2002年の作品
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11-12月
(投稿順)
11月度のベストエッセイ審査に当たって、応募作品数が少なかったため、事務局で協議の結果、12月度応募作品と合わせて審査させていただくことにいたしました。よろしくお願いいたします。
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「私の初めての腕時計」佐々木 多恵子さんのエッセイ
「落とされた?壊れた腕時計」迫畑 吉美さんのエッセイ
「雪の夜の腕時計」江島 みどりさんのエッセイ
「筋金入りの時計」Kentaroさんのエッセイ
「わたしの三種の神器」小野 勝也さんのエッセイ
「見詰め続けて」浅野 千佳子さんのエッセイ
「雪虫」倉内 清隆さんのエッセイ
「タイムスリップした時計」橋本 忍さんのエッセイ
「消えた腕時計」斉藤 誠子さんのエッセイ
「シンプル」杉田 猛さんのエッセイ
「時を超えて響く音」小田中 準一さんのエッセイ
「ヒーロー」角谷 昌則さんのエッセイ
「僕のパートナー」松川 典史さんのエッセイ
「母と私の時計」川植 梨恵さんのエッセイ
「人生の伴奏者」長尾 松代さんのエッセイ
「20年ぶりの腕時計」本多 志行さんのエッセイ
「今、目の前にある、決意」本山 純子さんのエッセイ
「金色のペアウォッチ」高橋 佳子さんのエッセイ
「左腕の腕時計」内藤 潤さんのエッセイ
「腕時計の心理テスト」勝田 貴子さんのエッセイ
「いつも左手に」田原 真知子さんのエッセイ
「うっかりやさんの腕時計」石田 順子さんのエッセイ
「思い出の腕時計」三澤 久美子さんのエッセイ
「時計も父から子供の世代へ」砂野 和也さんのエッセイ
「大切な想いで」なかだ あきこさんのエッセイ
「おかあさんの願い、おかあさんの祈り。」ゆうさんのエッセイ 11-12月のベストエッセイ
「サンタクロースからの贈り物」古賀 ルミさんのエッセイ
「初めての腕時計」西浦 絵理さんのエッセイ
「ふたつの時間」浮穴 千佳さんのエッセイ
「時計」石野 廣子さんのエッセイ
「腕時計の思い出」増田さささんのエッセイ
「17年間ありがとう」山下 活子さんのエッセイ
「初めての腕時計」中西 英明さんのエッセイ
「大人の時計」福田 了子さんのエッセイ
「同じ時間」おかさんのエッセイ
「僕のアヴェニュー」嶋田 勝匡さんのエッセイ
「私が腕時計を持たないわけ」宮崎 泰代さんのエッセイ
「おまもり」五十嵐 里香さんのエッセイ 11-12月のベストエッセイ
「ビ ン ・ カ ン」畠山 恵美さんのエッセイ
「ち ち」畠山 恵美さんのエッセイ
「腕時計が再び動き始める」本多 志行さんのエッセイ
「腕時計がほしい」atsukoさんのエッセイ
「初めての腕時計」高田 あおいさんのエッセイ
「南京虫」高田 京子さんのエッセイ
「指定席」村田 謙一郎さんのエッセイ
「受験日・会場の机上にて」甲斐 伊織さんのエッセイ
「私の腕時計物語」後藤 純夫さんのエッセイ
「あの時を知らされて」奥村 敏弘さんのエッセイ
「銀婚式と腕時計」宮野 史朗さんのエッセイ
「引き継ぐ想い」加藤 和子さんのエッセイ
「左手首の主張。」えりこっこさんのエッセイ
「平和ボケ?」中村 陽子さんのエッセイ
「父からの大事な贈り物」渡辺 あやひささんのエッセイ
「初めての腕時計」山下 雅子さんのエッセイ
「腕時計のお詫び」後藤 順さんのエッセイ
「子育て卒業記念賞」藤田 啓子さんのエッセイ
「黄色い時計」藤田 麻美さんのエッセイ
「アンクル時計」池沢 信一郎さんのエッセイ
「時計と一緒に過ごした時間」下田 陽子さんのエッセイ
「姉さんの時計」中村 清美さんのエッセイ
「お守りみたいの腕時計」中村 清美さんのエッセイ
「貴重品だった時計」たかぴさんのエッセイ
「時計」小笠原 一夫さんのエッセイ
「人間臭い時計」佐藤 直路さんのエッセイ
「プール」朗子さんのエッセイ 11-12月のベストエッセイ
「たったひとつの、いつか。」長岡 美帆さんのエッセイ
「高価だったデジタルの腕時計」福原さんのエッセイ
「あのとき」赤崎 芙美さんのエッセイ
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「私の初めての腕時計」佐々木 多恵子さんのエッセイ
もう何年前の事になるでしょう。
私の初めての腕時計は、私の腕に何分もされる事なく、私から離れていってしまいました。
私が二十歳になる時、祖母が買ってくれたものです。なぜ、離れていったのかと言いますと、昔、三十年以上も前の事。トイレはボットン便所と言われて、何かを落とすと、ストレートに、汚物に落ちてしまうのです。物を拾う事の出来ないトイレでした。祖母は、悲しい顔をしていました。そりゃそうですよ。買って与えて、数分後の出来事ですから。自分も、ビックリです。ショックでした。
その瞬間、何が起きたのか記憶にないのです。今よりとてもやせていて、腕も当然細く、普通の腕時計はゆるゆるでした。止め金が甘かったのか、それがはずれたのかは、確かではないわけで。
あっ!と言う間の出来事でした。
あの有名時計店の品物で、値段もとても高く、祖母には申し訳なく思っております。
それ以来腕時計は、何年も私の腕にする事はありませんでした。
しかし、仕事をしている上で、どうしても必要になり、五、六年後に自分で買うことになりました。
その時も、今は亡き祖母に、応援してもらいました。その時のは永い付き合いしてました。それもいいものでした。
汚物たまり処に落ちたあの時計が、どこをどう流れて、今どうしているなんて、あまり考えたくないですね。でも私の大事な思い出のひとつなのです。祖母は、私の親代わりの人でした。
祖母と腕時計は、時がすぎても、忘れてはいけない存在です。
「落とされた?壊れた腕時計」迫畑 吉美さんのエッセイ
父は大正六年の生れです。尋常小学校を出て就職し、給料をはたいて買ったと言う自慢の腕時計をとても大切にしていた。
私が中学二年の時、父がその時計をくれた。もう三十年ぐらい経た腕時計でした。
理由は級友の一人が学校に腕時計をして来たから欲しくなり、買ってくれるようにしつこく頼んだからです。
私が自慢気に時計を見る仕草を見て、隣席の級友が腕時計を見せてくれと言うので、腕から外して渡そうとした。
故意ではないと思いたいが、渡したと思った瞬間、腕時計が床に落ちてしまった。
一瞬、級友を殴りたい衝動を抑え黙って腕時計を拾った。級友は知らんふでいるのが悔しく、握りこぶしを固くしてその場を凌いだ。
授業が終わると町でただ一軒の時計屋さんに持って行った。
時計屋さんは「もう寿命だよ」とアッサリ言った。どうやら父も再三修理や調整に持ち込んでいた代物であったらしい。
時計屋さんは「とても良い時計だが部品がもう無いから…」と私を慰めるようにその腕時計を返してくれた。
