった私は,その時計をお姉さんにねだり続けていました。
小学校四年生の時私は腕時計というものに憧れていて,お姉さんがいつもつけていた腕時計をとてもうらやましく思っていました。いつも私がその時計をねだると,少し困ったような顔で,いつもやんわりかわされていました。私はよくお姉さんの家に遊びに行っていて,その度腕時計をねだっていました。お母さんがその腕時計とよく似たデザインの腕時計を買おうと言ってくれたのですが,その時の私は,お姉さんの可愛い腕時計しか頭になかっので,今思えば損な事をしたと思います。
いつも決して腕時計をくれなかったお姉さんが,私が小学校六年生になったある日,突然「あげるよ」と短い一言で私の手に黄色い腕時計を渡したのです。あんなに毎日ねだり続けて,もうねだる事をやめかけていたころにあっさりとその腕時計をくれたのです。うれしいと同時に,少し複雑な気分でした。その日,お母さんにお姉さんとき合っていた人が別れたという話を聞いたのです。私は複雑な気分が一気に吹き飛んだ気分でした。私がいつもほしがっていたあの腕時計は,恋人からのプレゼントだったのです別れた恋人のプレゼントなんていらないと,私の所に回ってきたのです。 ずっとほしかった時計をもらって幸せな気分はなくなっていました。
今でも正確に時間を教えてくれるその時計を私はずっとお姉さんの前で嫌味たらしくつけ続けてやろうと思います。
「義務時計」西原 翼さんのエッセイ
時計は不思議だ。時間という長い空間の中を何等分にも割って一日を作り,一日を刻んで行くのだ。その中で一番心に残る時計は学校の時計だ。
学校の時計は,今までで一番,これからもずーっと一番私を焦らせる時計だ。テスト中,クラス全体が静まりかえり,テストに集中し,鉛筆が走る中,ただ一人いつも通りに動く時計。周りなんか気にしないといった大きな音を立て時間がたつのを私達に教えてくれる。焦っているときこの音を聞くととても焦る。でも,時計がなければ時間配分ができないので計画を立てて行動をすることが出来ない。
そして,今,私達には一分一秒がとても大切な時期。そんな時期だからこそいつも通り行動する時計が必要以上にせっかちに動いているような気がする。こんなとき時計が意地悪に見えてくる。
でも,私の友達は時計を毎日毎日同じところをぐるぐる回っていて寂しそうだという。よく意味は分からないが時計に感情があったら寂しがっているということだろう。
一つの時計でもみんなの見方によって時計に対していろいろな考えが出てくるンだとは思ったがやはり今の時期せっかちに思えるというのはみんな同じだと思う。
「止まらぬもの」桑原 千栄さんのエッセイ
平成14年3月。私は高松市立円座小学校を卒業した。その卒業記念として,私達5年生はオリジナルの掛け時計を作った。自分で形を決め,デザインし,彫刻刀で彫り,色をぬって仕上げた時計。その時計には私の小学校6年間の楽しかった思い出,苦しかった思い出,たくさんの思い出がつまっている。
私はデザインにとても悩んだ。どういうデザインにすれば,より思い出深いものになるのか。なやんだあげく,女の子2人を書くことにした。仲良しの象徴。私はその時1番仲のよかった子と,自分を書いた。いつまでも仲良しでいられますように。という願いを込めて。
今,その時計は私の部屋にかけられている。卒業したあの日から1度も止まることもなく動き続けている。その動いている音は,辛いことがあって沈んでいて日にはますます大きな音となって聞こえてくる。一定の速さのリズミカルな音は,私に前進しろとでも言っているのだろうか。しかし時には,その音を聞いて,なんだかむなしく感じることもある。時計とは不思議なものだ。
ずっと私を見てきている時計。私の全部を知っている時計。その時計は私そのものだ。時計のように,ずっと歩き続けていきたい。止まることなく,狂うことなく,自分の道を歩んでいきたい。そして,これからもずっと私を見ていてくれることを願って・・・。
「時計との思い出」村地 美保さんのエッセイ
時計は私にとって、絶対に必要なとても頼りになる物です。目覚まし時計や掛け時計、携帯の時計。いろいろな時計を使っています。それら、一つ一つの時計には、いろいろな思い出があります。
まず一つ目は、携帯の時計です。あまり長い間使ったことはないけれど、塾に行っている間にも塾の時計を見なくても、すぐにその場で見られるし、過去問をするときに時間を計ることもできる、タイマーにもなる。塾でたくさん活躍してくれている物です。
次は、掛け時計です。私の部屋にある掛け時計には、困らされたことがたくさんあります。一つは、学校に行く前、その掛け時計を見ると、7時25分だったのに、テレビをみると、7時40分で、危うく遅刻するところでした。15分も遅れているなんて信じられませんでした。もう一つは、家で過去問をしていて、時間を計りながらしていて、ふと時間を見てみると、計り始めたときの時間と変わっていませんでした。秒針が長針と短針につっかかったみたいに止まっていました。つっかかったまま動こうとして震えているので少しおもしろかったです。そして、時間は計り直すことになりました。この掛け時計には困らされてばかりです。だけど、それもこの時計との一つの思い出だと思います。
最後に目覚まし時計です。目覚まし時計は時間通りに起こしてくれるしとても役に立ってくれています。だけど、この時計もまた、私を困らせた事があります。寝ている時に頭の上に落ちてきたり、ベルがつっかかって音が鳴らなかったり、その他色々なことがありました。けれどそれでもやっぱりいい思い出だと思います。このような思い出があるからこれからも時計を大事にしていきたいです。
「発見」松岡 美也子さんのエッセイ
時計のコチコチした音が部屋を通りぬけて私の心に振動していく。シーンとなった今、直接伝わってくる。コチコチという音以外に、独特な音、純粋な音、キツイ音、などが刻まれていく。でも単に時計はコチコチした音しか私に伝えてくれない。 つめたくて、さみしい音で・・・。
小さい頃、私はとても時計が大好きだった。デジタル時計、掛け時計、腕時計、針時計、いろいろな種類の時計が好きで、どこかに出かけても時計屋さんに入り、親を困らせていた。どれもが宝石のように輝いていて、私をとりこにした。年代物や現代物などの時計が並べられていて、ほしくてほしくてたまらなかった。母親や父親にワガママを言い、「買って買って。」と困らせていた。時計屋さんの中では、100個以上の時計の音が私の耳へと伝わっていく。
いろんな時計はどれも仲がよさそうに見えて、楽しませてもらえる。私もいろんな種類を持っているが、やっぱり耳をすますと音が聞こえてくる時計が好きだ。いろんな時計のさまざまな音がひびき、そういうところが好きになり、どんどんのめりこんでいく。棕櫚イの豊富な時計に出会っていない時計達に出会っていきたいなぁと思う。 そしていろんな時計の個性的な部分に目を向けていき、発見をより多く見つけて好きになっていきたい。
「感謝せよ。」四宮 愛美さんのエッセイ
ピンクの時計、黄色の時計、青の時計。最近は、続々と新しい時計が発売されている。私は小さい頃、店に行くたびに時計を見ていたそうだ。いつもおねだり、おねだり。だからお母さんが、誕生日に欲しかった時計を買ってくれた。とっても嬉しかった。だから、今も私の部屋の時計だ。私は、その時計を見ないと、一日の運勢が悪くなるような気がしてしまう。というか、時計は必ず見ると思うが・・・。
私はよく遅刻をしてしまう。いつも約束の時間に家を出てしまう。困ったものだ。でもある日、私は友達の家に約束の時間に行けた。それは、お母さんが全ての時間を五分ずらしていたからだ。私のためにずらしたのではないと思うがそのおかげで遅刻することはなくなった。だが、その時計に慣れてしまい、五分ほどゆっくりしてしまう。そんな余裕はないのに・・・
だけど、ごく最近は時間に余裕ができたと思う。なぜなら、最近は携帯電話のアラームを設定しているから。音が大きいので寝ていても、何をしていても聞こえてくる。 だから、時間がいつもわかる。携帯電話は便利だな。でも一つだけ問題がある。それは布団の上にあると音が全然聞こえないのです。やっぱり私は遅刻まんだ。
時計は私たちに時間を教えてくれる。時計がない生活を考えた事がありますか。無くてはならない物だと思う。昔の人はどうやって時間が分かっていたのだろう。時計は毎日働いてくれる。時計に感謝しないといけないね。
「生きている証」加藤 綾菜さんのエッセイ
私の部屋には、丸い黄色の掛け時計があります。『TOM&JERRY Kids』の時計。両親が私のはじめての誕生日に買ってくれました。幼かった私の顔よりも大きな掛け時計。小さなからだでしっかりと掛け時計を抱きかかえていたように思います。そう・・・・・・掛け時計に電池を入れた4月10日、あのときから私の時間は動きだしていました。
「カチッ。」と電池を入れた瞬間、時計の秒針は動きだします。私が産まれた印。私が生きている証。時計の裏には、私の産まれた日と時間が、太いマジックで書かれています。その時計は今でも私の部屋の東の壁にかかっています。私が悲しかったとき、寂しかったとき、泣きたくなったとき・・・・・・。どんなときでも、その時計の裏を見るだけで元気になれました。「私が産まれてきたことは間違いではない。ちゃんと祝福してくれる人がいるんだ。」そう思うと、なんだか気分がすーっと軽くなって、「今日も笑顔になれる。」と思えました。
15年間ずっと一緒に過ごしてきた私の時計も一度だけ、時計の針が止まってしまったことがあります。慌てて母に相談すると、「結構使ったからねぇ。もう寿命かな。」と言いました。私は、「絶対になおるもん!!」と父に無理を言って修理してもらった記憶がありたす。あのころの私は必死でした。どうしても時計を手放したくなかったからです。もし両親に、「新しい時計を買ってあげるから。」と言われても、絶対に首を縦には振らなかっただろうと思います。あの時計は、私が生きていくことを、認めてくれたものだから。私の心の支えだったから。
現在も私の部屋の東の壁には、黄色く丸い時計があります。色あせてボロボロになっても、針が止まっても、ずっと使い続けると思います。きっとこれからも・・・・・・大人になっても・・・・・・。
「私たちと時計の関係」道上 祐季さんのエッセイ
今日、時計をじっくりと見てみた。時計はチクタクと同じ間隔で、同じ時間を刻む。時計にとっては、同じ時間かもしれないが、私達にとっては、それぞれ違う時間だ。
だが「毎日が同じでつまらない」と言う人もいるだろう。確かに、学校にいると私達は時計によって生活を仕切られてしまっている。毎日、同じ時間に同じ事をしているかのように思えてしまう。でも、その時の一瞬一瞬の気持ちが同じなわけがない。これは、私が勝手に思っていることだけれど。ある意味、私達と時計は対照的な存在なのかもしれないと思った。私達は時計と同じ様に刻々と時を刻んで行く。けれど、時計とは違い、私達は時に一つ一つ思い出をも刻んでいるのだと思う。
でも、時計の中にも、強い思い入れのある時計もあるだろう。例えば、受験のときに使った時計や、プレゼントにもらった時計・・・こんな時計達には、きっと特別な思いがあるだろう。童謡にも「大きな古時計」という曲がある。私の読んだ本には、「大きな古時計の歌詞は実話である」と書かれていた。少し、信じ難いことだけれど、やっぱりその、古時計に特別な思いがあったからこそ、起きたことだと思う。
私達と時計の関係は、とても複雑だと思う。ただ、同じ時間間隔を刻み続ける時計もあれば、ちゃんと自分の意思を持っているかのような時間もある。本当は、全ての時計に意思があるのかもしれない。それを確かめるすべはないけれど・・・どちらにしても、時計は私達の生活に色々な影響を与えてくれる大切で重要なものだと思う。
「時計は生きている」新居 華奈さんのエッセイ
この世界は空間的だ。時計は、この世界に単位をつけたようなものだと思う。
時計は、今までの歴史のすべてを刻んできた。世界中の人々の思い出を刻んできた。 時計は、すべてを知っている。一番身近で、いつも私達と隣り合わせである。だから私は、時計がなくなると不安がつのってしまう。
