2002年の作品
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9-10月
(投稿順)
9月度のベストエッセイ審査に当たって、応募作品数が少なかったため、事務局で協議の結果、10月度応募作品と合わせて審査させていただくことにいたしました。よろしくお願いいたします。
「ディズニーの黄色い時計」豊崎 朋子さんのエッセイ
「今どきの高校生は」谷内 友紀子さんのエッセイ
「たった一つの贈り物」木村 節子さんのエッセイ 9-10月のベストエッセイ
「「もう一度」の時計」武藤 琴美さんのエッセイ
「初めての腕時計」村上 華さんのエッセイ
「歯車」レミさんのエッセイ 9-10月のベストエッセイ
「さすがセイコー」横山芳子さんのエッセイ
「少しだけ大人に」金子 由子さんのエッセイ
「チイちゃんの時計」ミセス・カンガさんのエッセイ
「私の初めての腕時計」堀 満さんのエッセイ
「子供の出産」加藤友紀子さんのエッセイ
「動かない時計」渥美 憲さんのエッセイ
「ディズニーの黄色い時計」豊崎 朋子さんのエッセイ
文字盤にディズニーキャラクターが描かれた腕時計。ベルトは私の好きな黄色だった。この時計は私が初めて持った本物の時計だ。それまでは、動くことのない、銀色のおもちゃの時計を腕にはめていた。
「本物の時計が欲しい」とせがむ私。
「時計は、もうちょっと大きくなってからね」と母。
だから、早く大人になりたいと思っていた。
1歳違いの姉が小学校の入学祝にと、親戚のおばさんから赤いベルトの腕時計をもらった。私は、それを横目で見ながら、おばさんに言った。
「小学生になったら時計もらえるの?」
おばさんは、くすくす笑った。
「朋子ちゃんのもあるわよ。もうじき幼稚園行くもんね」
おばさんは、腕時計の入った包みをバックから出した。
「わぁー。私の時計だ」
それからこの時計は、私の腕にいつもいた。
「おまえもこれでお姉ちゃんだね」
母は冷やかし、こんな話をしてくれた。
「ママもね、子どものころ腕時計が欲しくってね。でも今みたいに物もお金もなかったから、働くまでは、持てなかったのよ。でもね、どうしても欲しかったのよ。それでね、自分の腕にマジックで時計を書いたの。文字盤をお花の模様にしてね。その時うれしかったなぁ。なんだか大人になった気がしてねぇ」
「時計は何時に合わせておいたの?」
私ふと疑問に思った。
「確か、12時か、3時だったと思うなあ。なにしろ、何か食べられる時間に合わせておいたと思うのよね」
母の話を思い出しながら、ふと腕時計に目をやった。そして、いつの時代でも腕時計は大人になるワンステップなのかもしれなと思った。
「今どきの高校生は」谷内 友紀子さんのエッセイ
高校受験合格のお祝いとして、父に腕時計を買ってもらった私の腕時計。「どれだっていっしょだって。」と言われながら、すごく真剣に時間をかけて選んだ私の時計。当時の私の感覚では、27000円なんてとても高価に思った。(今でも高いと思う)そんな高いものを買ってもらって、感謝の気持ちでいっぱいっだった。とってもうれしくて、腕時計なのにベルトが曲がってしまうのがもったいなかった私は、きれいな音のする、小さな鈴を付けて制服のポケットに入れていた。そんなある日、家に帰ったらその時計が見当たらない。どうやら何処かで無くしたらしい。私は、時計を見たその日の行動を一生懸命思い出し、記憶を辿り、あっちこっち探した。「学校では確かにあった。バスでは?もしかして、定期券を出した時にポケットから」そう思った私はバス会社に電話した。「じゃあ、たぶんこれだね、取りに来て。」私は急いで向かった。「すみませんでした。どうもありがとうございました。」と係りのおじさんに言うと、「今時の高校生は腕時計を知らんのか。腕にするから腕時計。親に買ってもっらったもんやろ、大切にしろ」といわれた。私は心の中で、「大切にしてたよ。」って言った。そして帰り道、私は腕時計のベルトをきつく閉じた。