父には落として壊した事も修理に持ち込んだことも内緒にして、登校の朝は家を出るとき腕にはめて出かけた。
学校に着くと自転車の荷台からカバンを下ろすとき、腕時計をカバンの隙間から入れて何食わぬ顔で教室に入った。
一ケ月も続いたろうか、ある日の夕食時に父が黙って小さな包みを出して私にくれた。腕時計の新品であった。
私は何故か新品の腕時計に素直に喜べなかった。落として壊した父の大切にしていた腕時計が頭に浮かんだからです。
私は翌朝から新品の腕時計をはめて登校した。自転車置き場で新品の腕時計を外しカバンに忍ばせて教室に入るようにした。
父は時計屋さんから私が持ち込んだ腕時計の話を聞いて、私の腕時計を買ったらしい。
テレビで私の持つ腕時計と同じのコマーシャルが流れると新品の腕時計に目をやり内心大いに満足した。
三年生の夏休みが終りニ学期になると級友の半数近くが腕時計をはめて登校し始めた。
私も何時しか自転車置き場で腕時計を外す事は無くなり、腕時計が腕に有ることを意識する機会が少なくなった。父の古い腕時計が何事にも機を伺うことを教えてくれたように思う。
「雪の夜の腕時計」江島 みどりさんのエッセイ
あれは20年も前、私が銀座のOLだった頃の話だ。毎日が単調な帳簿つけ、成り行きでなったOL仕事の味気なさに後悔しながら私はただのオフィスから見える和光の時計台をみつめていた。あの時計が12時になったらこの気の張るオフィスから逃れられる。あの時計が5時になったら夜のネオンの瞬く銀座通りを銀ブラしながら歩けると。そんな暮らしを支えていたのが大学時代からの恋人で銀座の一流会社に勤めていたEの存在だった。Eは長身で超ハンサム、だがどちらかといえば私の片思いでいつも私が一方的にデートを設定し一方的に喋り捲り終始自分を押し殺し彼の好みの女性を演じ別れた後、砂をかむ孤独感を味わう、そんな日々を送っていた。
あの日もそうだった。1月半ばの厳寒の夜、銀座には雪が舞っていた。私の呼び出しにEは出てきたものの明らかに不機嫌だった。腕時計をちら々見やり心ここにあらずだった。私は哀しみを紛らわす為、大声で笑い取留めのない話をした。「仕事があるから」彼は途中で席をたった。私は涙を必死に押え一人夜の町を彷徨った。「来てくれたんですね。」その時聞き覚えのある声が私を捕えた。振り向くと同僚の江島君だ。「もう来てくれないかと思ったけどやっぱり来てくれた。」彼は降る雪に手をかじかませ頬を紅潮させ嬉しそうに微笑んだ。その時私は先日彼と交わした約束をはっと思いだした。そうかこの場所で彼とお茶する約束してたんだ。確か待合せは6時?忘れ果ててた約束に動転しながら腕時計を見ると何と6時。「ああ良かった、来てくれて」そう言って笑いながら髪の雪を払った彼の腕時計に雪が落ち、彼のぬくもりのせいか雪はすぐに消えていった。私にとって単なる気の合う同僚に過ぎなかった彼が3時間も雪の中、腕時計を見つめながら私を待っていてくれた。Kとのデートでは哀しい小道具となってしまった腕時計だが二人を結ぶ温かい絆となった。その後二人は結婚、雪が降るたび、あの夜を思いだす。そして二人の愛の物語は今だに時を刻んでいる。
「筋金入りの時計」Kentaroさんのエッセイ
サラリーマン生活に疲れて会社をやめ、南米旅行に出た。出発前に適当な腕時計がないので、机の引出しを漁ると死んだ親父が昔くれた腕時計が出てきた。何の変哲もない時計だが、ひとつ目を惹いたのは文字盤の片隅に方向磁石がついていることだった。そういえば、親父「若い頃、徒歩で日本縦断旅行した時に苦楽を供にした筋金入りの時計だ」なんてうそぶいてたなと思い出した。しかしこれは南米旅行にはおあつらえ向きだと、ベルトと電池を替えたら見事に生き返った。
ベネズエラからチリまでバスで移動する貧乏一人旅にあって、方向磁石は思いの他役に立った。知らない町でバスから放り出されて宿を探す時など、地図とこの磁石だけが頼りだった。それどころか、親父の“筋金入り”という言葉が自分の中で妙にデフォルメされて、いつしかこの時計は一つのお守りのような存在になってしまった。
真夜中にバスに揺られている時など、なぜかよく死んだ親父に思いを巡らせた。親父の人生ははたして充実してたのかと。広島カープが大好きな古本屋のオヤジという平凡な一庶民で終わった親父は幸せだったのかと。若くして癌であっけなく死んだだけに、よくそんなことを考えてしまう。しかし腕時計に残された無数の傷が親父にも輝いた瞬間があったことを何よりも示しているような気がした。若かりし肉体とチャレンジ精神のままに日本列島徒歩縦断に飛び出し、真夏の日本を毎日40キロ、2ヶ月半かけて歩いたという。リュックに書いた「日本縦断中」の文字。過ぎ行くドライバーから「がんばれよー」の一言が嬉しかったという。
南米から戻ると季節は二つ過ぎていた.。取り得もない僕はまたサラリーマンを始めた。埃にまみれたTシャツの代わりにまたスーツを着る生活になったが、いっそう傷の増えた時計はまだ身に付けたままだ。人に聞かれれば「日本と南米の縦断旅行を経験した筋金入りの時計だ」と答えることにしている。
「わたしの三種の神器」小野 勝也さんのエッセイ
腕時計と万年筆とカメラは、男の三種の神器だと思う。少なくともわたしにはそうである。左腕に時計をつけ、上着に万年筆をさし、肩にカメラを提げればわたしの外出姿だ。それぞれに思い入れがある。わたしは高価な時計はできない。いままでに記憶がある時計でも五万円以上のものはない。でもわたしは自分で選んで買った時計は大切にする。動く限りは命あるものとして使い続ける。だからファッションとしてではなく、体の一部分として考えている。いや感じているのかもしれない。とにかく風呂にはいるとき以外はいつも腕につけている。つけていないと落ち着かないのである。
わたしは信州伊那の生まれである。東京へ出るとき、放蕩者の兄がわたしにくれた時計が、わたしの生涯で初めての時計であった。オメガの平たいものだった。東京で予備校通いをしていたとき、腹が空いて、金もないので近くの質屋にそれを入れた。千五百円だった。でも結局質から出せずに流してしまった。いまから考えると惜しいことをしたと思う。兄からわたしが何かもらったのはこの時計が初めてだったからだ。しばらく時計なしの時代を過ごし、大学生になったとき父がセイコーのクウォーツをかってくれた。ヨーロッパ旅行に行ってギリシャのパルテノン神殿の後ろの博物館へ行ったとき、門番の男が、わたしの時計をみて、自分の腕を見せて同じ時計だと自慢して見せた。クウォーツがまだ珍しい時代だったのだ。いまわたしの腕についているのは、すでに十年にもなるが、セイコースピリッツである。わたしは満足している
「見詰め続けて」浅野 千佳子さんのエッセイ
スヌーピー、キティちゃん、ミッキーマウス…。私が欲しかったのはそんな腕時計だった。小学校高学年になった私の友人達は、夕暮れになるとこれ見よがしにそんな可愛い腕時計を見せ付けては「もう帰らなきゃ」と去って行ったものだ。