私は、行動が遅いせいか、よく時計を見てしまう。コンビニなどの場所で、時計がないところがあると、私はあせってしまう。今が何時なのかがわからないと、あとどれくらいで帰らなければならないのかなど、そんなことがすべてわからなくなる。ただ不安と心配だけしか残らない。時計は、私に計画を立てさせてくれる。私にとって時計とは、体の一部のようなものかもしれない。なくなっては、いけないもの。側になくては、ならないもの。時計は大きな存在だ。
けれど、私だけではない。世界中の人々が時計を必要としている。もし時計がなければ、この地球上の人々はどう過ごしていたのだろう。思い出の時間も生まれてきた時間も、すべて失ってしまう。だから時計はときを刻み続けている。
私達はまだ気づいていない。どんなに時計が私達に必要なものか。それは、時計が私達の近くにありすぎるからかもしれない。私達は、時計と共に生きている。今、私達は、横目で見ながら足早に時計の横を通り過ぎている。けれど、きっといつか気づくだろう。時計は、この世を刻み出している。
「動き続ける時計」亀井 絢さんのエッセイ
時は常に刻み続け、時代は常に進んで行く。今も昔も形は変われど、人とともに生き、刻み続けていく時計。時計は時に厳しさと安らぎを与えると私は思う。心地よい一定の音。しかし時に人を惑わす音。そんな時計は一つで十分だと思う。
私の部屋では、掛け時計、デジタル時計など三つの時計が置いてある。それは使い古したもの、友人からもらったもの、新しく買ったもの、思い出が詰まったものからなにも思わないものまでさまざまだ。歌で『大きな古時計』という題名のものがある。その歌では、おじいさんが生まれたときに家に来て、おじいさんと同じときを刻んでいる。私はまだ私の人生と、共に生きてくれたときは無い。でも今からでも遅くないから共に良きて行こうと思う。
私が思うに、時計は必需品だと思う。出かけるときは腕時計を持って行くし、遊ぶときも、変えるときもすべて時計を見る。私の門限は、五時半と、決められている。また、遊びに行くときには必ず親が「何時に帰ってくるんだ」と聞くので時計を見ながら答える。学校に行くときも時計を見るし、授業中も、時計を見る。時間を知るにはとても大切な役割をしているので私は生きていくうえでとても時間は大切だと思った。大切にしている時計が動かなくなってしまったらすぐに捨ててしまう人がいるが、私は時計が止まっても大切な思い出として残していこうと思う。
「大切な時間」佐藤 悠加里さんのエッセイ
私の家には、時計がたくさんあります。父が時計を集めるのが好きだからです。一階だけで17個もあります。そんなに必要でもないと思います。腕時計だけでもいっぱいあるのに、なんでそんなに集めるのかが不思議だと思います。けれど、私もなんだかんだ言いながら、部屋には時計が3つあり、携帯を合わせると5つになってしまっています。でも使っているのは携帯と掛け時計だけです。他の時計は必要がありません。
私はいくら家に時計があっても残念なことには、時間を守ることができません。学校も朝起きるのがつらくて、7時ぐらいに起きても二度寝してしまって8時前まで寝てしまいます。そしていつも母に時計を見ろと言われています。テストの日はきちんと行かなくてはいけないので、しょうがなく起きているけど時計をたまに見るとギリギリの時間になってしまって慌てて学校に行っています。高校大丈夫かなと思います。
やっぱり時計は必要なのだと思います。そして、生きていくために大事なものの1つだと思います。大人になっても、何時の時代にも必要だし、急いでいる時に時計がないととても困るのでこれからは、ちょくちょく時計を見ようと思います。そして、時間を絶対に守れるしっかりした人になりたいと思います。
でも思えば、学校ぐらいはちゃんと行けないと駄目だと思うので、まずはちゃんと学校に行けるように、目覚ましを使うなど家の時計を十分に使っていこうと思います。 そしたらそのうち時計の良さが解ってくるだろうと思います。
「不定時法で時を刻んで」芦野 剛徳さんのエッセイ
先日、女友達と上野動物園を訪れた後、下町情緒を楽しみに谷中へ足を伸ばした時でした。
久しぶりに訪れたためか、お寺などの土塀が続く、まるで迷路のような小さな道に迷い混んでしまいましたが、その時、偶然、ある道しるべを見つけたのです。それは大名時計博物館へ導いてくれるものでした。
私たちは、好奇心も手伝い、その博物館に行くことになったのです。
その博物館は、昭和二十六年に陶芸家の故・上口愚朗さんが、収集してきた大名時計を展示するために作られた私的な博物館で、現在は、二代目の上口等さんが引き継いでいらっしゃいます。
たたずまいも、一見したら民家のようですらありました。
中に入ると、その展示室には、身の丈と同じくらいの大きさの大名時計が、数十個と並んでいました。
フランシスコ・ザビエルの来日以来、その技術は、御時計師と専門の職人に伝えられ、江戸時代には、徳川家やその他、藩主たちによって持て囃されてきたのです。
大名時計の時に刻み方は、不定時法と呼ばれ、季節やその場所の日照時間に合わせて、調節できるようになっています。
仕事で忙しい日々を過ごす私たちにとっては、天秤の重りでゆっくりと時を刻んでいく大名時計に、気分も江戸時代へタイムトリップしたようでした。
人間は、昔から時間というものに追われていたのかもしれませんが、大名時計のような優雅な時の刻み方でしたら、もっと毎日を大切に生きられるのではないかとも思いました。
「懐中時計」ショーン ツジモトさんのエッセイ
なぜか子供の頃から懐中時計が欲しかった。
それを初めて見た日のことを今でも覚えている。
僕はニューヨークのケネデイ空港で日本行きの出発を待っていた。そのそばを、搭乗を急ぐのか、足早に通り過ぎた老紳士の腰からわずかに銀のくさりが光っていた。その後ろ姿が,シャローックホームズのようでいかしてた。
何年かたって、お正月を家族と京都で過ごした。
駅ビルの地下で「お年玉セール」と書かれたワゴンの上に、懐中時計がごちゃ混ぜの商品の中で埋もれていた。僕はそれが、ほんとうに動くものか確かめもせず人ごみに圧倒されながら、元旦の朝、母からもらった唯一のお年玉である千円をはたき、かい損じてはなるものかと買い急いだ。
「ナニヲ カッタノ?」
「懐中時計」
「カイチュウ ドケイ?」
母には細かい日本語が理解できなかった。これまで何の疑問もなく話し、心に押しとどめた「カイチュウドケイ」という日本語を説明するには,ようやく念願かなって興奮する、その時の僕にはまどっろこしすぎた。
「ポケットウオッチ!」とすばやく英語でやり返した。
「オーノ! ソレハウゴクノ?」、とあきれた表情の母。
千円の時計など動くはずがないといわんばかりであった。
そのとたん、ぼくは我に返り、包まれた箱から時計を取り出し確かめてみた。
父も母も,弟までも,その懐中時計を凝視した。
案の定、動いていない。そればかりか「長いはり」は、磁石の針のように自由自在にぐるぐると回っていた。
ごった返す地下街のど真ん中で、僕たち4人は小ちゃな懐中時計をめぐり、ごちゃまぜの言葉で真剣に議論をしていた。人々の視線が怪訝そうに注がれていた。
「カエシテキナサイ」と母はいう。
そうだそうだ,と父や弟までがせっついた。
だが,僕は嫌だった.やっと買えた懐中時計だ.うごかなくたっていい。
ジーンズにさして,あのときの老人のように歩きたいんだ。そう心の中で叫んでいた。
日本通を自認する母が、ため息をついていた。
それでも,壊れた時計の入った箱を抱かえる僕をみて,
「アメリカに帰ったらなおしてあげるよ。」と父が英語で慰めてくれた。
「ウン」、そう、うなずいたとたん、ふいに涙があふれてきた。
「オーケイー、ウゴカナクテモ,“ポケットウオッチ”ヨ.ショーンの大切な思い出の」、といいながら勝ち気な母がめずらしく抱きしめてくれた。
母に涙を拭われながら,僕はジーンズのベルト口に懐中時計のチェーンを通した。
時を知らせてくれなくたっていい。ようやく夢が叶ったんだ。
ぼくは得意げにチェーンを少しだけ出し、みんながみてくれるようにしてみた。歩きながら,ちょっとだけ大人になったような気がした。
僕の「懐中時計」は最後まで時を刻んではくれなかった。だが,思いがけずも家族の大切な記憶と思い出を刻む役割を果たしてくれた。
今年もあと数日だ。
新しい年を迎えると、僕はどの国にいても京都で過ごした少年時代を、なつかしく思い出す。幼い日の弟や今ではチョッピリ年老いた両親の、若き日の姿や声がよみがえってくる。そして机の引き出しの中で今も健在の懐中時計にそっと彼等の無事を託すのが,いつの頃からか習わしとなっている。
「とんがり帽子の時計台」藤田 俊文さんのエッセイ (12月のベストエッセイ)
緑の丘の赤い屋根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メエメエ子山羊もないてます
このテーマ音楽が聞こえてくると、ラジオの前に耳を近づけて聞きいったのは、今から50数年前でしょうか。10数年前に勤務していた学校が建て替えることになり、
「どんな校舎が よいだろうか」と皆で話し合いました。
誰もが「あの 羊羹のような形をした 味も素っ気もない校舎は止めてほしい」と言うのが一致した意見でした。
そこで、何かシンボルになるものを表し、個性のある建物がほしいと、市当局にも願い出ていろいろな意見が交わされました。
その結果、校舎の屋根に大きなとんがり帽子の時計台のある建物に話が進められたのです。これは、私自身にとっても子供の頃からの夢だった建物です。
地域の人は、空に向かって時計台がそびえるなら、地上には私たちの手で大きな日時計を作ってあげようという話に発展していったのです。
このように多くの人の知恵と汗で時計台と日時計を備えた校舎が完成したのです。
転勤するとき、地域の皆さんから「このとんがり帽子の校舎を一生忘れないでください」と、「とんがり帽子の形をした時計」を記念品としていただき涙したのを忘れることができません。
今も私の部屋で、この記念の時計が時を刻んでいるのを目にする度にとんがり帽子の時計台と日時計を思い出すのです。
「目覚まし時計のケース」小田 慶喜さんのエッセイ
四十年前になるが、小学校の一年生のクリスマスプレゼントに、両親が目覚まし時計を買ってくれた。今も人気がおとろえてはいない、当時としてはあこがれのねずみのキャラクターの黄色いゼンマイ式の目覚まし時計だった。うれしくて秒針のコチコチと動くのを、それこそ時間を忘れて見つめていた。
不思議なもので、目覚ましをかけて起きようとするのであるが、そのような時には目覚ましが鳴る前に起きてしまう。また、目覚まし時計が鳴らなかったと文句を言う場合もある。実際には鳴っているのであるが、熟睡していて目覚ましくらいの音では起きないのである。このように、小学校の低学年には目覚まし時計に頼る生活は、必要のないものであった。しかし、時計というものを意識させるには、重要であったと考えている。時計の文字盤を思い浮かべる時、わたしたちの年齢層は、アナログ時計の文字盤を思い浮かべる。単純な数字の引き算や足し算ではなく、長針と短針の角度でも時間の計算をする。私の場合はその思い浮かべる文字盤に、最初に買ってもらった目覚まし時計のキャラクターが付いて来るのである。
この時計は、数年で壊れてしまい動かなくなった。この頃になると、時計がどうして動くのか興味を持つ年齢となっている。当然、ドライバーを持って修理にかかるが、複雑なゼンマイ仕掛けの精密時計を修理できずに、いくつかのネジを残して裏蓋は閉じられることになる。こうして何度も修理の真似事が行われ、最後の貢献をした時計は捨てられることになる。
しかし、目覚まし時計の入っていた銀色の円柱の金属のケースは、まだ私の手元にあり、渋い色を放っている。もちろんこの金属のケースも、人の手で作り出されたものである。わき役ではあるが、製品の入れ物も大事な商品であることが理解できる。当時の時計の製作や販売に関わる人たちは、ここまで考えていたのだと、時計に関わる人々の能力の高さに感心している。