「たった一つの贈り物」木村 節子さんのエッセイ (9-10月のベストエッセイ)
東京銀座にある老舗名店「銀座和光」。重厚かつ気品に満ちたおしゃれな店内の奥に、時計の電池交換・修理室がある。約2年に一度、腕時計の電池交換にここを訪れるのがいつの頃からか、私の大切な「行事」となった。私が現在愛用している腕時計は、SEIKO社の「CREO」という時計である。私の高校卒業祝いとして父が、ここ銀座和光で買ってくれた、唯一の贈り物である。以来、約14年半以上の長きに渡り「CREO」は私の左腕で静かに、また正確に時を刻み続けている。
父は、文学と演劇をこよなく愛したコピーライターだった。孤高な芸術家肌だった父は、決して私たち家族との団らんの時間を持とうとしなかった。私は子供の頃父に、海・山・川などの旅行はもとより、遊園地にもプールにも花火大会にも、一度も連れて行ってもらったことはなかった。私は夏休みや冬休みが来るたびに憂鬱だった。そして何より、父は「一生一品主義」であった。気に入ったブランド品だけを何十年も使い続けた。「本物が一つあればいい、本物だけを大切にしなさい。」それが父の口癖であった。辺鄙で、視野が狭くて、自分だけの世界に生きる父を、私は嫌いだった。・・・そんな私も社会人となり、世界が大きく広がった。懸命に働き学び、苦労した。人生が少し分かってくると、私はいつしか父がとても好きになった。文学や歴史を語り、かけがえのない時間を過した。・・・そして一昨年の春、父は末期の食道癌でこの世を去った。安らかに。一生一品主義だった父には、殆ど遺品がない。家族で一緒に撮った写真すら一枚もない。そんな父が私に贈ってくれた、たった一つの宝物。その腕時計「CREO」は私の左腕で、静かにまた正確にもうすぐ15年目の時を刻もうとしている。私の第二の人生を見守りながら。
「「もう一度」の時計」武藤 琴美さんのエッセイ
近頃、私は腕時計をしていなかった。
10年ほど前には、時計を集めるのが好きで、いろいろなタイプの時計を持っていた。自動巻きの時計、ブローチや指輪の時計、デジタルと針の両方の表示のある凝った文字盤の腕時計、アンチックの時計、、。
たくさんの時計を集め、並べては楽しんでいた。
そういう私の趣味を知って、祖母が腕時計をくれた。
プラチナに小粒のダイヤが飾ってある綺麗な腕時計。
当時の私はどちらかと言うと男性用の時計や変わったデザインのものを好んでいたこともあり、その時計はパーティに出席するときなどごくまれに使うだけで、普段はレースのハンカチーフに包んで飾ってあった。
その祖母も今は亡い。
その時計は私にとって、大切な形見になっている。
その後、今から数年前には、指輪の時計をたくさん集めていた。
というのは、肩こりがひどくなり、腕時計すら重く感じられるようになっていたからだ。それでも時計をしないわけにはいかず、やむを得ずという気持ちでしていた。
さて近頃、私は時計をしていなかった。
指輪の時計の電池が切れたのをきっかけに、時計をすることが面倒になってしまったのだ。
時計をしない生活は、2年ほど続いていた。
街中どこにでも時計はある。
だから、していなくても不都合はない、と思っていたが、実際は違った。
時計が好きで、文字盤を眺めるのが好きな私は、ときどき時計をチラッと見ることで、自分の中に不足していた時間の感覚を補っていたのだと思う。
時計をはずしてしまうと、不都合がたくさん起きた。まず、仕事のペースがつかめない。自営の事務所で仕事をしている私は、ミーティングの時間が入っていればそれにあわせ、なければ、パソコンに向かって仕事に没頭する。