時計を買ってと親にねだってから半年ほど経過し、やっと手に入れたそれは、ところが馬鹿正直に時を刻む、味も素っ気も、勿論可愛げもない、大人が使うのと同様の、無地のものだった。文字盤に書かれた柄は「SEIKO」、それだけ。そしてトドメの母の言葉。「高校生になっても使うのよ」。当時5年生だった私には、”高校生”という言葉が果てしなく遠い未来に感じられ、このただ真面目なだけの時計を5年間も見詰め続けるのか…と、途方に暮れたのだった。
…5年なんていう月日はあっという間。そんなことを知ったのは、その時計と出会って10年も経ってからだろうか。気が付けば高校生だった私も、大学生だった私も、社会人になった私も、その時計を見詰め続けていた。思春期には多少の浮気はしたが、いつもそれを、私は見詰め続けた。初恋の時も失恋の時も、挫折の時も成功の時も、いつも私の腕で時を刻み続けたその時計。そう、見詰めていたのは私ではなく、実はこの時計の方だったのではないか。そんな気さえしている。
ここまで付き合ったのだから、還暦の時も喜寿の時も米寿の時も、共に迎えよう。そして迎える最期の時、秒針の音を聞きながらこんな風に思うのかもしれない。
「5年なんてあっという間。一生だって、あっという間…」。
「雪虫」倉内 清隆さんのエッセイ
食わず食わずの重労働。如何に若くともバイカル湖畔での俘虜生活にも限界があった。
五月になるとシベリア荒原にも春が訪れ一望千里、草が芽を吹く。腹這いになり、兎同様一草も残さじと俘虜たちがそれを貪り食える、実に有難い季節ではある。
中には知らずに毒草の御浸しを喰らい、気が狂れ、瞳孔が開いたまんま、寒空の中、褌ひとつで分列行進する戦友たちの姿を見ても誰ひとり笑う者とてなかった。
東北農家出のNは流石監識眼抜群、お陰で無事息災。痩せっぽちのクセに「俺は百姓、筋金入りさ!」と喚き、農場の労働(ラボート)があると、持てるだけのジャガイモをガメて来るし、冷凍鱒をブルブル震えながらでも肉肌直か、腋に挟んで来るワで「オイ、死ぬな!食え食え!」五ツの物も三ツは私に押しつける奴だった。
諦め切っていた帰国(ダモイ)が三年後にやっと叶い戦後のドサクサもあり、何時の間にやら互いの存在すら忘れる程、熾烈だった。
シベリアでの悲願だった大学(夜学)にも通える身にはなっていたが、昼間トロッコ押しの人夫でも、それには一食抜いても時計が必需品だった。学費の事考えると迚もじゃなく、思いあぐねた末、流行の血を売ることにし、何回目かは忘れたが、やっと質流れの腕時計が手に入り「見ろ、セイコーだぜ!」人夫仲間に見せびらかしたが、流石に「質流れ」とは口が裂けても云わなかった。
ある夜、夜学から帰ると一通の手紙「Nが亡くなった」旨の妹御からである。
Nの為、役に立ったとは云え、泣く泣く腕時計を質屋に里帰りさせ、やっと汽車賃を工面。
小高い丘に建つ真新しい杉の墓標に雪虫が舞っていた。墓標に縋り付き哭くだけ哭いた。
帰れば地獄、乏しい中セッセと質屋に払ったが、一年後、再び我が腕にバチッ!とハマった、あの得も云えぬ感触、いやな感動は生ある限り、夢忘れ得ぬ想い出となろう。
「タイムスリップした時計」橋本 忍さんのエッセイ
海外旅行に行く時は忘れても盗られても困るから、もう使わなくなったものを選んで持って行く。だからその時、私は小学生の時に買ってもらったスヌーピーの腕時計を持って行った。それにはちょっとしたゲームが付いていて、アラームには愉快な機械音が鳴る。はっきり言って、二十代の女が持つにはちょっと不釣合いで恥ずかしい代物でもあった。
飛行機がベトナムの空港に着いて、私は買い物、グルメにエステを大いに楽しんだ。数日して、ちょっと田舎の方へ行って見ようということになり、メコン川クルーズへ行った。クルーズと言ってもポンポン船のようなもので泥水の上を移動するだけである。私ははっきり言ってあまり乗り気ではなかった。
しかし、現地の人が使用する小さな木の船で川の上におりてみると、その考えは一転した。太陽の光りを受けた水面は鈍く光っており、メコン川の雄大な流れの中に私を溶かしていった。心地よい風が私を駆け抜け、清々しい気分になった。
岸辺で昼食を取り、扇風機の風に吹かれていると現地の子供たちが集まってきた。物乞いや物売りがほとんどだが、えげつないことはしない。まだ外国人がめずらしくて集まっているような感じである。
私は不意に自分のはめている時計のことを思い出し、派手なアラーム音を鳴らしてみた。一斉におどろいて聞き入る子供たち。チビもちょっと大きい子ももう夢中である。
思えば、私も小学生の時、これに夢中だった。
「本当に時計が欲しいんじゃなくて、そのゲームが欲しいんでしょ。」
母の言うことは図星だった。でも、飽きやすい私にしてはめずらしく、かなり長期間それをねだってようやく買ってもらった。
ラリラリ〜という音とともに私の心は十歳のわがまま娘に帰っていた。その時、私は他の何もかもを忘れてただひたすらにその時計を自慢げに眺めていた。
「消えた腕時計」斉藤 誠子さんのエッセイ
二女を出産する時五才の長女を連れ、実家に二ヶ月程お世話になったので、気持ちばかりのお礼のつもりで父には少し奮発してセイコーの腕時計をプレゼントした。
私と同じ名前の時計を父はことのほか大事にして、宝物のように扱っていると母がよく笑いながら話してくれた。箱の中に大切にしまわれた時計は、父がたまに外出する時だけ腕にはめられ、家に帰るとすぐ箱に入れ引き出しの中にと言う具合に、あまり日の目を見ることは無かったようだ。
農閑期になると父母は横浜の我が家に遊びに来るのを楽しみにしていた、「一度も狂ったことが無いんだよ」と嬉しそうに見せてくれた父の腕には誇らしげにも見える腕時計が光っていた。
そんな父が高齢もあり体調を崩し入退院を繰り返すようになって二年余り、大切な時計は、何時も父の傍らにあった。
まるで時計が父を守ってくれるかのように母は思っていたのかも知れない。
重い病には勝てず昨年四月八日お釈迦様の生まれた日に九一才で父は静かに旅立って逝った。
寡黙で優しかった父、苦労に苦労を重ね、働き詰めだった父、心から尊敬できる理想の父だった。
遠く離れているせいか今も私は大好きな父の死を信じられない思いでいる。
三十年間時を刻んだ父の大切な時計は、病院で紛失してしまった。
病院の方達が必死に探してくれたが見つからず、まるで父の分身が消えてしまったかのように、母はひどくがっかりしている。
私も残念で仕方がないが、心優しい父は、きっと微笑みながら言うだろう「誰かが大切に使ってくれるなら、それで良いんだよ」・・・と。
「そうだよね、お父さん」
「シンプル」杉田 猛さんのエッセイ
シンプルでありたいと思いながらくだらない物にあふれた部屋に住んでいる。そんな中で唯一シンプルであるのが腕時計です。元々腕時計にこだわりはなかった。何でもよかった。1000円くらいで売っているデジタル腕時計や、ゲームセンターの景品ゲームで取った腕時計で十分だった。