「無愛想だった父の腕時計」
今から50年前の昭和30年(1955)冬、私は高校受験の会場に向かって自転車を走らせていましが、寒さとともに大きな不安を持っていました。時間の配分にかかせない時計がなかったのです。
高校生の兄に頼みましたが、今日は絶対必要だから貸せないといわれ、母に云うと「あたしのは古いからねえ」と出してはくれましたが、やはり止まっていて動きません。
仕方なくそのまま出かけましたが、自転車をこぎながら不安は募るばかりでした。
試験会場の待合室で深呼吸を繰り返し、気を落ち着かせていると、私の名前が呼ばれ「至急受付まで来て下さい」と放送がありました。提出書類の間違いかなと恐る恐る行ってみると、そこには無愛想な父の顔がありました。そして「これを使いなさい」と自分の腕から時計を外し、私に渡しながら「頑張りなさい」と言い残し、タクシーで行ってしまいました。
自分の席に着いて、その時計を机の隅に置き苦手な数学の試験を受けましたが、時間をうまく使ってなんとか自分なりの結果を出すことが出来ました。他の科目も落ち着いてこなし、昼の休憩に入ったので母に電話ところ、父に知らせたら「分かった」と言っていたそうです。勤め先の役所からタクシーを飛ばしてきたのでしょう。合格祝いに私はその腕時計をねだりました。それはイギリスの軍用時計で「エニカー」という名前でした。太めの針には蛍光塗料が塗られ、暗いところでもはっきり見え、友達に自慢したものです。
父は15年前に亡くなり、唯一の形見といえる時計は夜光塗料が剥げ、フレームも錆びてきました。針は動かず、11時34分で止まったままです。古びて機能がなくなっていますが、時折取り出して耳に当てると、父の無愛想な顔とともにチクタクチクタク時を刻んでいる気がしてなりません。本当に時計は不思議なものです。
「おかあさんのとけい」岡崎 佑哉さんのエッセイ
団地の我が家では今、朝になるとコードレス電話のあと携帯電話、次に小さくて安っぽい目覚ましが次々と鳴り、忘れたころに釣り鐘のような形の、豪華でピンク色の目覚し時計が鳴ります。この目覚し時計は、八歳の僕より十年も前、まだ独りぼっちだったお母さんが使っていたものです。
時計の針の下につまみがあって、四種類の音色が流れます。これは今でもいる、伝説の女性シンガーソングライターの歌なのですが、僕が幼稚園のころからだんだん調子が悪くなっていきました。まず音が突然飛んだり、尻切れとんぼで止まるようになりました。その次に音がだんだん悪くなり、小さくなっていきました。でもすっかり壊れているわけではないのです。
この間、時計は九回も引越しをしました。僕が生まれた時も、家族がけんかした日も、時計はなんか目立たないそこいらへんにいました。
うちはともかせぎなので、朝はぼくとか押しのけてみんな忙しいです。でもぼくは最後の目覚し時計が弱々しく歌い始めると、のそのそと起き出していってしばらくか細い音色に耳を傾け、頭のところをぽんぽんたたいて止めるのです。ぼくだけは、最後までこのちょっと時代遅れのロマンチック目覚ましと一緒にいてあげようと思っています。
「先生の腕時計」かとう あつこさんのエッセイ
金色の文字盤に黒いベルベット調のベルトの時計が先生の腕に光っていた。あまり顔は思い出せないのに、時計の印象は強く残っている。子供だった私は優しいピアノの先生が大好きだった。「ああいう大人の女性になりたい、大人になったらああいう時計をしたい」先生の白い腕に光る時計は私の大人の女性への憧れそのものだった。やがて先生は結婚のため仕事をやめることになり、私には新しいピアノの先生がついた。私は新しい先生にどうしてもなじむことができず、しばらくしてピアノをやめてしまった。
大人になった私は憧れてきた時計とは違うものばかり選んできたように思う。どうも清楚な先生と自分がかけ離れているように思えるからかもしれない。
現在、私は老人保健施設で介護職員として働いている。時折へたくそながら、ピアノで童謡や懐メロを弾いたりしている。つたない腕前でも喜んでくれる入所者の方たちがいる。そんな時間を私も楽しんでいる。
ふと先生の腕時計がちらつく。今は仕事も子育ても忙しくて、金銭的にも余裕はないけれど、いつか子供たちが私の手から離れていったら、時間をかけて、あの先生の腕時計に似たデザインの物を探そうか・・・、などと思ったりしている。
それが自分へのご褒美というやつかもしれない。
「掛け時計と科学の世界」加藤 ミハルさんのエッセイ
その掛け時計は、私を科学の世界に導いてくれました。
中学生くらいまでは、私の家は、田舎によくあるタイプの古い屋敷だったので、掛け時計がチクタクボーンボンと騒がしく働いていました。その時計の手まきゼンマイを巻くのは私の仕事だったのですが、2つのネジは硬くて何回も回さなければならず、せいぜい月に2回ほどの仕事だったとはいえ、イスにあがって腕を伸ばしたままの姿勢は結構つらいものがありました。時々腕を降ろして休みながらネジを巻いたことを、昨日のことのように思い出すことができます。
さて、そんな掛け時計でしたが、子供を育てるようになった今、私は、その思い出が、初めに書いたように私の科学の世界と結びついていることがわかってきたのです。
その掛け時計は、ふたを開けると独特な機械の油の臭いがしたし、ゼンマイの動きが空気に伝わっていくような、小さいが力強い振動がありました。それらは、腕時計みたいな小さな機械では感じることのできないものです。その機械の存在感というか、質感というか、そういったものを、知識だけでなくて五感を通して知ることができたのです。
さらに、掛け時計は、上部だけが柱に固定されていたので、ネジを巻くたびに全体が少しだけ傾いてしまいました。だから、そのたびに傾きを直しておかないと、振り子が途中で止まってしまうのです。そういう、自然の原理みたいなものも、子供ながらに体で知ることもできました。
古時計といえば、故人をしのび昔を懐かしむ物であると相場が決まっていますが、私にとっては、それだけではなくて、科学的な世界へと私を導いてくれた存在なのです。このような経験を子どもにもさせてやりたいと思うのは親バカの証拠かもしれませんが、その思いを心に留めながら子どもに向き合っていきたいと思っています。
「私の宝物」牛田 克彦さんのエッセイ
私の愛用している腕時計が近頃調子が悪い。電池を替えたばかりなのに3ヶ月もしないうちに止まる。「もう寿命だね」と言われガックリ。この時計は息子の思いが込められている物だ。「もう寿命では済まされない」
息子の大学最後の冬休み今年は帰省しないと言ってきた。就職は内定していたし卒業論文も順調だと言っていたのに何故帰って来ないんだ。待ってる親の気持ちも考えろなんて思っていたら学校が始まって間もなく息子から小包が来た。ペアの腕時計が入っていた。バイトをしていたので帰省できなかった。バイトのお金が入ったのでお父さんとお母さんに腕時計を買いました。本当は仕事に就いて給料を貰ったとき買おうと考えたのだけど自分にとってバイトとは言え初めての給料なのでお父さんとお母さんに何かを考えました。高校に入ってバス通学してたらどうしても時計が欲しくなりねだって時計を買って貰った。それが嬉しくて嬉しくて、、、初めての給料で腕時計を贈らせてもらいます。身に付けて欲しい」旨の手紙は入っていた。親のスネを囓っていながら何がプレゼントだとは思ったものの急に涙が出てきた。重度の喘息で生き死を彷徨っていた小児期、ホームステイして夏休みはアメリカで暮らすと飛び出した中学生、修学旅行で見た京都で大学生活をしたいと言い出した高校生、自転車部に入り全国を走り回ってハラハラさせた大学生活、いつもいつも振り回されていた感??の息子がバイトとは言え給料でプレゼントとは恐れ入った。高校の時買って貰った時計が嬉しかったから時計にしたと言う息子の心が嬉しかった。
寿命の時計は何とか消耗部分をやっと取り替え元の元気な宝物に復帰。大事に使い5歳となった孫が高校に入ったらこの記念の腕時計を引き継ぎたい。
「幻の掛時計」長谷川 園子さんのエッセイ
古い古い話である。
わたしが幼い頃の話だから、もうかれこれ七十年近くも前のことだ。
わが家の居間の柱に、ごつい振子時計が掛かっていた。父が大正時代の中頃に所帯をもったとき、古道具屋から買ってきたものだというから、それは多分、明治時代のもので、それもドイツ製だったようだ。文字盤の数字は、T・U・Vというローマ数字だったし、前面のガラスには横文字が入っていた。家族のうち、だれひとりとしてその図案化された横文字を読める者はいなかった。
「何て書いてあるの。」
と父に尋ねると、父は大いばりで
「ドイツでできた時計だから、この字はドイツ語だ。だから読めん。」
と答えたものだ。
ある日のこと、居間で相撲ごっこをして遊んでいた弟たちが、組み合ったまま勢い余って時計の掛かっていた柱に激突した。そのはずみで時計のガラスが落下した。幸いにして、弟たちにけがはなかったし、ガラスも割れなかった。
翌日父は、「ニカワ」でガラスを接着した。ところが、その修理ずみの時計は、ガラスの表と裏があべこべになっていた。横文字の読めない父には、それが解らなかったのだ。
裏返った文字を眺め続けて十年近く経ったとき、三河の大地震が起きた。第二次世界大戦中のことだ。この大揺れで壁には大きな亀裂が入り、時計は落ちて振り子は飛び、例のガラスは微塵に砕けた。
こうして時計は、わたしたちの前から姿を消してしまった。しかし、あの懐かしいさかさ文字の時計は、わたしの心の中に、今も幻となって生き続けている。
「一番うれしかったバースデイプレゼント」東京生まれ沖縄育ちさんのエッセイ
沖縄本島からさらに南東にある、宮古島の学校に転校して2年の間、人付き合いの苦手な私は、なかなか仲の良い友人をつくることができなかった。
だけど、中学2年の夏あたりから、いつでもどこでも一緒の女の子5人グループができた。楽しいこともつらいことも共有できる仲間ができたことがとてもうれしかった。
私もやっとこの学校にとけこめた気がした。
しかし、中学3年になる前に私は父の仕事の都合で、沖縄本島の那覇市にある中学に転校することになった。
那覇の中学に通うようになってからもやはり、しばらくは私に仲の良い友人はいなかった。
7月になり、私の誕生日の1週間前に、宮古島の仲間たちから小包みが届いた。開けてみると、中にはバースデーメッセージが書かれたカードとみんなの写真、プレゼントとして壁掛け時計は入っていた。
すごくすごくうれしかった。そして次の日、私は那覇の中学で仲の良い友人をつくることができた。
あれから10年が経つ。
私の部屋の一角に掛けられた、黒枠で白地に外人の男の子と女の子がキスしてる時計を見ると、宮古島の友人たちを思い出す。そして思う。
「いつかみんなでまた会いたいな・・・。」
「古い柱時計」若命 三千一さんのエッセイ
物心ついた時から奥の八畳間の真中の柱に、古い柱時計が掛かっていました。柱の後ろは縁側でそのそとが坪庭です。いつから其処にあったのかわかりませんが時間がくると時を打ちます。ボンボンボンと低い響く音でその時刻の数だけ鳴っていました。
しかしこの時計は厄介でした。針と音とが別々のゼンマイになっていてねじ穴が二つあるものだから二つとも巻かなければなりません。しかも二十四時間巻きなのです。毎日必ず巻かないと止まってしまいます。このねじ巻きは子供たちの役目でした。姉二人と私とで順番をきめての仕事でした。
この時計を初めてこの家につけた時は、ほら、鳴るぞ。鳴るぞ。と物珍しげ近所の人たちが集まってきて聞き耳をたてていたのだそうですが、私が小学生の頃には柱時計もだんだん珍しくなくなり、ネジも二日巻きや三日巻き、七日巻きというものもあったようです。
家のもせめて三日巻きだったらいいのに。などと思ったものです。時代が進むにつれて時計は小さくなっていきました。置時計、目覚まし時計そして腕時計、我家のボンボン?時計もだんだん陰が薄くなっていきました。そして、うまく時を刻まなくなったある日から、古時時計はいつもの柱から姿を消しました。電池で動く時計が場所を得て誰も不便を感じなくなっていました。家を取り壊すことになり残っている昔の物を一箇所に集めて保存することにした時、あの古時計が出てきました。勿論動きません。時計の前の蓋を開けると振り子の後ろに英文の紙が貼ってあります。ANSONIA BRASS AND COPPER CO.という会社の物らしい。英国か米国かは不明です。社名どおり真鍮と銅が原料なのか時計の中はまだ錆びきってはいないようです。