そんな中で、時間のメリハリがつかなくなって来ていた。
「時間の感覚がなくなっているんじゃないの?」
そう指摘してくれたのは、夫である。
「時計をしていないからだよ」
「きみはもともと時間の感覚が鋭くないから、時計をしないとどんどんその感覚が鈍っているのだと思う」
そうなのだ。言われて、初めて気がついた。
すぐに、昔集めていた時計の箱を開いた。
そこには、電池交換の必要のない自動巻きの時計があった。
夫がすぐに時間を合わせ、時計を振ってくれた。
時計は生き返った。
なめらかに秒針が動き出した。
そして、私の時間感覚も、元に戻ってきた。
今も、腕時計をちらちら見ながら、これを打っている。
次にする仕事の合間に、ちょうど、書き終えようとしている。
自宅の冷蔵庫の上のトレイに、最近買った、夫にそっくりのクマのプーさんのイラスト付の時計、そして、生き返った自動巻きの時計がある。
祖母からもらった細工のキレイな腕時計は、やっぱりレースのハンカチーフにくるんである。
どれも、それぞれ、思い入れのある時計だ。
朝、出かける前に、時計を選んで腕につける。
私の一日が始まる、大事な瞬間だ。
「初めての腕時計」村上 華さんのエッセイ
初めて腕時計を持ったのは小学5年生の時。学習塾へバスで通うことになったためだった。学校にはもちろんつけていくことは出来なかったから、日曜日だけ。ちょっと大人になったような気持ちで、何度も左手首を見てしまう。歩きながらつい手を大きく振ってしまう。茶色の革のベルト、キャラクターの絵のついた小さな文字盤。
2年経って、憧れの中学校に合格できての入学式の日、ベルトはしわだらけ、文字盤のガラスはキズだらけ。それでも私の左手首には同じ時計があった。その日からは毎日時計ができることが嬉しかった。次第にキャラクターが恥ずかしくなって、そしてとうとう文字盤のガラスがわれてしまったのを期に初めての腕時計を卒業した。
それからもう10年、いくつも時計を変えてきたけれどはっきりと細部まで思い出せるのは初めてつけたあの時計だけ。腕を振って歩きたくなったのもあの時計だけだった。
「歯車」レミさんのエッセイ (9-10月のベストエッセイ)
中学の頃、歯車やゼンマイが動く内部が透けて見える時計が流行した。担任で物理のS先生が、得意気にしている時計がそれだった。
ある日の放課後、教卓の上にS先生の忘れ物を見つけて、私たちは初めてこの不思議な時計を手に取って見ることができた。男子の誰かが、返しに行く前にフタを開けて、中を見て見ようと言い出した。女子は、「やめた方がいいよ。」と言ったが、結局、成績があまりよくなく、いつもからかわれているお調子者のM君が、分解することになった。
裏ブタを開け、蟻のオモチャのような小さな部品を一つずつはずして、順に白いハンカチの上に並べて行く。M君はいつもと違う真剣な顔付きで作業を続けていた。
しかし、案の定、時計は元に戻らなくなった。あんなにみんなで盛り上がっていたのに、私たちはM君に責任を負わせるかのように、スーッと引いて行った。
どんなに怒られるだろうか。
M君が一人で謝りに行くと言って出て行った後、私は内心M君を馬鹿にしていた自分が情なかった。日ごろM君をからかっているみんなが、つまらない人間に思えた。
S先生は、少しも怒らず、時計のしくみが書いてある本と、精密機械用のドライバーやピンセットをM君に渡して、「もう一度、組み立ててみろ。」と言ったという。そして数日後、見事に元通りに組み立てて時計を持って行くと、「『将来は時計屋になれるな』って、ほめられちゃったよ。」と言って笑った。その屈託ない笑い顔を見て、私にはM君が大きく見えた。
M君は、工業高校から工学系の大学に進み、今ロボットの研究をしている。
「さすがセイコー」横山芳子さんのエッセイ