そんなある日、ふと入った時計店で見つけた腕時計。数字も書いておらず、白地に黒と少しの赤だけで構成されたデザイン。とてつもなくシンプルではあるが、静かな存在感があり、ゴテゴテとした他のデザインのものよりも自分の中では目立っていた。「欲しい」と、思った。腕時計には何のこだわりもなかった自分なのに、その腕時計はとてつもなく「欲しい」と、思った。詳しい値段は忘れたが、2万円弱だったと思う。何10万、何100万もする腕時計に比べれば安いかもしれないが、1000円で買ったり、100円で取ったりした腕時計で済ませていた自分にとっては決して安い金額ではなかった。「2万円あればCDが何枚買えて、本が何冊買えて・・・」というセコイ計算が頭をよぎったが、結局、それを欲しいという欲求には勝てなかった。
以来、飽きることなくその腕時計をしている。仕事以外、どこへ行くにもこの腕時計をしている。ここ数年の自分の持ち物で一番行動を共にしているのはこの腕時計かもしれない。電池とバンドを交換した以外、何一つ壊れることなく動いてくれている。故障したらもちろん修理するつもりである。でも、「物はいつか壊れる」で、修理も出来ないほどの状態になる時がくるかもしれない。そしたら自分は悲しむのだろう。大の大人が、腕時計一つ壊れただけで、とても悲しむのだろう。
そうさせるだけの魅力が、この腕時計にはある。
「時を超えて響く音」小田中 準一さんのエッセイ
中学一年の誕生日。母は私に小さな箱を手渡した。「誕生日プレゼントだよ」。箱を開けると中には銀色の腕時計が入っていた。さっそくはめてみた。腕を上げて顔の前に文字盤を近づけ、じっと見る。そして、角度を変えて、またじっと見る。今ではないゼンマイ仕掛けの腕時計。私はうれしくて、外出の度にはめた。
ふだん学校へはその腕時計をはめて行かなかった。しかし、試験の時は別だった。当時、教室の掛け時計は前の黒板の上にではなく、側面に掛かっていた。試験中、経過時間が気になる。時計を見るには顔を横に向けなければならない。カンニングをしているように思われてもいやだし、なにせ不自由だ。母からもらった腕時計を机上に置いて試験を受けた。腕時計が机の上にあるとなぜか落ちつく。集中して試験問題に取り組めるのだ。母の励ましが腕時計に乗り移っているような気がした。
その腕時計は高校に入ってからも私の腕にしっかりとはめられていた。
私が初めて手にした腕時計。それから三十八年。今の腕時計は何個目になるのだろうか。買い換える度に少しずつ豪華になる腕時計。しかし、初めてもらった腕時計は、私にとって母の温もりとともに、生涯忘れられない腕時計である。そして、その時を刻む音は、時を超えて今でも私の心の中に響いているのである。
「ヒーロー」角谷 昌則さんのエッセイ
小学校6年生のとき、進学塾へ通うことになった。本人は受験は高校からあるものと信じていたし、両親も別に中学受験を奨めていたわけでもなかったので、何がなんだかよくわからないまま通っていた。当然、成績も悪かった。
しかし周りの人達はスゴかった。学校では見たことない分厚い問題集をたくさん抱え、その塾が終わると別の塾へ通うツワモノが多数いた。そうした友達は皆腕時計をしていて、時間を合わせて父または母親と会い、近くの喫茶店で夕飯を食べると次の塾へ向かうのだった。まだ小学生なのにしっかり未来を考えていてエライなー、と思ったものだ。
そこで僕も気分一新、少しマジメになることにした。僕も大人みたいに先のことを考えて今を生きてみたかった。そこで腕時計である。これをしてると、「人生設計もう着々やってます」組に入れるのだ。そこで父に腕時計をねだった。まだ小学生なのに?でも、塾でみんなもってるんだよ、といって承諾してもらった。
で、欲しい欲しいと言って買ってもらったのがセイコーの「ヒーロー」である。正式な商品名は知らないが、当時テレビで、「ヒーロー、ヒーロォになるとき、アーアー、それはいまァー」というCMがカッコ良かったのだ。当時2万5千円くらいしただろうか。小学生が持つものではないが、とにかくそれを買ってもらった。
甲斐バンドも大ブレークできたそのCMで話題十分、僕は塾でヒーローになれた。正確には僕のエリート時計がヒーローで、落ちこぼれの僕とのミスマッチが話題を呼んだらしいが。しかし、いつしかこのコンビは高校受験をくぐり抜け、某超有名国立大学の受験会場にも現れ、その1ヶ月半後には一緒に入学式に参列していた。僕じゃないなあ、この時計かなあ、ホントに人生設計やってくれたのは、と、つい3ヶ月前に液晶板に寿命がきてしまったこの「ヒーロー」時計を大事にとっている。
「僕のパートナー」松川 典史さんのエッセイ
このアラームが鳴ったら、彼女にキスをする。
23時45分、僕の思考回路はこの1つの行動を起こすためだけにフル回転していた。どういう方向からがいいか、表情はどうすべきか、唇は乾いていた方がいいのか・・・・・・。
心臓はいつもの2倍ほど多く鼓動を打っていた。1分が1時間以上に感じた。
彼女の誕生日の前日、日が変わったと同時に祝おうと、腕時計のアラームを23時55分にセットした。緊張しすぎて忘れても、5分前に気がつくようにと。しかし、実際は忘れるどころではなかった。秒針を凝視し、日が変わる瞬間を今か今かと待ち焦がれた。
そして、運命の時間5分前。暗くした部屋に腕時計のアラームが響き渡る。
来た・・・・・・。
それからの5分間、どうだったかはあまり覚えていない。耳元で鳴っているかのような心臓の鼓動音だけが頭に響いていた。
「ハッピーバースディ」
体感時間で5分、僕は彼女に初めてのキスをプレゼントした。日が変わっていたかどうかは、もうどうでもよかった。世界で一番早く、彼女を祝うことができたという事実がそこにある。それだけで満足だった。
大学2年生の頃、アルバイト代を全て投入して手に入れたこの腕時計には、とりわけ思い入れがある。購入した時期と彼女と出会った時期がほぼ一致するのである。彼女と会うときは必ず、左手首にこの腕時計をしていた。結婚式の会場でも(本当は外すように言われていたのだが)燦然と輝くその勇姿が写真に残っている。
今でも、1日の終わりの5分前になると、腕時計はアラームを奏でる。このアラームを聞くたび、あの日を思い出す。そして、新たな1日の始まりを思わせる。彼女と共に歩む、これからの時間を。
「母と私の時計」川植 梨恵さんのエッセイ
高校の入学式を間近に控えた3月のある日。母と二人、近所の時計屋さんに、私の初めて持つ腕時計を選びに行った。私たち二人が選んだのは、ベルトがシルバーの金属でできたごく普通の時計だった。が、その文字盤のグリーン、透き通ったようなエメラルドグリーンが何ともいえないいい色で、母も私も一目で気に入ってしまった。