「キミのココロ・・」Wing.Ringさんのエッセイ
それは今から10年前の話し・・。
奇妙な偶然が重なって、私は1人の男性と知り合った。
でも、その人と私は海を越えなければ逢う事は出来なかった。
ある時、私は意を決して、その人に逢うべく、夜行寝台に乗って
彼に逢いに行った。ガタン・・・ゴトン・・18時間以上の長旅。
私は時計を持って無かった・・だから窓から見える景色や、車掌のアナウンスで土地を判断するしか無かった。
駅に着き・・迎えに来てくれた彼と初めて顔を合わせた。優しくて、穏やかで、初めて逢った気がしなかった。
色々な所に連れて行ってくれて、外が薄暗くなって来た頃、何となく彼の腕に光る物を感じ、私は目を向けた・・
彼のしている腕時計の文字盤の光りだった・・。
キレイに光りを放ってる文字盤に私は釘付けになり、ジッと見ていた。
「この時計・・が・・どうか・・した?」彼は不思議そうに私の顔を見て聞いて来た。
「いえ・・この時計・・キレイだなぁ・・って思って・・私、時計持ってないし、こんな時計あるなんて知らなかったから・・」思わず口から出てしまった「本音」だった。
その後、帰るまでの1週間はあっという間・・・
帰る前日、彼は私に1つのプレゼントを渡してくれた。
それは、彼とお揃いの時計だった。「俺のお嫁さんになって下さい、俺、必ず迎えに行くから、逢えなくて辛い時、寂しい時、俺が側に居ると思って、いつも身に付けていて欲しい。」私は泣きながら、彼の腕に自分の腕を重ねた・・・翌日も、同じ事をして私は彼と離れた・・。
帰ってから、辛い事が沢山あったけど、私の腕に光る時計を見れば、乗り切れそうな気がして、何となく頑張れた。
「必ず迎えに行く」と断言してから3ヶ月後、約束通り本当に彼は私の住む地にやって来た。だが時計と同じで、戻る事は無かった・・
そのまま「夫婦の人生時間」として今も刻み続けているのだった・・。
「10時1分34秒の秘密」石井 仁さんのエッセイ
小学生の時のこと。僕の隣の席に座るその女子は、とても不思議な子だった。転校してきた子で、あまり友達がいない。何を考えているのかわからないところがあったからかもしれない。授業中はいつも窓の外ばかり見ていた。
僕はいつも教科書を忘れて、彼女に見せてもらっていた。ある日の授業中、二人で教科書をのぞいていると、彼女が教科書に「いいことおしえてあげようか」と落書きした。いいことなら教えてほしい。僕も「なに?」と書いた。彼女は先生に聞こえぬよう、小声で
「おもちゃ屋のカンバン、10時1分34秒に回りだすんだよ」
とささやいた。
僕らの席は窓際で、窓からおもちゃ屋のカンバンが見える。そのカンバンは、営業時間中、いつも電気の力でクルクル回っているのだ。だが、そんな回りだす時間なんて、わかるわけがない。
「ほんと?」
僕は疑った。教室の前方にある、大きな丸い時計の秒針を二人で見つめた。10時1分30秒、あと3秒、2,1・・
「おー、ほんとだ!」
僕は叫んだ。クラスの皆がこちらを振り向いた。先生には僕だけしかられた。でも彼女の言う通りにカンバンが回転し始めた。 彼女はいつも、授業が早く終わらないかな、と時計や窓の外をながめていたため、カンバンが回りだす正確な時刻に気づいたのだそうだ。僕は、女子のくせにたいした奴だ、と思った。
その日から授業中はいつも、二人で時計を見つめた。チャイムがなるまであと○秒と数えたり、11月11日などの日に、11時11分11秒になるのを二人でカウントダウンしたりした。くだらないことだが、彼女と話すのはとても楽しかった。あるとき彼女が
「なんだか秒針って早いね」
と言った。そういえばいつも授業中は、時計が進むのが遅いと思っていたのに、気がつくと秒針はとても早くて、授業はあっというまに終わってしまった。
「親父の目覚まし時計」金子 雅人さんのエッセイ
入院中の親父が息を引き取ったのは、午後3時だった。
もちろん家族全員悲しみに包まれはしたが、しかしぼくには、もう病気で苦しむ親父の姿を見なくても済むのだと安堵する部分もあった。
ナースステーションで諸手続きを済ませ、病室の後片付けをしているとき、窓際近くに置いてあった目覚まし時計を、ふとした拍子におふくろが9階の窓から外に落としてしまった。慌てて窓から顔を出して下を見ると、さっきまで病室にあった目覚まし時計が、1階ピロティの屋根の上に散乱していた。
その目覚まし時計は、かつて親父が国鉄職員をしていた頃に、朝の苦手なおふくろのために買ってきたものだった。もう、かなりの年代もので、月に20分は遅れる代物だった。
それでもおふくろは、お父さんが買ってきた時計だからと、ずっと大切に使い続けていたのだった。
それだけに、その大事な目覚まし時計を窓から落としてしまったショックは大きかったらしく、それまで親父の死を忘れようとするかのようにつとめて明るく振舞っていたおふくろも、さすがに口を閉ざしたまま、じっとピロティの屋根の上を見下ろしていた。
ぼくはおふくろの肩に手を乗せながら、一緒に下を見下ろした。たしかにおふくろにとって、それは大事な時計だったに違いないけど、しかし、「かあさん、もう早起きしなくてもいいぞ」と親父がどこかで言っているように、ぼくには思えた。
「同じ」平本 とよみさんのエッセイ
あれは 確か小学校3年生か4年生の誕生日だったと思う。友達がかわいいサンリオやら、デイズニーなどの腕時計を持っていて 妙にほしくて欲しくてミッキーの時計をおねだりした。もともと少々ひつこい正確の私に根負けした両親は腕時計を買ってくれると約束してくれた。
いよいよ誕生日の夜がやってきた。ワクワクする気持ちを抑えられず、プレゼントを開ける前から口元が緩んで仕方が無い。「時計うれしいなあ」つい言葉も弾む。パリパリと包装紙をあけると透明の箱のなかに腕時計が・・・。こんなときのセロハンテープほどわずらわしく感じるものは無かった。もう〜!早く開けたいのにカツカツと爪を立てないととれないのだ。それでもミッキーの時計を腕につけるためには努力を惜しまなかった。そして、やっと蓋があいた。と、そこには、私の欲しかったミッキーの時計ではなく、極似のまがいものミッキーがあった。思わず「ミッキーじゃない!」と両親にくってかかった。 がしかし、親も手ごわかった。「あら、ミッキーかと思ったけど」「同じじゃないか」薄らとぼけているのか、本当にわかってないのか不信感だけは募っていたが、事実として私の腕時計は極似ミッキーだった。しばらくは着ける気にもならなかったが、結局必要に迫られて着けるようになり、それが自分の意思に反して丈夫で長持ちした。かれこれバンドがかなりいかれてしまうほど身に着けていた。極似ミッキーもなかなか捨てたものじゃないと後から気づいたのであった。
「未来を刻む時計」宮本 佳代子さんのエッセイ
私が初めて腕時計をするようになったのは、今年の四月からだ。今まで腕時計をしたことのなかった私に、大学進学をきっかけに、何かと必要になるからという理由で母がプレゼントしてくれたのだ。特別な物でもなく、シンプルな茶色の腕時計。私は親元を初めて離れた不安や寂しさから、毎日その腕時計を眺めては母を思い出していた。今まで腕時計をしたことのなかった私だが、毎日その時計を左手にはめ、無意識のうちに、その時計をのぞき込んでいた。そんな私も春、夏と季節が変わるたびに、生活にも慣れ、多くの友人が出来、次第に寂しさを感じなくなった。しかし、どれだけ友人が出来ても、いつも私と一緒にいて、寂しいときも楽しいときも、共に分かち合ってくれるのは、この茶色の腕時計だけ。まだまだ一緒に生活を始めるようになって一年も経っていないし、思い出も少ないけれど、これからもよろしくね。これからも私とずっと一緒だよ。そして未来に向かって時を刻んで、沢山の思い出を作っていこうね。
「時を打つ」木村 留美子さんのエッセイ (12月のベストエッセイ)
うちの実家(新潟県南魚沼市)の、柱時計ときたら…。こちらの都合などおかまいなしに、情けようしゃなく、時報を打つ。テレビを見ていようが、うたたねしていようが、鳴りはじめたら最後の一打ちまで、しつこく鳴らし続ける。ごていねいにも「半」まで報せる、念の入れよう。とにかく、やかましいのだ。
昔、同じ所にかかっていたゼンマイ式に比べ、『いまのやつは何て品がないんだろう』と、常々うとましく思っていた。たまりかねて、完全に止めてしまったことさえある。
十月のその日まで、そう思っていた。実家のコタツでお茶を飲んでいたその夕べ、「未曾有」の事態が降ってわいた。新潟県中越地震ーー
震度6の衝撃が突き上げて来たとたん、全域が停電。闇をかき分けるようにして外へ退避してはみたものの、烈震が二度、三度とやってきて、おさまる気配はまったくなかった。
星の光が冴えた、凍える夕だった。夜がふけるにつれ、寒さがしみて、たまらず屋内に戻った。濃い闇の中、いつまた大地が鳴動するかと身がまえ、不安に塗りこめられた夜だった。
いつになったら明けるのだろう? これほど、夜明けが待ちどおしかったことはなかった。そもそも、無事に朝がむかえられるのだろうか?――保証はどこにもない。
そんな中でも、柱時計は、変わらず時報を打った。一つ、二つ…。着実に数をましてゆくその確かさに、なだめられた。『いずれ夜は明け、かならず朝は来るのだ』と。
やがて、空が明るみ、朝日が輝き立った。その朝に聞いた「七時の時報」は、晴れやかで、無事を祝福するかのようだった。
「セイコー三針」篠永 哲一さんのエッセイ
昭和30年代の初め、腕時計などは高価で、田舎の中学生の持ち物ではなかった。私の祖父は小さな時計屋さんを開いていた。お店に遊びに行くと、祖父はいつも仕事台に向かって、柱時計を分解したり、腕時計の修理などをしていたものだ。店のショーウインドーには、さまざまなデザインの時計が並べられており、当時私たち中学生にとっては腕時計が気になって仕方がなかった。
中でも、セイコーの三針というニューフェイスを注目していた。あの頃の時計は、文字盤の中にもうひとつ小さな文字盤があって、そこで秒針だけが回っているというものだった。これは小さくて読みづらい。三針というのは今でこそ当たり前の機能だが、あれは腕時計革命だったに違いない。
時計にあこがれてはいたが、当時我が家は経済的に苦しく、簡単に買ってもらえるような状況ではなかったし、祖父もまた、中学生に気軽に持たせるものではないと思っていたようだ。
中学を卒業して、私が洋服屋さんに丁稚奉公に行くことが決まったとき、祖父からのプレゼントが「セイコーの三針」だった。「ネジはきっちり、毎日同じ時間に止まるまで巻くんやで。」と教えてくれたのを、今もはっきり覚えている。飛び上がるほどうれしかった。私の一番高価な宝物になった。
就職して半年くらい経った頃、職場の仲間とハイキングに行くことになり、当然自慢の時計は左手に輝いている。それをいともあっけなく、深い茂みの谷底へ落としてしまったのだ。
しばらくの間、祖父にも父にも言えず、何年か後に働いたお金でよく似たデザインの時計を買った。
「サインのない贈り物」円山 雪さんのエッセイ
目覚ましが鳴った。
うーん、起きるかぁ。
布団の中で伸びをして、時計の針をチェック。ここから、新しい一日が始まる。
文字盤がはっきりしていて、いい音で毎朝起こしてくれる目覚まし時計。サラリーマンの妻になった私に、お弁当作りの時間を教えてくれる頼もしい相棒だ。
この時計が新居で見つかったのは、結婚パーティの翌日。
「これはヤツからの」
「あ、これは私の同期から」
夫とふたりで、パーティでもらったプレゼントを開けていくうち、まったく覚えのない包みがひとつあった。
「とりあえず、開けてみよっか」
枕元にぴったりの程よい大きさ、銀色のシンプルなデザイン。時刻の自動調整機能がついた、実用的な目覚まし時計が出てきた。
いったい誰が?