腕時計での思い出は、唯一語れることがあります。それは平凡な事ですが、高校3年の大学受験が終わった時であったのを、はっきりと覚えています。当然、大学の合格が分かってから、父親からお祝いとして、金色のお洒落な腕時計を貰いました。今でも出かけるときには、必ず左手につけての外出です。もう20年以上になっていますので、時計のバンドは、幾度となく変えていますが、時計自体は、壊れることもなく動いています。これも、セイコーだからでしょうが、これからも大切に使っていきたいと思っております。周りでは、ブランドに流されているかたも居られますが、時計は、セイコーに限ると思っていますから、子供たちにも、セイコーを持たせるつもりです。
「少しだけ大人に」金子 由子さんのエッセイ
初めて貰った腕時計は姉からのお下がりだった。私が中学生になり高校生の姉が新しい時計を買って貰ったためそれまで使っていた時計を私にくれたのだ。青い文字盤でシルバーのチェーンベルト。お下がりとはいえまだまだきれいできちんと動く。腕時計をすると少し大人になったみたいでうれしかった。それまでは時計が必要な時はゲームウォッチの時計機能を使っていたのだ。兄弟や従兄弟たちはみんな中学入学のお祝いに祖父から腕時計を贈られていたのだが私は腕時計のかわりにラジカセを貰ったので高校に入るまで腕時計をあきらめていた。だから姉から貰ったときはうれしさがひとしおだった。
腕時計は大人の証、そんな風に思っていた。だから初めて腕にはめたときは「これで私も大人の仲間入り」と大人びた気持ちになったのを覚えている。当時、その腕時計は私の一番の宝物だった。
今私はいくつもの腕時計をもっている。就職祝い、誕生日プレゼント、結婚記念等々。どれも大切なものでそれぞれに思い入れがあるが初めて手にしたあの時計は一番思い出がある。他の時計にはない感動があの時計を手にしたときはあったからだ。もう壊れてしまっているのが残念だが思い出はいつまでも私の心の片隅で消えることはないだろう。
「チイちゃんの時計」ミセス・カンガさんのエッセイ
二年生のとき転校して来たチイちゃんは、どういう事情か分からないが、お父さんとお手伝いさんのおばあさんの三人で暮らしていた。おとうさんは仕事が忙しいらしくて、運動会や授業参観も、いつもお手伝いさんのおばあさんが来ていた。給食がなくてお弁当の日は、お手伝いさんが学校に寿司の折り詰めを買って届けに来た。お弁当と言えば、おにぎりに茹で卵だと思っていた私は、なんて贅沢なんだろうと思ってうらやましかったが、チイちゃんは折り詰めの寿司を隠すようにして、みんなから離れて食べていた。
女の子の間で腕時計が流行したことがある。文字盤にアニメキャラクターや写真の入った玩具のようなファッション時計である。ようやく買ってもらったピンクレディーが文字盤いっぱいに踊っている時計を、私は命の次に大切だと思っていた。
学校には当然持って行ってはいけないきまりだったが、遠足の日は、時計も300円までのお菓子も持って行ってよいことになった。女子はみんな腕時計をはめて来た。この日のために親にせがんだのだろう。最新の柄の腕時計をしている子もいる。
でも、チイちゃんだけは、大人がしているような高価そうだが古く地味な革ベルトの腕時計を締めていた。
バスの中で、意地の悪そうなヒソヒソ声が私の席まで聞こえてきた。
「チイちゃんの時計見てごらんよ。」
帰りのバスで、偶然、チイちゃんの隣に私は座った。チイちゃんの視線が私の巻いているピンクレディーの時計に止まっているのに気づいた瞬間、私は衝動的に「これ上げるよ。」と言っていた。「いらない。いらない。」と言うのに、無理やりチイちゃんのポケットに時計を入れて、逃げるようにして家に帰った。
命の次に大切な腕時計だったけれど、あれは私が、命より大切なことがあると知った初めての出来事だった。