私の故郷では4月はまだ寒い日の方が多い。入学式の朝、その時計を手首にはめるとヒヤッとした冷たさが伝わってきた。時計をつけた自分の腕を何度も見て、ずいぶん『お姉さん』になった気がして、なんだか居心地が悪かったけれど、母と駅に行ってみると、ちょっと緊張したような顔をしたいつもの友達の手首にも真新しい時計があるのを見つけて、なんだかほっとしたのを覚えている。
このグリーンの時計とは高校、大学時代7年間をともに過ごした。社会人になってからもしばらく使っていたけれど、この頃になると周りは革のベルトの人の方が多くなり、私も茶色の革ベルトの時計を買って、今までのは母にあげてしまった。
ベルトのサイズが母の手首には細すぎたので、母はゴムのように伸び縮みするベルトに替えた。すると今まであんなにカッコよかった時計が急に安っぽいものに変わってしまった。それでも母は、「私はこの色が好きなんだよ。いつ見てもいい色だんねえ。」なんて言いながら、その後何十年も使ってきた。一緒に旅行に行った時にもしてくるので、いい加減かわいそうになり、別の機会に新しい時計をプレゼントした。母は「こんなのがほしかったんだよ。」と言ってとても喜んでくれたが、出かける時以外は相変わらずあの時計をしていた。
母は入院してからも時計をはずすのをいやがった。それが唯一普通の生活と自分とを結びつけるものだとでも思っているかのように。もう起き上がることもできなくなった時、グリーンの時計は何年か振りに私の腕に戻ってきた。
今、この時計は私のタンスの上に置いてある。隣にはうれしくてたまらないといった顔で笑っている母の写真がある。考えてみるとこの時計は本来の持ち主である私よりずっと長い時間を母と共に送ってきたんだ。私が生まれて初めて持った時計は、母の最期の時計となり、そして私の大切なお守りとしてこれからも時を刻み続ける。
「人生の伴奏者」長尾 松代さんのエッセイ
「時は金なり」
中学入学祝いの腕時計に添えられていた祖母の達筆な字。はめるとズシッときた。ネジを回さなくても静かに動く水晶時計。大人になった気分がして、神妙な面持ちで祖母の字を何度も読み返したのを覚えている。そして、「勉強も部活も頑張るぞ」と誓った。
しかし、入学してからの私は遊び呆けた。勉強するのは定期テストの前くらいで、部活もさぼりぎみだった。
きっと、バチが当たったのだろう。私は祖母からもらった時計を無くしてしまった。怒られると思うと誰にも言えず、ドキドキしながらこそこそ探し回った。いつ何をしていても落ちつかなかった。ある日曜日、もうすぐ祖母が上京するという日、父に見つかった。
「最近、時計をしていないじゃないか」
私は仕方なく白状した。父はしばらく黙っていたが、出かけるぞと言い、私をデパートに連れて行った。そして、同じ時計を探して買ってくれたのだ。高額だった。久しぶりにはめた時計はひどく重かった。
「今の生活、楽しいか?」
帰る途中、父に聞かれた。私のたるんだ生活ぶりは母から聞いていたに違いない。ぎこちなく頷く私を無言で責めないのが辛かった。
以来、時計をはめるたびに気持ちがチクチクした。ガラスに映る顔の上を動く秒針が「今のままでいいの?」と聞いているような気がしてならなかった。
その後、私の生活は徐々に落ちついていった。タガがはずれかかっていた私を立て直し、導いてくれたのは3本の針たちだったのではないかと思う。人生の伴奏者だ。
あれから、22年。祖母も父も他界した。天の上で、現在の私はどのように写っているのだろうか。
今も時計は静かに時を刻んでいる。何かでめげそうになると、私は腕に手をあて、元気をもらっている。
「20年ぶりの腕時計」本多 志行さんのエッセイ
20年ぶりに私の腕に時計が巻かれた。
緩めのバンドだが、慣れていないからか、少しきつい。
やはり左腕が痺れるような気がする。
少し早めのクリスマスプレゼントだ。
時と彼女に拘束されたシルシかもしれないが、ずっしりと重いクロノグラフは確実に私の腕で時を刻んでいる。
もう、何度も腕時計を見た。
まるで初めて腕時計を買ってもらった子どものようだ。
気持ちは同じだろうが、当時の時計とはかなり異なる。
当時の腕時計はフィット感が良くなかった。
今回の時計は、自分でなるべく装着感がいいと思えるものを選択していた。
チタン製の軽いものにするか、バンドの裏側にゴムがついていて手首で回転しにくい作りに
なっているものにするか、時計盤の周囲が固く固定されているものにするか・・・いろいろと
種類が増えていて迷ったが・・・その種類の豊富さは企業努力の成果だろう。
腕時計は成熟産業であるが、そのような状況でも一生懸命に技術者たちは「よりよい」ものを作ろうとしていたのだ。
まだ、違和感はある。でも、すぐに慣れるだろう。
私の左手首に巻かれている腕時計には、彼女の思いだけでなく、私のいろいろな思い、そしてそれを作った技術者たちの思いが詰まっているのだ。
たった一つの腕時計・・・でも、大きなのっぽの古時計よりもたくさんの人の思いを受け継いでいる。
初めて手にした腕時計と同じような思いも感じたが、それ以上の思いを、20年ぶりの腕時計は感じさせてくれた。
でも、その気持ちを持ちつづけることは難しい。
今後の私にとって重要な仕事は、今のこの思いを持ちつづけることになるだろう。
「今、目の前にある、決意」本山 純子さんのエッセイ
こげ茶色の大きな腕時計が大好きだった。
そして今、その腕時計が目の前にある。満員電車の中。夕方のラッシュに重なってしまった不運が、幸運だった。偶然にもあの人に出会えたから。二年ぶりかな。
あの人は大学院の博士課程で戦後美術の研究をしている人だ。当時私は大学の美術館で資料のデータ入力のアルバイトをしていた。その頃の一年間、館内でたまに、二週間に一度くらいの割りで顔を会わせていた。あの人はここに来る時はいつも、アルバイトの私にだって「こんにちは」と深々と頭を下げてくれた。そして一言二言、「いい天気ですね」とか「今日は冷えますね」とか、私にはまるで関心がないかのような台詞を言って、ドア付近の使っていない椅子の上にカバンを置く。腕時計を外す。そして、隣りの収蔵庫に籠もり、目当ての絵を見ていたのだと思う。「思う」と言ったのは、私はその現場を目撃した事がないから。数時間後、彼はまたここへ来て、丁寧に「お邪魔しました」と言い、腕時計をはめて、消えてゆく。
腕時計を外すのは美術館で働く者の当然の仕草だ。貴重な美術品に傷をつけないように。だからここにいる人はみんなそうする。でも、あの人のその仕草だけ違って見えた。極上の美しさがあった。大げさでなくて。歌舞伎の女形のごとき気品を放っていた。
あの人が収蔵庫に入ってから、そっと置かれた腕時計を眺めるのが大好きだった。大きなこげ茶の腕時計は私の憧れとなっていた。知性と教養と誠実さと優しさの象徴だ。私もこんな腕時計が似合う人になりたいな。いや、ならねば。決意した。