次から次へと祝い客がやってきた当日。なるべく二人離れずに応対していたつもりだが、このプレゼントだけは、いつ、誰から受け取ったのか、双方まったく覚えていない。贈り主はシャイな性格の人だったのか、カードも、名前も見当たらなかった。
ふたりで時を刻むように、と贈ってくれた洒落者は、結婚して半年が経ったいまもわからない。わからないことでむしろ、当日祝ってくれた友人たち全員が、ふたりの時を見守ってくれているような気がする。初心を忘れずに、仲のいい夫婦でいよう。時計を見るたび、そう思う。それが贈り主にとって、どんなお礼よりも嬉しいことだと思うから。
「腕時計を買い換えた時」智ママさんのエッセイ
「少しは貯金もあるんでしょ?良い腕時計買えばいいじゃない」と母。余計なお世話だ。
中二の夏、父に買ってもらった腕時計。ステンレス製、八角形の文字盤。「中学生のにしては大人っぽい」と、当時、言われた。
以来、無精でもあり、入浴の時以外、寝る時もはずさない。ガラスは傷だらけ。留め金も何度も直した。中学、高校、大学、社会人と、ずっとこれ一本。もう体の一部だ。つけていないと、左腕が軽くて違和感がある。一生この一本でいいと思っていたのに。
「違うよ」
私の話を聞いて年上の友人がたしなめた。数ヶ月後に結婚する。好き勝手にお金を使えなくなるかもしれない。その前に自分のために使いなさい。そう言いたかったのだ、と。
「確かにそれ地味な時計だわ。学生みたい」
中学の時からだと言うと、彼女は少し呆れた顔をして、じゃあなおさらよ、と言った。
地味なのか、これ?感覚が正直、わからない。ただ、それからデパートなどの腕時計売場に興味がわくようになった。
三十歳の誕生日、思い切って腕時計を買った。ゴールドとステンレスのコンビ。少しはデザインも大人っぽい。初めて付け替えてみた時、売場の年輩の男性がにっこりした。
「その方が、今の服に合うよ」
見比べたとき、初めて今までつけていた時計がひどく地味で文字盤もそっけなく思えた。今まではどちらが似合うかという比較の対象外だった。体の一部と思っていたから。
あれから数年。今なら、例えば友人の結婚式の席に中学からの腕時計がどんなにミスマッチだったかわかる。当時いかに自分が見えておらず、頑なだったかも。そして良い時計を買えと勧めた母の気持ちも。
一方で古い時計を見るたび、当時の思い入れが気恥ずかしく、同時に愛おしい。地味で傷だらけのこの時計は、中学から三十歳までの、お洒落に無頓着で頑なな私自身だから。
「時計は友達」香椎 璃羅さんのエッセイ
目覚まし時計はわたしの必需品だ。なかったら非常に困る。低血圧のわたしは目覚まし時計がなければ、起きることが不可能なくらい、朝が大の苦手なのだ。自然に目が覚めることなんてできやしない。あのけたましい音によって、やっと目が覚めるのだ。それでも顔を洗うまではボーッとしている。
学生時代は、母の「朝だよぉ」という声で起きていたけれど、社会人になってバスガイドという職業に就いてからは、目覚まし時計は友達のように一緒にいた。
なにしろ起床時間が三時半というときもあった。目覚ましを二個用意し、時間差でセットし、寝坊しないように工夫したものだ。一個目は火災報知器に近い音で心臓がびっくりするような目覚まし時計で、二個目は比較的静かな音。わたしの友達は、わたしのために一生懸命働いてくれた。とても懐かしい。
反対に、非常に申し訳ないのだが、高校卒業まではしていた腕時計は、社会人になってから、すっかり疎遠になってしまった。
社会人になりたての頃、わたしにはお気に入りの腕時計があった。ブレスネットみたいな腕時計で、今まで買った時計のなかで、一番値段が高かった。しかし、一週間もしないうちに、なくしてしまったのである。それでショックから立ち直れずに、それから腕時計を買うこともなくなり、ついつい買う機会を失いつつ、現在に至っているのだ。
それから長電話をしてはいけないからといって、電話口に砂時計を父親から置かれたことを思い出した。砂時計がなくなるまえに受話器を置けということだ。今は携帯電話が普及しているが、わたしの高校時代には、家族が集まっている部屋に、電話がおいてあった。それで長電話をするものだから、毎日のように父に怒られていたっけ。
時計は時間を刻むけど、思い出も詰まっているのだな。なんか改めて時計ってすごいなと感心してしまった。
「懐中時計の思い出」細野 みち子さんのエッセイ
高校二年の時、「古典」の授業を教えていただいた小林先生は、授業が終わりに近付くと、ズボンのベルトに掛けてある懐中時計を取り出して、ちらりとご覧になった。小柄で、丸顔で、少し太り気味の先生のお腹のあたりが見えてしまった。大きな文字盤が、一番前の席の私にも見えた。あと何分かを確認すると、また「方丈記」の続きが始まるのである。その優雅にさえ思える動きが、いかにも「古典」の世界であった。私にとって初めて見る懐中時計であった。
小林先生の授業には、第一次世界大戦で中国へ渡った話、「飯食ったか」の中国の朝の挨拶、無蓋列車で中国大陸を移動した話などの雑談は今でもはっきりと覚えている。戦争の話を学校の授業で話される先生は多かったように思う。両親からも聞いて育った世代であるが、実際に外地へ行かれた人の話にはだんぜん迫力があるのである。
文芸部に所属していた私は、顧問でもある先生に本当にお世話になり、五十代になった今でも、時々、思い出しては感謝している。先生は、俳句の結社の主宰者でもあり、郷土史の研究者でもあった。高校三年生の時には、「日本史」も教えていただいた。
各務原市にある「炉畑遺跡」は先生と一緒に、私たち生徒も発掘のお手伝いをさせて貰った。「日本史」という時代を超えた世界の楽しさ、「古典」という優雅な言葉の面白さ、文学の持つ楽しさを教えていただいた。
先生が交通事故で亡くなられてもう十年以上経ってしまったが、私が生きている限り、先生の思い出は、懐中時計と共に忘れないでいるだろう。世の中はデジタル派の方が、多くなって来ているが、私はアナログ派のまま生きてゆくだろうと思う。
「お守り腕時計」廣井 彰人さんのエッセイ
大学一年生から二年生になる春休みに、曽祖父が亡くなりました。九十六歳でした。元気なときの曽祖父は、車の運転が大好きで、よく私を琵琶湖に連れて行ってくれました。
私は、大学に入ったら、すぐに車の免許を取ろうと思っていました。しかし、忙しさもあって、結局免許を取ったのは大学四年のときでした。
今になって思います。
大学入学後、すぐに免許をとって、曽祖父をドライブに連れて行ってあげればよかったなあって。
曽祖父の形見のなかから、私は、1970年代のSEIKOの時計をもらいました。
自動車を運転するとき、私は必ず曽祖父の形見の時計を身に着けています。
それは、曽祖父がいつも私を守っていてくれるような気がするからです。生涯、無事故・無違反だった曽祖父ですので、その時計を着けているだけで、とても心強く思うこともあります。
まさに、安全運転のお守りです。
この時計は今も動き続けています。カチッ、カチッという時を刻む音が曽祖父の「無理な運転をするなよ!」という声にも聞こえます。
曽祖父は亡くなりましたが、時計の音に形を変え、今も生き続けているような気がします。
ひいおじいちゃん、これからも見守ってください。
「山小屋の掛け時計」東 瑞穂さんのエッセイ
一体家の中に幾つ時計があるか、わかりません。色々な機械についたデジタル時計まで入れたら、数え切れない位あるものです。
今から何十年も前の日本では、時計は大変大切なもので、一軒の家に一つか二つ、腕時計なんてお父さんが大事にひとつ持っている位のものでした。それでも、皆が、この時計に合わせて、一日を送っていたものでした。
何時の頃からか、この掛け時計のねじを巻くことが、私の仕事になっていました。ねじを巻くと言う作業は、今ではなくなりました。電気や電池や、太陽の光で時計が動くようになったからです。
一日に一回は、踏み台に乗って、背伸びしながらねじを巻いたものです。たとえ、半人前でも仕事を貰ったのは嬉しかったのです。
その後どんどんと新しい機械が出来たのに、この掛け時計だけは、残っていました。母が亡くなった時も、同じ場所で、同じ様に、時がくれば、ボンボンと鳴っていたものです。
家を整理したときに、持って来ましたが、掛ける所がありません。やがて、山の家を作りました。日本の昔話に出てくるような家です。迷わずに掛け時計は山に持っていきました。柱にかけてねじを巻いてやると、嬉しそうに時を刻み始めたのです。
仕事をして嬉しいのは、人間も機械も一緒だと思いました。その後も、山へ行く度にねじを巻いてやります。
私も歳をとって、静かな時を山で過ごすことが多くなりました。そんな静かな時に、この古い掛け時計を聞いていると、昔を懐かしく思い出します。多くの時計の中で、私には、二番目に大切な時計です。一番目には、仕事の思い出があります。
それ以上に懐かしい、子供の頃の思い出となる時計を持ってきて、本当に良かったとおもっているのです。
「月曜日の腕時計」草野京子さんのエッセイ
月曜日の朝腕時計を見る。9時55分。ヘルパーとしての1週間の始まりだ。
ほこりをかぶったサンダルがぽつんと置かれている玄関。「おはようごさいまーす」もう一度奥に声をかけると、79才のハナさんがゆっくりゆっくり笑顔で廊下を歩いて来る。
ハナさんは大好きな時代劇を見ながらお昼を食べる。「大根の煮物おいしくできたねえ」「味噌汁はしょっぱ過ぎだよ」とお昼の感想を言っていたかと思うと、「まったく悪い代官だ」「かわいそうにねえ」と突然時代劇の話になる。時代劇が終わると、子供の頃の話や運転免許を取った時の話を懐かしそうに幸せそうに誇らしそうに話す。
同じ話を何度も繰り返すハナさんに私は田舎の母の姿を重ねてしまう。だから腕時計が見られない。というのも私が腕時計に目を向けるととたんにハナさんは悲しい顔になるからだ。また一人きりの時間が来ると思うのだろう。とはいえ11時45分には後片付けを始めないと次の仕事に遅れてしまう。ハナさんの掛け時計は怪しいから、私はハナさんがちょっと後ろを向いたすきに、素早く自分の腕時計に目をやる。
夏のある朝、いつものようにハナさん宅の玄関前で時間を確かめようとした。すると時間がおかしい。腕時計が止まっていたのだ。その場は携帯電話でしのいだが、携帯電話ではハナさんを悲しませないでそっと時間を見ることができない。
不便なのでその日のうちに新しい腕時計を買った。水仕事が多いならとお店の人に勧められて、完全防水で文字盤が見やすい時計を選んだ。ところがそれから1ヶ月もたたないうちに私は家族の介護をすることになり、ヘルパーの仕事をやめた。
月曜日の腕時計は、ハナさんの笑顔と私が帰る時のちょっとすねたような横顔を思い出させる。ハナさん、今日も元気で時代劇を見ながら楽しくお昼を食べているといいなと思う。
「妻の贈り物」坂本 榮さんのエッセイ
婚約の印で贈られた時計。
当時はゼンマイ仕掛で狂いが最小で、防水付き傷つき難い高級品であった。
いつも持ち歩き大事に使った。が、紛失した。
暫くして、妻が全自動時計をかってくれた。
結婚後の苦しい家計から捻出するのは大変だったろう。
これも、いつしか失くした。
「困った時計」杉浦 由美さんのエッセイ