「私の初めての腕時計」堀 満さんのエッセイ
私が初めて自分の腕時計を持ったのは30年以上も前で、中学入学時に買ってもらった学生服の景品だった。有名なC社の製品で、結構時間も正確だったがさすがにおまけだけあり、当時人気だった自動巻きでもなく防水仕様でもなかった。とは言え、最初は腕時計に対する憧れと物珍しさで喜んで身につけていたものだ。
それから年月は過ぎ、県外の大学へ進学した私が夏休みに帰郷した時、居間に入ってすぐに目に付いたのはテーブルの上に置かれたその腕時計だった。そう私の失敗で水に浸け動かなくなり、机に置きっぱなしで持ち主から存在すら忘れられていたあの腕時計だった。しかもしっかりと針は動いていたのだ。父に尋ねると時計屋さんで直してもらったとの事。タダの時計にお金をかけて直してもらうなんて、と一瞬思ったがそれから何故か私はその時計を手放せなくなってしまった。
その後の私は、自分でも腕時計を買ったり、人からもらったりもしたが、殆ど使う事なくずっとタンスにしまってある。私のその時計も同じであるが、事あるごとに日時を合わせネジを巻いている。特に父が病気に冒されてからはその回数が増えたような気がする。父の命のゼンマイを巻くつもりだったのかもしれない。勿論そんな事は関係ないのだが、72歳の父は今でも元気でいてくれる。
そうだ!今度父に腕時計をプレゼントしよう。どうせ私の父の事、茶ダンスにしまったままだろうがそれでも構わない。私と同様胸の中ではきっと大切にしてくれるだろうから。
父があと何年元気でいてくれるか分からない。しかし、これからの父と私の・・・そして家族との時を1秒でも長く刻め。腕時計よ!
「子供の出産」加藤友紀子さんのエッセイ
私は子供を二人とも帝王切開で産みました。一人目のときは出血が多くて途中から大きな病院に救急車で運ばれ、その病院では何分もまたさせ腕時計を見ながらずっと不安でいっぱいでした。無事産まれたときはほっとしました。二人目のときは予定日より一週間早く帝王切開で産むはずでしたが診察時間が終わるのを待って手術だったのに待っている間に陣痛がきてはすいまでしてしまいその時もまだかまだかとずっと腕時計を見てました。今は二人とも元気に育っています。その時の事は一生忘れないでしょう。
「動かない時計」渥美 憲さんのエッセイ
昭和49年の12月、街はクリスマスの準備も整い下町の商店街も明るく賑わっていた。我が家では、特にクリスマスといっても決まった日に何を行うということもなく、なんとなく寒い師走を肌で街の風から感じとっていた。普段は、どちらかというと無愛想な父が夕方仕事から帰ると、「おーい、ただし」と玄関から声をかけてきた。雨で体でも濡れてしまったのかと思い、タオルを手に玄関まで急いで走った。「ほら、お前にこれをやろう」と油かなんかで薄汚れた大きな手を広げて私に見せた。透明度の少ない小さなビニール袋に入った、丸い文字盤をしたシチズンのミッキーマウスの腕時計だった。「うわあ!これくれるの?」歓喜のあまり大声を出し、玄関で私は何度も飛び跳ねた。父は子供のあまりの喜び様にびっくりした様子であった。私は、寝るときも、お風呂に入るときも、片ときもその時計を離さずに腕にはめていた。バンドはいつの日か汗で真っ黒によごれてしまいミッキーの顔もだんだんと変色していってしまった。私の10歳の暮れの出来事である。今では私の宝物の木箱の中で汚れたまま、時を刻むことはないが静かに眠っています。
(注)この「思い出の腕時計エッセイ募集」に書いていただいたエッセイの著作権は、セイコーインスツルメンツ株式会社に帰属します。予めご了承下さい。
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