あれから二年。残念ながら理想には程遠い。でも、その決意は忘れていない。そして今、目の前にそれがある。声かけようかな?私のことなんて覚えてないよね?揺れる電車の中で言葉が回る回る・・・。
「金色のペアウォッチ」高橋 佳子さんのエッセイ
勝佳叔父ちゃんは、母と五歳年が離れている。母には三人弟がいるが末っ子の叔父ちゃんを特に可愛がったらしく、五十歳になるというのに今でも叔父ちゃんは「ねえちゃん」と母を呼んでは慕っている。
二人はよく似ている。親分肌でせっかちで、面倒見が良くて情にもろい。二人が並ぶとそれはもう「大親分・小親分」といった風情になる。
叔父ちゃんの唯一の趣味は油絵だが、まだ学生だった頃に「ねえちゃんへの結婚祝」として描いた静物画は、叔父ちゃんの口から「林檎」だと訊かされるまで、ずっと「じゃが芋」だと思っていた。本人はかなり自信があるようで「佳子が嫁に行く時も描いてやるな」なんて言う。
珍しく叔父ちゃんが叔母ちゃんと連れ立って遊びに来た時のことだ。叔母ちゃんは二人の子供の母親だけど、少女みたいな雰囲気を漂わせている女性だ。一歩下がって男に従うようなタイプ。
ふと二人がお揃いの金の腕時計をしていることに気付いた。長方形で文字盤のところに小さなダイヤが埋め込まれている。
「あー、叔父ちゃん達ペアウォッチしてる」
私がはやしたてると
「勤続十五年のご褒美に会社がくれたんだ」
柄にも無くはにかんでいる。むしろ叔母ちゃんの方が堂々としていて、誇らしげに見えた。
私は叔父ちゃんがこの時計を会社から貰った時のこと、それを叔母ちゃんに渡して二人でつけた時の様子を想像した。
年輪を重ねた夫婦がお揃いの時計をはめている姿には味がある。単に仲が良いとかではなくて、山坂越えて「男と女」であり続けているような安心感がある。膨大な「暮らし」という時を刻む中での、夫婦のあり方を、金色のペアウォッチは私に教えてくれた。
「左腕の腕時計」内藤 潤さんのエッセイ
「あれ、その時計、お父さんのじゃない?」
何気なく母の左腕を見た私は母にたずねた。
「あっ、これ? お父さんの形見の腕時計。たくさんあるのに誰も使わないんだったら、使おうと思ってね。お父さんきっと喜ぶよ」
そう答えた母の口元には笑みがこぼれた。
父は、今秋鬼籍に入った。突然の死。公務員だった。時間にルーズなことに殊更腹を立てた。そんな父が好きだったもの。それは腕時計だった。仏前には彼が愛用していた腕時計が所狭しと並んでいる。お参りをするたびに思う。持ち主がいなくなった腕時計の寂しさを。
忌明けを迎えた。このころになると、食が細くなり、かなり落ち込んでいた母も少しずつ元気を取り戻した。そして母の腕には、父形見の腕時計がはめられている。
母の細腕には似つかわしくない腕時計が息を吹き返した。止まっていた父の時間がゆるやかな時間を刻みはじめた。
私は、遺影の前で父に話しかけた。
「お父さんの腕時計はお母さんが使っているよ。よかったね」
それを聞いた遺影が少し微笑んだようだった。その顔は、笑みがこぼれた母の顔に似ていた。
忌明けの翌日。母は中断していたお茶の稽古へ出かけた。止まっていた母の時間が動き始めた。父の腕時計とともに・・・・・・。
「腕時計の心理テスト」勝田 貴子さんのエッセイ
「自分にとって腕時計とは?」という心理テストをご存知だろうか。まだ私が二十歳の頃、「しないで外出すると一日中気になるけれど、家に帰ったらすぐにはずす。窮屈で嫌。」そう答えた記憶がある。このテストは、「あなたと恋人との関係」を意味するのだそうだ。確かにそうであった。私はいつも恋人が一緒にいなくては嫌なくせに、束縛されることを妙に嫌った。一見矛盾しているようだが、一緒にいる時間以上に、自分ひとりの時間が大切だった。まるで風船の様に・・・きちんとつかまえてくれなくては飛んでいくけれど、両手いっぱいでしがみつかれては壊れてしまう様な・・・。
社会に出てしばらくして、彼と出会った。あまりに自然な出会いに、“これが運命的”とは気付かないほど。それなのに不思議なことに、私の腕時計は変わったのだ。彼が初めてプレゼントしてくれたのは、ダイバーズウォッチだった。それまで使っていた物と何が変わったと言う訳でないのに、私はお風呂のときでも、寝るときでも、その腕時計が離せなくなった。片時さえも・・・。しばらくして、その彼と結婚した。そしてもうすぐ十年になる。私はその腕時計を、メンテナンスの時以外はずさない。どんな時でも、私の腕にその腕時計がないほうが、不自然なのだ。
今になってその心理テストは、間違ってなかったのだと思える。今、夫が24時間側にいても、私は私のまま自然にいられる。私はたとえ寿命が来ようと、一生、この腕時計を左腕にはめていようと思っている。
「いつも左手に」田原 真知子さんのエッセイ
高校入学の時からその時計は一緒に時を刻んでくれている。入学のお祝いに両親に買って貰ったSEIKOの「Avenue」という時計だ。
父の転勤で来た富山はとても田舎だった。見知らぬ景色、初めて聞く方言。当時、民放が2つしかなかったテレビのチャンネル。ゆっくりと流れる時の中で、私の左手にいつもその時計はあった。田舎の高校で1時間に一本しかない電車に乗り遅れた日は、時計を見ながらくやし顔。次の電車まで目の前の日本海を見ながら待った。富山は今でも私にとって第二の故郷だ。
大学は大阪へ進学した。入試は時間との闘い。時計とにらめっこをして無事合格。たまたま父も大阪へ転勤となり、家から学校まで1時間半の通学となった。一時限目の授業に間に合うように、走る、走る。荒い息で何度も時計を見た。大学の4年間は私にとっていろんな意味での良い経験が出来た時だった。
そして就職。社員が40名程の会社で残業が多かった。残業が続くとふらふらと眠い顔で時計を見て、終電へ急いだ。終電が満員電車だということを初めて知った。勤めている時は文句ばかり言っていたが、4年半頑張れたのは、やはりあの仕事が好きだったのだと思う。
28歳で結婚。挙式と新婚旅行はハワイで行った。ハワイに着いて、時計もハワイ時間に合わした。楽しい時、一生の思い出の時を一緒に刻んでくれた。でも、さすがに挙式中は鞄の中でお留守番。私の緊張の時を、静かに祝ってくれていたに違いない。
長いようで短い時を、私はほとんどこの時計一つで過ごしてしまった。たまには違う時計もお出まししたが、ここ一番、という時は決まってこの時計だ。
いつもいつも、やさしく静かに、時には厳しくも暖かく私の時を刻んでくれている。そして、これからもいろんな思い出の時を刻んで欲しい。
「うっかりやさんの腕時計」石田 順子さんのエッセイ