12歳の誕生日を向かえたその晩、父の帰宅を待ちわびていた。
「由美、誕生日のプレゼント、何がいい?」
父がそう尋ねた時、ちょっとどきどきしながら、
「腕時計」と私は答えた。
昭和50年、中学校への入学を控えた12月、友達の間でも、親からの誕生日のプレゼントは、時計か万年筆と相場が決まっていた。
中学校とは、私達にとっては、まったく別の世界、向こう側には、大人の世界が垣間見えた。
腕時計と万年筆は大人のしるし。もう何度も時計屋の広告を開いては、金属のベルトがついた1万円も2万円もするセイコーの腕時計の写真を、ひそかに切り抜いてみたりした。
その晩、父が買ってきてくれた時計は、あこがれていた金属のベルトのついた物ではなかったけれど、丸い紫色の文字盤に、黒いベルトのついた、なかなかシックなものだった。紫色は落ち着いていて、大人らしかった。
私は、大事に引き出しの中にしまい、日に何度も取り出しては、時計をはめ、ネジを巻いた。
ピアノのレッスンに行く時、買い物に行く時、およそ、外出する時は、いつも左手にその時計をはめた。腕を持ち上げて、時間を見る仕種も大人らしくてとても気に入っていた。
そうしていつまで、その時計をはめていただろう。
高校に入学した時、新しく時計を買ってもらった。
あの紫色の時計、なぜか父には言わなかったような気がするが、実は、1日に5分進むという欠点があった。
「幻の時計」木村 真理さんのエッセイ
私が中学生のとき、父がアメリカに旅行してオメガの時計を買ってきてくれた。それは中学生がつけるにはもったいないものだったので、大事にしまっておいた。
五年後に大学に入ったとき、それを取り出してつけた。バンドの部分がメタルでも皮革でもなく、黒い布製の紐になっており、あまり見かけないものなので、自慢の時計だった。
しかし、その時計との別れはある日突然やってきた。ロイヤルホテルの洗面所で、手を洗うときに時計をはずしたのがいけなかった。すぐに気がついて取りに行ったが時計はなかった。
親切な人がフロントに届けてくれたのだと思い、フロントに行って見たが届いてはいなかった。
あきらめきれずに、もし見つかったら連絡してほしいと言って電話番号を伝えて置いたが、電話はかかってこなかった。
五年間も大事にしまっておいて、やっと取り出してつけたのにあんまりだと思った。
盗った人に言いたい。それは私が十三歳のときからそれをつけるのを楽しみに取っておいた時計なんです。そんじょそこらの時計とは違うんです。手を洗う時に水がかからないようにと思ってはずしたのが仇になるなんて信じられません。
父が買ってくれた時計は幻の時計となってしまった。私には縁がなかったのだろうか。
「初めての時計」吉村 聡子さんのエッセイ
私が初めて自分の為に購入したウォッチは貴社のPresageである。
入社前の一月に時計店に行き、数多くある時計の中で唯一私の目が釘付けになっ
たのがPresageであった。あの時の印象は今でも鮮明に覚えている。
Gold ChaneにPink Face、短針にスカイブルーの水玉があり、ねじ巻き部分にも
同じ水玉がついている。
所有する時計はいくつかあるが、Presageほど一目で気に入ったものはない。そ
れほどまでに素敵で可愛らしかったのである。
Presageを購入して早いもので15年が過ぎた。私は社会人を経て結婚、出産し、
二児の母となった。他の時計と異なり、この時計は私にとって重要な意味をもつ。
見る度に購入したときのわくわくした気持ちや社会人となる希望、緊張感が思い
おこされるのである。
Pink Face上を歩む秒針は私の歴史を刻むように感じ、スカイブルーの水玉は感
動や悲しみの涙にも思える。
私は今夜もこの時計の秒針のように一歩ずつ人生を歩んで行くのであろう。時に
眺めながら初心の新たなる気持ちをふり返りつつ、このPresageを大切にしてい
きたいと思うのである。
「時計の思い出」真鍋 祐輔さんのエッセイ
掛け時計、目覚まし時計、腕時計、丸い時計、四角い時計など時計にはたくさん種類があります。
その中でも目覚まし時計は、僕にとって一番心に残っている時計です。
目覚まし時計は、毎日毎日僕の目を覚まさせてくれます。
寒い日も、暑い日も、時間が来れば音を鳴らしてくれます。たまにはその音がうっとうしくて、もう少し寝かせてほしいと思う日もあります。
だけど、いま思うと、とても便利なものだと思いました。目覚まし時計を使えば、寝坊もほとんど無くなるし、この音を聞いて今日が始まるんだという気にもなれるのです。
いままで、いろいろな目覚まし時計を見てきました。ボブ・サップやウルトラマンの声が出る目覚まし時計もありました。僕の目覚まし時計は、普通のベルが鳴るタイプで、すごくうるさいです。
なので、音が鳴るとすぐ目が覚めます。
音が大きすぎてたまに、びっくりすることもあります。
いままで朝起きるのには、目覚まし時計のおかげで起きていました。毎日毎日、一日の始まりの合図を教えてくれた目覚まし時計に感謝したいです。
そしてこれからもよろしくお願いします。
「ハト時計」西岡 万理さんのエッセイ
コチコチコチコチ・・・。時計は誰も見ていなくてもずっと動いている。時計の仕事を止めない。私の家には時計が7個ある。3人暮らしにしては結構多いかもしれない。その時計たちの中で一番存在感があるのは母の部屋にあるハト時計だ。今はいろんなところが壊れていて、時計だけの役割を果たしている。昔、小さい頃、時計の小さい窓が開くと青くてきれいなハトが翼を動かしながら鳴いていた。鳴き声は少しうるさくて、私たち家族は少しイライラしていた。
時計には、まつぼっくりを長くしたような意味がよく分からないものが2本ひっかけられていた。私が高知から高松に引っ越してきたと時にはその意味が分からないものがあった。でも今、引っ越した家にはそれがない。どこかになくなってしまったのだ。このハト時計は、私の引越しのたびに少しずつ何かがなくなったりして壊れていった。最後には動かなくなってしまうのかとも思える。
その時計が止まって使わなくなってしまったら何だかもの足りないような気になると思う。私が生まれるよりも前からあって、私はこのハト時計とずっと一緒に暮らしている。古いから壊れていくのも無理はないと思うけど、針は動いていてほしい。なくなってしまったらさびしい。だから、このハト時計と、ずっと一緒に過ごして、時間を教えてもらいたいと思う。
「時計の役目」山下 美紀さんのエッセイ
時計は私たちが眠っている間もずっと止まらずに、電池が切れるまでずっと働いている。「えらいね。」仕事熱心な時計ははなしかけてもなかなか返してくれない。それに対して私は怠け者だ。何かをするのにも誰かをたより、朝は母さんと目覚まし時計が必死に起こしてくれて、それでも私はなかなか起きなくて迷惑をかける。ひるは学校できっちり五十分間、エア足しが早く終われと言うのにかかわらず一分一秒狂いなく授業のはじめと終わりをつげる。夜はこれといった仕事がなくても、休まず時間を刻む。
「明日もがんばれよ。」と応援したくなる。
私は時計を尊敬している。けれどあまり時計が好き出羽ない。うれしくて楽しいとき、悲しくて苦しいとき、どんな時でも璽緩和平等に刻まれていく。待ってといっても消して待ってはくれない、無感情な時計が嫌いだ。祖母我身で、父が死んで、祖父も死んで、どんなに悲しくても時間は止まってくれなかった。
だけどこれは私の自己中心的なわがままで世界中には私と同じことを思っている人はたくさんいるのだとおもう。それでも時計は止まらない、りちぎに働き続ける。もしもこの世界に時計がなかったら、今日は何月何日で何時なのか、自分は今何歳なのか全く分からない。それを考えるとやはり時計は社会の中でかかせないもののだと思う。
小さい頃から家にあって、ある意味親よりずっと長いつきあいをしてきたけどあまり親しみがない。何度も壊したり、買い換えたりをくり返し、私が生まれる前からあるのは一つだけだった。十何年もの間働き続けた大事な時計なのでこれからは大切にしていきたい。これから長いつきあいになると思うので簡単に壊したりすることのないようにしたい。
「刻まれた年月」渡辺 紀代子さんのエッセイ
私の家には大きな時計がある。今、たくさんの家にあるようなデジタル時計やアナログ時計なんかじゃない。コチコチと音をたてながら一分一分刻み続けて、時間の数だけ音を鳴らして教えてくれる柱時計だ。デジタル時計やアナログ時計に電池があるように、柱時計にもネジがある。ネジを巻かないと、この時計は止まってしまうのだ。
この時計には、おじいちゃんとおばあちゃんの思い出がたくさん詰まっているのだ。おばあちゃんがおじいちゃんの家にお嫁に来た時一緒に買ったそうだ。結婚して以来ずっとこの家にいる。この時計はいろんな情景を見てきたことだろう。笑い合った瞬間も、喧嘩をして争った瞬間も。
私は思ったことがある。私は自分の心に迷いがあり、立ち止まってしまうことがあるのに、時計はなぜ正確によどみなく時を刻むことが出来るのだろうか。心の中に時計があるとすれば多分、十五年間生きてきた中で、この年数分は進んでいないと思う。
私は遊びに行くとき、三〇分ぐらい遅らせたことがあった。それは、長く遅い時間まで遊べるようにするためだった。そんな時私の心には悪心があり、あの時計を大事にしていたおばあちゃんに申し訳なく思っていた。遊んでいて楽しい気持ちと悪いことをしてすまないなぁと思う気持ちが混ざり合って、素直に「ただいま」と言う事ができなかった。
時計が止まりそうになる度にネジを巻く姿を見ると自分のしていたことが阿呆らしくなる。私が知ることのできない気持ちがこの時計にはこもっているのだった。この時計を大事にしようと思った。それは、おばあちゃんを大事にするのと同じだと思うから。
「時計と人間」半田 知也さんのエッセイ
人間というのは、時間の流れと一緒に動いてる。時計は、ただ長い針と短い針が追いかけっこをしているのでは無く人間を動かすものだと思う。
人の命は時間というものに決められていると思う。
1秒経つごとに人の寿命も短くなっていって居て、人は生まれて死ぬまでずっと時間と共に暮らしていかないといけない。
何かに集中しているときは、時間が経つのは、早いが集中していないとまだ1時か2時となってしまう。
時計は、時計でもあっているのかあっていないのか分からないと思う。
自分ではあっていると思っていても他の人から見るとあってないだろうと言うことになると思うからです。
本当にあって合っている時計は、ほんの少しだと思う。もし、友達の家とかに遊びに行っていて、そこの家の時計が10分ほどずれていて5時10分前に出たはずなのに5時10分になっていると言うことがあるからです。
時計は、いろんなものがあると思いました。
例えば、腕時計、目覚まし時計、柱時計などいろいろな種類があるけれどこの全ての時計は1秒を60回で1分、1分を60回で1時間と進んでいって人と共にどんなときでも一緒に進んでいると思う。
「大事な時間」田中 彩海さんのエッセイ
私の部屋にはこの前まで時計がなかった。時計は時間を見たり計ったりするのに便利らしいけれど,あのときはそんな事を考えてはいなかった。今の時代は携帯電話というとても便利なものがあるので,時間を見るときはいつもそれを利用していた。