私は、多分、中学生の頃まで腕時計を持っていなかったと思う。高校の入学祝に初めて腕時計を祖母が買ってくれた記憶があるからだ。たしか、6,000円のセイコーの腕時計だった。昭和30年、当時、6,000円は高価だつた。金の卵といわれた中学卒の初任給が6,000円だった。皮のバンドは何回か取り替えたが、私はその時計を大切にしていた。しかし、大学時代の夏、山登りをした時に落としてしまった。山小屋に辿り着いた時に気がついたのだ。自分のうかつさが口惜しくてその夜は眠れなかった。翌日、下山する時、登って来た山道を目を皿にして探したが見つからなかった。その時、同行したボーイフレンドとは間もなく別れた。いわくつきの登山だった。その後も私は数回、腕時計をなくした。料理学校に勤務している時、白衣のポケットに入れたまま洗濯に出して戻ってこなかった。その後、夫からプレゼントされた時計をデパートで落とした。これは手元に戻って来た。この時は本当に嬉しかった。
今、手元にあるセイコーの腕時計は何個目だろう。これは大事な時だけ身につけることにしている。いまだにそそっかしいのが治らないからである。
「思い出の腕時計」三澤 久美子さんのエッセイ
四十年以上も前の事である。私が小学校六年の時母は言った。
「中学に行ったら腕時計買ってあげる」
「え、本当。絶対?」
他に兄と姉がいたが、二人はすでに買ってもらっていた。でも一番下の私には触らせてくれなかった。それほど大切な物だったのである。
中学に入るまでその話は、忘れていた。中学の入学式の前日、腕時計を買ってくれるという話は本当になった。
その時計は今でも覚えている。時計の文字が数字でなくアラビア文字だったので、何と読むか、初めは時計の読み方を知らなかった。
「Yは6、\は9だよ」
と姉は教えてくれた。小学校四、五年まで家には時計がなく、その読み方も二年生位まで知らなかった。
時計のバンドは青色の皮製。巾が5ミリ位だった。エナメルとかでなく普通の皮製だった。毎日ずーっと使っていたので二、三年でバンドが擦り切れてきた。でも親はなかなか新しいバンドと取り替えてくれなかった。本当に腕にはめられなくなるまで我慢した。
今みたいにリューズが自動巻きではないので、毎日十回くらい巻いたそれが楽しかった。
「余り巻きすぎると時計が壊れちゃうよ」
姉は私が時計を巻くのを見ていて時々教えた。
夏は汗をかくせいか、時計の下の手首が白くなり、そこが時計をはめた形に判を押された格好になっていた。
私が就職してから、バンドがチェーンの別の時計に自分で買い換えた
結婚後、なつかしい皮製バンドの時計も実家においたまま片付けられてしまった。
「時計も父から子供の世代へ」砂野 和也さんのエッセイ
私が今、使用している時計は二つ目である。一つ目は高校入学時、両親がプレゼントしてくれた。緑色の文字盤が印象的な時計だった。私がその時計をはめてすぐに、父が椎間板ヘルニアという腰の病気にかかった。それからしばらくしてく、父は内臓の病気も併発するようになった。それから18年、私の時計は父の病の進行状況と呼応するように一秒一秒、時を刻んでいった。そして今から5年前、父が亡くなった時に、私の腕時計も故障してしまった。時計の土台ともいえる表示板が動いてずれてしまうようになったのだ。まるで、父に買ってもらった時計が父の死と重なり合うように故障したことに私は何かの因縁を感じた。私は敢えて修理をしなかった。私自身、父の思い出と共に時計もまた、心の思い出の棚にしまい込むことにして、新しい時計で再出発することにした。そして、私にとって2代目となる時計は、今も私の腕の中で、一秒、一秒時を刻んでいる。まるで腕時計は、私の人生を見ていてくれている気がする。私が時計を外すのは入浴する時だけだ。他の時間はいつも私は、私の時計と対話を繰り返している。散歩をしている時、私は時計に問いかける。「もう、30分歩いたから休憩しようかな」と。時計は答える。「まだ、30分じゃないか。もう、後15分歩いてみたら」と。私は再び力強く歩き出す。私は腕時計とこうして一日中対話を繰り返す。時計は、私にとって時間を教えてくれる道具というだけでなく、人生の伴奏者といっても良いと思う。私が今、つけている時計も決して高価なものではない。しかし、私はこの時計に愛着を感じている。いつも私の人生を、見つめていてくれるからだ。そして私を叱咤激励してくれる。私は最後に時計に感謝の言葉を述べたいと思う。「いつも時間を知らせてくれてありがとう。これからも時々、弱気になる私のことを励ましてください。そしてこれからも私と共に歩んでいって下さい。私の人生を見つめ続けてください。これからもよろしくお願いします」
「大切な想いで」なかだ あきこさんのエッセイ
「毎日午後10時に、この腕時計に話しかけよう・・・」
大学時代に知り合った彼を残し卒業と同時に田舎に帰らなければならない私に彼はそう言うと自分のしていた腕時計をそっと私に手渡した、その腕時計は知り合ったときからずっと彼がしていたものだった
そして私も自分の腕時計を彼に渡し田舎に帰り就職した。
お互い就職したてで忙しく電話で相手を呼び出すこともままならなかった
私は彼との約束どおり10時ちょうどに彼の腕時計に話しかけた
1人腕時計にむかい話しをするのは最初は気恥ずかしい気もしたが
遠く離れた土地で彼も今私の腕時計を見ながら話しているのだと思うと同じ時を過ごしているようで嬉しかった
楽しかったこと、つらかったこと、私は毎日午後10時に腕時計にむかい話していた・・・あの時彼の腕時計は彼の代わりに私の心をしっかり受けとめてくれていた。
あれから20年、朝食を食べ終え身支度をととのえ出勤の準備をする夫が腕時計をしようとする・・・夫は覚えているのだろうか、あの時のことを・・・
お互いあらためてあの時の事を話すことはないけれどきっと覚えているに違いない
今のように携帯電話もない時代、姿も声もなく、でも同じ時刻に語り合ったあの時・・・夫と私の大切な大切な時を刻んだ想いでです。
「おかあさんの願い、おかあさんの祈り。」ゆうさんのエッセイ (11-12月のベストエッセイ)
「僕、おかあさんのお腹の中で暮らすことにするよ」
君が胎内に宿ってから
おかあさんの腕時計は穏やかで優しい時を刻みはじめた「ちく、たく、ちく、たく」。
その頃は、おかあさんの心臓が、君の時計だったろうね「とくん、とくん」。
君はゆっくり、しっかり、確実に大きくなっていった。
そう言えば、時々足でおかあさんをガシガシ蹴ったでしょう。
おかあさんは、あいたた、とお腹をさすりながら、なんだかとても愉快な気持ちだったよ。
そんな長く短く楽しい日々は、とある夜、終焉を迎えた。いや、機が熟したと言い変えよう。
「僕、もうお外に出ることにするよ」
おかあさんの腕時計との真剣なにらめっこが始まった。
なにしろ、時計針の動きがかつてない位、遅いのだ。
たかだか10分が、1時間にも2時間にも感じられる「ちーく、たーく」。
逆に、君の時計は、早回しでうるさかったに違いない「どくっ!どくっ!」。
終わりの見えない夜を乗り越え、朝をやり過ごし、お昼間近に君が産まれた。
産まれてすぐの君を腕の中に抱いた、あの瞬間は今でも鮮やかに甦る。
君の時計はもう聞こえなくなって少し寂しいかもしれないけれど、
そうそう、今、時折君が覗き込むこれは