ある日母が勝手に私の部屋に掛け時計をかけていた。時計はカチカチいうのですぐに気が付いた。その日の夜はカチカチというので違和感があったけど寝られた。
私は遅刻ばかりする人間だから,とても時間にはルーズだ。でも学校に行くのが遅れると,親がうるさく言うようになってきた。ある日私は本気で怒られた。次の日はちゃんと以降と決心して寝た。そして次の日の朝になり目が覚めると同時に反射的にベッドの横にかけてある時計をものすごい早さで見た。もう七時半だった。時計を見た瞬間ショックがこみ上げて血の気が引いた。
時間があっても私はあまり関係ないと思っていたが,最近特に時計にやられる。
私の家に家庭教師が来る。だからその日は朝からテンションが低くなってどうしようもなくなる。だから八時十分くらい前になると本当に心が病んでくる感じだ。家庭教師が来ても時計ばかりに目をやってしまう。
そんなこんなで,やっぱり部屋に時計があるのと,ないのでは結構違ってくるし,むしろあってもいいと思う。そして,少しは時計の有り難さを感じて,時間を上手く使おうと今日の朝,ぼんやりと感じた。
「戦火に生きた時計」池田 孝子さんのエッセイ
「今年の花火は空襲のように胸に響く。」と祖父が、腕の時をしっかりと着け直しながら、被爆した時の事を語り始めた。
「おじいちゃんもね、熱湯の川に飛び込むところだったけれど、『準左右や待ってくれ。』と呼ぶ声がして我に返ったら、川で息絶える人が目に飛び込んだよ。でも、父の思い出の時計だけは、外していたから不思議だね。時計が、父に代わって命を救ってくれたと、信じているよ。振り返った時には、父の姿はすでになく、『水をくれ』と、もだえ苦しむ人々が、目を閉じても、まぶたの裏に真っ赤に映し出され、耳を覆っても、うめき声が聞こえ続けたよ。」
その時祖父は、外した時計をすぐに拾い上げ、しっかりと腕につけ感謝し、祈ったそうだ。そう語りながら祖父は、目の前の時計を慈しむように、もう一方の手で包み込んだ。
父の時計が救った命を戦火の中、祖母は自ら育てたすいかを持って、勇敢にも捜しに出でかた。皮膚は焼けただれ、ウジ虫がわいた祖父を見つけ出したのは数日後だった。父親の愛の時計と、妻の愛が奇跡を起こした。
「幼かったおまえのお母さんがね、夜の空襲を見て、『きれいな花火だね。』と、言うものだから、おばあちゃんと笑いながら涙を流したことがあったなあ。なんだか今日の花火の音は、空襲のようだよ。」
時計の思い出を語った祖父は、その日の夜中、祖母の横で、眠るように静かに息をひきとった。一九八一年、八月一日、八十一歳の時のことだった。
祖父の腕時計は今も時を刻み続けている。平和の花火を、みんなで楽しめる世の中を祈っているかのように。今、その時計は、私のお守りでもある。時計の音には、母親の胎内で、心音を聞くような安堵感がある。時計は、人はと共に時を刻み、歴史を残す宝だ。
今年も、花火は上がるだろう。笑顔で花火を見られることを、心から願う。
「置時計と母」石田 宰さんのエッセイ
「あら、懐かしいじゃない!この時計!」
掃除の途中、母と私は一つの時計を囲んで休憩をした。
埃を被った黄色い置き時計。時計の上にはミッキーマウスがネジを持って立っている。大きな文字盤には赤いマジックで5、10、15…と母の字で時間の読み方が書いてある。
私は小学校に入学するまで病弱で、何度も入退院を繰り返していた。毎日の点滴で腕にはあざがたくさんあった。
共働きの両親は忙しく面会の時間になかなか見舞に来ることができなかった。
私が淋しがらないように買ってきてくれたのが、置き時計だった。「早く退院できますように。」この時計の短い針があと何回12に来れば退院できるのかな。
アラーム音はミッキーマウスマーチ。単音のオルゴールだ。何度もアラームを鳴らしては、その日を待ち続けていたことを今でも覚えている。ただ、淋しかったという記憶はない。入院中、母は時計の他にもぬいぐるみや絵本やビーズを買ってきてくれた。
あれから15年。ぬいぐるみも絵本もビーズももうない。ただ、時計だけは捨てられなかった。毎年の大掃除をくぐり抜けて今も目の前にある。電池を入れてももうアラームメロディーは鳴ってくれない。たまにポンッと思い出したように音が鳴るだけだ。しかし私の頭にはあのメロディーが何度も何度も繰り返し奏でられる。単音のオルゴール、本当は少し淋しい。捨てられなかった意味を私は考える。
片付いた部屋で夜、母に「ごめんね」と言われた。私は母を見つめ「元気に育ったよ」と言う。動かないこの時計、これからも私のそばにあるだろう。私は母の愛を知っている。
「温かい流れのなかで」桂さんのエッセイ
幼い頃、父を待っていた、いつも。
「お父さんまだなの、もう眠いよ」「若い人達にご馳走してるのよ」「今日は?」「仕事よ」
起きるとお土産があった。ぬいぐるみや果物にお菓子。甘栗は、父と一緒に食べた時にむくのが面倒くさくてイヤだと言ってからは一度もなかった。父が、私の好き嫌いを忘れないでくれていることを感じ、できればいい子でいようと、寂しさを我慢したものだった。
そんなある日、母の里帰りのため、思いがけず父が休みをとった。「出掛けるか?」目を瞑れば父と手を繋ぎ、顔が破裂するほどニッコリと「うん!行く!」と言った小学1年生の私が浮かぶ。
父は職人ながらも昔からどこか洒落ていて、今でも品揃えのよさでよく利用する、老舗の百貨店へと私を連れて行ってくれた。
ひととおり子供用のフロアを見ても、何も欲しがらない私を「母さんに時計でも買いに行こう」と、父は時計売場へと引っ張っていった。「これもいいな。それともこれか?」楽しげに一人ごちている父を見るのは楽しかった。いつ選んだのか、しゃがみ込んだ父が、私の腕に黄色いエナメルの皮の可愛い時計をつけた。ぴったりなことに驚くと「さっき手首をつかんで計ったぞ」と得意げに鼻を赤くした。
嬉しかったのに、私はその時計をよく外し、数ヶ月も経たずに失くしてしまった。「どうして失くした?」訊かれても上手く言えなかった。寂しげに「また買うか?」と父は笑い、私は黙って俯いていた。
「時計はお父さんのいない時間ばっかり知らせる。お土産があればお父さんはいない。だからお土産も時計もおんなじに嫌いだった。だから。ごめんね」
そう言えたのは三年生の終わり。伝えたかったやるせなさ、手紙に書いた必死な自分がいた。それから私は眠りこけた私の顔にそっと手をおく父の夢をよく見た。ずっと温かい流れがあった。今、私は同じ流れで小さき者を包み続けたいと心から願う。
「確かなリズム」瀧本 真衣さんのエッセイ
私は小さな時計のように音を発する。それは声であったり足音であったりもする。しかし私の時計は一定のリズムをきざむことなく動き続ける。こつこつと机に指をうちつけて、十二時をさす針が動くとき、私のまぶたはおろされる。深く暗い闇が広がり、時計の音だけが体を支配していく。
足音が聞こえ、私のリズムが戻っていく。胸に手を当て、鼓動を確かめる。一定のリズムをココだけがきざんでいる。生きていくことはリズムを作ること。時計がリズムを作るように私の不確かな、精密さをもつことのない声のリズムが作られていく。
私の声はみんなに聞こえているのだろうか。もしかしたら誰にも届いていないのかもしれない。無理をしてはいけない。無理をすることは自分のリズムを崩すこと。そっと音を発する。誰かに届くように。
誰かのリズムが耳に届いた。一体誰?なぜ私に聞こえてきたの?不思議な気持ちが溢れてくる。聞こえてくるリズムをたよりに暗闇にある私のリズムを呼び起こす。私の波長を知っているのは、影なのか。それとも、自分の知らない人なのか。
突然消えた誰かのリズム。見わたせば明るい光が瞳に入る。カチンと鳴った時計の針。鼓動が聞こえる。「ここだけは一定のリズムをきざんでいる」声や足音は誰かに合わせることのできるリズム。鼓動は……生まれ持ったリズムで時をきざむ。邪魔をすることはできない。悲しい時にも嬉しい時にも、誰にも邪魔されることなく自分のペースで動いている。他の誰かのリズムを聴いてみた。私とは違うはやさ。けれどこのリズムは誰でも持っている。安心できる音。私にもいつか時計が止まる日がくる。その時までは自分のリズムを大切に守っていきたい。一人一人の中の時計の音を。
「腕時計のない生活」後藤 順さんのエッセイ
時を守るのは、社会人としての原則。人と会う場合、時間と場所を決める。仮に、遅刻するような場合は、相手にその旨の連絡を入れる。それをしなければ社会人としての信頼を失う。
先日ことだった。日曜日に友人と会う約束をした。朝起きて腕時計がないのが判った。前晩に泥酔して帰った。どこかで落としたらしい。代わりの腕時計を探したがない。壁時計を見ると、約束の時間が近づいていた。あわてて家を出た。
待ち合わせの場所にまだ彼は現れなかった。一瞬、腕時計で時間を確かめようとした。癖がそうさせた。腕時計がない事実に不安がよぎった。今は何時だろうか。まだ約束の時間は過ぎてたのかなど、今までにない心のどよめきが波のようにきた。
近くにスーパーがあった。走りこんで時計売り場を探した。何の選択肢もなく千円の腕時計を買った。腕にはめたとき、気持ちがゆったりしてきた。待ち合わせの十分前だった。自分で時間を感じられる幸福感を初めて知った。
友人にそのことを話すと、小さな笑みを浮かべた。「時間中毒だよ。時間に支配されているかもね」だが、生活にとって時計は必需品ではないか。定年後には、腕時計を持たない生活をしたいと彼に話した。彼も同意した。定年までは長い。
「父さん、ボンボン時計、元気?」メロディさんのエッセイ
父さん、私が天に向かって「父さ〜ん」と呼んでいる声が聞こえる?兄さんが家を建て替えた時、あなたの建てた家と一緒に壊されたボンボン時計も、あなたの傍でにやりと笑っているなら、「ボンボン」と返事をしてほしいな。
父さん、あなたが丹念に手入れをしたボンボン時計は、父親のあなたより私に関心を寄せてくれていたことを知ってた?あなたは毎日仕事で忙しかったけど、居間のボンボン時計は時を告げながら、私を見守っていたんだよ。麻疹に罹っていた私が、胡坐をかいたじいちゃんに抱かれたままおしっこをしちゃった6歳を。東京オリンピックの体操をテレビで見ながら、真似て手足を動かした10歳を。一夫さんと結婚前は毎日電話を掛け合っていたけど、いつもあなたが寝てからだった。楽しい時ばかりを、ボンボン時計は刻んでいたのじゃないよ。あなたが末期癌で助からないと、一夫さんと滞在していた台湾に、母さんが国際電話をかけてきた時、ボンボン時計はどんな思いで聞いていただろうね。私の目にボンボン時計の下で、泣きながらあなたの闘病の様子を訴えている母さんの姿が浮かんだ。「父さん、生きていて」と願う私に、君が帰国するまで僕が父さんの心臓を動かし続けるぞとばかりに、ボンボン時計が必死に時を打っている様子も。
父さんと離れて暮らしていた時、あなたのことを思い出す機会が少なかったのに、死後、追想することが多くなった。7歳の私が台所で青菜を茹でていると「塩をひとつまみ入れるんだ」、お風呂で私の背中を流しながら「小学生になったから自分で体を洗うんだよ」と言った事等を。心の中で生きているって、こういうことなんだね。あなたの可愛がったボンボン時計も私の心の中に居る。時って不思議だね。刻々と過ぎていくのに手ごたえがない。日常の忙しさにかまけて時の流れを意識しない私に、ボンボン時計が語りかける。「時間は有限だよ、無駄にするな」と。
「手放せない入学祝いの腕時計」脇 長生さんのエッセイ
何故か子供の中学校入学記念には腕時計と決まったいる。これは、私の実家京都の母の考え。「もう、宗ちゃんも中学校に入学したんやな」と、毎月みかんの箱で送られてくる実家。らの荷物の中に母の蛇がはった字で紙片入りの時計箱が入っていた。
これで、3人個の時計。かわいい、孫のために中学入学時も忘れずに、上品な腕時計を選び送ってくれる。
みかん箱の中には、米やパン粉、味噌、醤油、パン、牛乳、チョコレート、缶詰めなど、まるで山奥の一軒家に住んでいる家族に送る荷物のようである。その中に必ず、孫3人のための品とおこずかい金が封筒に入っている。自分の年金も使わずに貯めて、百円玉と五百円玉を3つの封筒に分け、兄弟分金額を考えて入っている。もらった子供達は、その夜に電話して「おばあちゃん、ありがとう。いっぱい荷物入っていた。」と、こどもながら、こずかいの入った喜びを表現している。
腕時計は格別だ。あまりにも高価そうな品をみて、驚きと使い方にこまり、大事に机の中にしまいこんでいる。
時はどんどん進んでいく。生まれて12年が過ぎ、時計を贈る習慣が子供から大人になり、受け継がれていくのだろうか。
父親の私も、実家の亡き父から腕時計をお祝いにもらった。
その亡き父の形見として、大事にしている。まだ、動き時を告げる。私は、彼ら3人に目覚まし時計を渡している。大事にしなくてもよい、朝起きられるように願い使って欲しいのだ。
手放せない腕時計は、大きな時間を刻む。12年という単で。
母よ長生きしてください。83歳の時はまだ回り続けて欲しい。
「手首のひみつ」森山 勉さんのエッセイ (12月のベストエッセイ)
腕時計!誰の手にもある生活必需品である。
然し、私が子供のころ(昭和二十年代)は、とても手の届かぬ、文字通り『高嶺の花』だった。
私は太平洋戦争もたけなわの、昭和18年に国民学校に入学した。当時、物資の欠乏は甚だしく、主食にすら事欠く毎日だった。
国民学校に入学する際、クレヨンがなかなか手に入らず、父が東奔西走した結果、やっと六色のクレヨンを探し求めた時代だった。
そんな時代、時計と言えば家の茶の間にある古い柱時計、それと学校で校長先生が朝礼の際、おもむろに懐から取出される銀の懐中時計であり、夢のまた夢だった。
昭和23年春、私は新制中学校に入学した。然し、物のないのは相変らずで、教科書でさえも二人一組で共有をする時代だった。
そんな中、私たちのクラスにY君と言う土地の素封家の息子が居た。長身白皙、成績も人柄も良く、私たちのクラスでは一番の人気者だった。
そんな彼が或る日、左手首に包帯を捲いて登校をして来た。かなり厚い包帯である。
「Y君!その手首どうしたの?怪我でも?」
Y君は肯定も否定もせず、微笑んでいた。
彼は別に左手首を庇う風もなく、体育の時間になれば人一倍元気に動き廻っていた。
『Y君の手首の包帯、あれは一体なんだろう。』
その事がいつの間にか、クラス中の話題だった。
ある土曜日の朝、私は彼にそっと尋ねた。
「Y君!君の手首の包帯、気になるよなあ。」
「勉君、見せてあげようか!絶対内緒だよ!」
Y君は案外、気易くうなずいてスルスルと手首の包帯をほどいた。私は固唾を呑んで見守った。なんと…中から出て来たのは銀色のブレスレット、夢の腕捲時計だったのである。
「ウワーッ、すごいや。」私は感嘆の声をあげた。
爾来、約50年。今も腕時計を見ると、フット思い出す懐かしい少年時代の思い出である。
「腕時計は男からもらう!?」山田 淳子さんのエッセイ
初めて私が腕時計をするようになったのは、高校に入学したときでした。それまではあまり必要性を感じていませんでしたし、高校入学イコールちょっと大人。そして腕時計をはめるっていう気持ちがありました。更にバスや電車通学をするということもあって、時間を気にする必要性をもあったからだと思います。
高校に入学するとたいてい親や親戚が入学祝いと言って腕時計の一つも買って貰えると期待していました。でも結果一つも貰えず自分で買うしかないかと思っていました。それがなぜか中学生の弟から貰いました。中学生の弟になぜ腕時計を買ってもらったのか忘れてしまいましたが、今でもその時計は大事にしまってあります。ベルトが革で出来ている時計だったので、もう革の部分はヨレヨレで、取り替えないと使えませんが、取り替えると昔の思い出が消えてしまいそうなので大事にしまってあります。
その弟から貰った時計は高校卒業してもしばらく使っていましたが、成人式には別の男性からまた時計を貰いました。
それは、スイスの有名メーカーの時計で女性らしい高そうな時計でした。その時計を私にくれたのは父でした。父は仕事人間で子供の頃はあまり遊んでもらった記憶がありませんでしたし、思春期を過ぎた頃からあまり話さなくなっていました。そんな話もろくにしなくなった娘に成人になったお祝いに父は腕時計をくれました。意外なプレゼントに私はすごくうれしかったけれど、素直にありがとうを言えなかったのを覚えてます。
その父も時計をくれてから三年後になくなってしまいました。ありがとうはいえなかったけど、私は貰った時計を形見だと想い今でも大事に使っています。
私にとって腕時計は大切な家族の愛情がつまった大事な宝物です。
「時計ってえのはこういうもんでしょ」蛯名 政之さんのエッセイ
あんよ、まんま、ブーブー…幼児語といわれる言葉です。辞書にも載っている言葉なんですね。幼児が発音しやすいよう大人が話しかける言葉だそうですな。それがいつの間にか大人の言葉に変わって行くわけです。
ところが私の家では幼児語で話しかけられませんでした。足は足、御飯は御飯、自動車は自動車、そんな風に覚えさせられましたねえ、最初から。
で、時計も同じ。初めての時計は当時出回り始めた低価格子供向けキャラクター物のデジタル液晶ウォッチではなく、いきなり大人向けの中三針アナログクオーツ時計。十二歳の誕生日のプレゼントでした。ジャージには合いませんでしたねえ。でも、控えめなデイト表示部は液晶デジタルで、アラーム内蔵という子供心を満たす素晴らしい物でした。
以来制服を着るようになっても学生になっても、背広を着るようになってもずっとこれ一本。というより背広を着るようになって、やっとピッタリ来るようになった、そんな時計でした。
時計っていうのは長身と短針と秒針がぐるぐる回っているもんだ、定番を最初から目指せば回り道はしなくてすむんだぞ。幼児語を使わなかった両親の思いがこめられていたんですねえ、今考えると。
まあそのお陰で、物に関しては回り道せず、定番・正統派にすぐにたどりつけているようです。でも肝心の人生は…なんだか回り道したり同じ事繰り返したり、同じ所をぐるぐる回ったりしていますなあ。これも中三針アナログ時計の影響でしょうかねえ。
三十歳過ぎたのをきっかけに新しい時計に変えましたが、やっぱり中三針アナログ時計です。時計ってえのはこういうもんだ、ともう体に染み込んでしまっているんですな。だから「あんよ」だの「まんま」だの「ブーブー」だのといった時計には、私は一生手を出さないでしょう。
「かっこいいボロ時計」じゅんじゅんのパパさんのエッセイ
営業の途中で3歳になる子供と妻が待ち合わせて昼食をした。
子供が私の腕時計を見つけて自分もして見たいと言い出し妻が着けてやった。
「お前が大きくなったらその時計をやるよ」私が言うと間髪いれずに妻が「ヤメてよこんなボロ時計」とのたまった。
私は普段傷が恐くてこの時計は着けていない、大事な営業や大切なイベントがある時しか着けていない。
もう20年も前に私の父が成人の祝いにとくれたお金で買った思い出の深い時計である。
当時はデジタル表示が人気だったが、職人の父の影響もあり1年で数秒しか誤差が無いというキングのツインクォーツにした。就職活動の際に最終選考で5人残った中で何故か私が選ばれた。
後に常務から「君だけがきちんとした腕時計していたから選んだ」と言われた。
以後この時計は大事な場面に登場するようになった。
望み薄の営業でたまたま先方に時計好きの方がいて、「いい時計をしているねぇこの当時のデザインはいいよねぇ」
と話しが盛り上がり、その時は契約は逃したものの、以後は顔を覚えもらったのもありその後上得意になった。
妻はあらゆるシーンに登場し私のイメージの一部として定着した時計を簡単にボロ呼ばわりしたのである。
自分の社会生活20年をすべてを否定されたような気になり、一瞬カッ!となる熱いものがあったが、この時計は何故かスッと落ち着く不思議な魔力があった。緊張する場面や思わず怒りを覚える場面で、この1秒ごとに確実に冷静の刻む運針を見ると気持ちが安らぐのである。
「ボロだとぉ」と妻に少し引きつった笑顔を見せながら、確かに20年も経つと小さな傷もあり輝きも以前のものでは無い、たまには分解掃除でも出してやるかなぁと思っていると、子供が「かっこいいねぇ」と言ってくれた。この時計がかっこいいのか、時計をしてもらっている自分がかっこいいのかは定かではない。
「銀の懐中時計」内山 良久さんのエッセイ
去年2月、友人に会うためにオーストリアに行った。彼と知り合ったのは、わたしがまだ20代のころ世界のあちこちを旅し、彼もまた世界をヒッチハイクしていたころだ。
18年ぶりに会ったところで、これまで3度も来ているので、別にどこへ行きたいという場所もない。冗談を肴にビールを飲んでげらげら笑うだけでよかった。
「よう」
「おう」
迎えに来てくれていた空港で久しぶりの挨拶は、これだけだった。
土産には、機械好きな彼にSONYの最新型ビデオカメラ、奥さんにはカシミヤのセーター、娘のカリンにはメアリー・ジェイ・ブライジやTLC、マライヤ・キャリー、98ディグリーズなどのCD数枚、94歳になる彼の母には絹のネッカチーフを渡した。
3日後彼とスイスを旅したとき、お返しだと銀の懐中時計をプレゼントしてくれた。日本に帰ってすぐ、
「ビデオカメラを手にする度におまえを思い出すぞ。困ったもんだ!」
というメールがはいった。
ところがこっちは、貰った銀の鎖をボタンに付け、ベストのポケットから出して時間を見たあと、ネジを巻くのは古き良き時代の動作でいまはない。で、寝起き確認のため枕元に置いている。
「俺のほうは寝るまえに時刻を確認してからネジを巻き、朝は何時か見るために手にとる。おまえはビデオカメラを使うたびだろうけど、時計は1日2度もおまえを思い出させるんだ。もっと困ってる!」
と、打ち返しておいた。
銀の懐中時計は、こちこちと確実な刻み音を響かせ、手にする度に彼の顔を浮かび上がらせてくれる。困ったもんだ!
(事前のご同意)
「思い出の時計エッセイ募集」に送っていただいたエッセイの著作権は、セイコーインスツル株式会社に帰属します。
また、みなさまのエッセイと氏名(ペンネームを記載いただいた場合はペンネーム)を、当ホームページ上に掲載させて頂きますことを、
予めご了承ください。
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