君が産まれたあの日、おかあさんがずっとにらめっこしていた腕時計なんだよ。
これから歩んでゆく君の時間がすべて幸せなものであって欲しい。
この腕時計を見るたびに、おかあさんは願い、そして祈っている。
「サンタクロースからの贈り物」古賀 ルミさんのエッセイ
子供の頃、私はサンタクロースがいると信じていました。
5歳のイブの日に歯医者に行って、あまりの痛さに泣いてしまったら、その夜私の所にはサンタクロースが来ませんでした。一緒に歯医者に行った友達は泣かなかったので、サンタクロースがプレゼントを持って来てくれたらしく、私は歯医者で泣いてしまった事をものすごく後悔し、泣いてはいけないと思いながら涙をポロポロこぼしていました。
次の年のイブの夜、私は母に言いました。「今日は良い子にしてたでしょう?去年みたいに泣かなかったし、サンタさん来てくれるかなぁ?」
母は、「今日だけ良い子でもダメなんだよ。サンタさんは毎日見てたんだから。さあ、早く寝ないとサンタさん来れないよ。」と言いました。
朝起きると、ベッドの枕もとに吊るしておいた母のストッキングの中に、きれいにラッピングされた小さな箱が入っていました。
私はうれしくて家中を走り回って、「サンタさんが来たよー。プレゼント持って来てくれたよー。」と叫びながら大喜びしました。
開けてみると、ピンクのベルトのシンデレラの腕時計。家族全員持っているのに私だけが持っていなかった腕時計をサンタさんがくれて、しかも、他の誰の物より私のが一番可愛いのです。
すると祖父が、「昨日夜中ドアがガタガタいってたのは、サンタさんが来てたのかなぁ?」
と言い、父も「あれっ、お父さんがトイレにでも行ってるのかと思っていたら、サンタさんだったんだ。」と驚いたように言いました。
私は涙があふれてきて、「なんで、起してくれなかったの?サンタさんに会いたかったのに。」と泣きながら抗議しました。
次の日から、家族全員に「何時に帰ってくるの?ご飯は何時から?何時に寝るの?」と時間に関する質問をするようになりました。
その年、サンタクロースは私に可愛い腕時計と共に、時間の読み方と時間を守るという贈り物をくれたのかもしれません。
「初めての腕時計」西浦 絵理さんのエッセイ
私が初めてうでにした時計はデジタル表示のミッキーマウスの腕時計です。高校入学のお祝いに父が買ってくれたものです。高校へは、毎日休むこともなく通学しました。もちろん腕時計も毎日つけて行きました。これは記憶にのこる限りの父の最初のプレゼントだったと思います。あれから20年がたち、働きざかりの父も今は定年退職して、家におります。あの頃がむしゃらにはたらいていた父は年をとるにつれて、あっちこっち悪くなり今は入院しています。私も親となり、親のありがたみと愛情を感じています。当時この時計を買うのにも、苦労したんだろうおもいます。私もまだ幼い子供達の節目には、いつまでも心に残るものを残してやりたいと思います。そして入院している父も一日でも早く退院して、元気に母とともに、長生きしてほしいものです。
「ふたつの時間」浮穴 千佳さんのエッセイ
半年の間、わたしと彼とは離れて暮らさなくてはならなくなった。
わたしはフランス。彼は日本。時差は八時間。
他人の家に厄介になるわたしに、電話を占有できる自由はなかったから、彼が毎日時間を決めて、電話をかけてきてくれた。
日本が夜で、フランスが午後。
その時間が近づくと、わたしたちは腕時計とにらめっこした。その日どこにいようと何があろうと、『走れメロス』のメロスのように、その時間までには息をきらせて電話機の前に辿り着いた。
わたしたちの腕時計には文字盤がふたつあった。フランスの時間と日本の時間。ふたつの時間を見比べながら、わたしたちは遠くに聞こえるお互いの声に耳を傾けあった。
「今そっち何時?」「お昼の三時。そっちは?」「もう夜の十一時」。
わたしたちは腕時計をのぞきこんで、少し笑う。
「合ってるね」「合ってる」「狂わないよね」「狂わないよ」。
他愛のない言葉を交し合って、引き裂かれるような思いで受話器を置くと、ぷつり、と時間の糸が切れて、別々の時間が流れ始める。
腕時計のふたつの文字盤の短針同士は半回転ずれていて、長針同士の角度はぴったり合っているように、わたしたちの時間も、午後と夜とに半回転ずれたまま、心だけぴったりと寄り添う。
ふたつの短針を半回転ずらせたままで、いくつもの夜といくつもの昼を、ふたつの腕時計は忠実に刻んだ。
半年が過ぎた。季節も半回転した。
腕時計の文字盤は、もう、ひとつだけでいい。
ふたつの時間はやっと今ひとつになって、わたしたちの手首の上で、そろって時を刻み続けている。
「時計」石野 廣子さんのエッセイ
私が自分専用の時計を持ったのは、昭和三十一年のことでした。父が高校の入学祝いに買ってくれたのです。丸型で赤い革バンドのゼンマイ式の時計で、リューズを一日一回巻かなければいけませんでした。買ってもらったその夜は、うれしくて布団の中まで持ち込んで、小さな時計が時を刻む音をいつまでも聞いていました。
その時計は遅れがちで、時計屋に持って行っては合わせてもらうのですが、正確には動きませんでした。就職してからも、何度も部品を取り替えたりして大切に使いました。
次に持った時計は、就職して数年経った頃にやはり父がくれたものです。俗称なのでしょう、当時は「南京虫」と呼ばれていた小型の時計でした。スイス製で14金のおしゃれな時計でした。職場にして行くと、「おっ!すごいのしているね。」とか「見せて。」とか言われ、自慢の時計でした。今思うと、若い娘には不似合いだったのかも知れません。
自分自身で時計を買い求めたのは、結婚してからです。その頃流行していた「ドレスウォッチ」という模造ダイヤの付いた小型のものでした。
最近は安価なものでも正確で、昔のようにリューズを巻き忘れて止まってしまうこともなく、機能も多種に分かれ、人それぞれに用途に合わせて使い分けることができます。
私は老眼になり、昔愛用した小型時計とはサヨナラして、もっぱら文字盤の大きい見やすい時計をする実用派になりました。最近はどこへ行っても時計があって、特に持って出るのを忘れても不便はありません。でも、外出するときはやはり腕には時計がないと、なにか腕がさびしい気がするのです。
「腕時計の思い出」増田 さささんのエッセイ
「ちょっと距離を置かない?」なかなか言えない一言である。今日こそ言うぞ!と気合を入れて挑んだデートの日。彼は私の気持ちに全く気付いていない様子だ。毒のない笑顔を見ると、今日も無理そう。あれこれ考えていたら、金魚のフンのように付いていた彼がいなくなっていた。
また、迷子になったのかしら…彼は人がごった返しているような場所ですく迷子になってしまう。今時珍しく携帯電話を持っていない彼を探すのは、結構一苦労だ。立ち寄ったお店を順番に戻っていくと、ファンシーショップの入り口付近で彼を発見した。彼は回転什器にぶら下がっている千円均一の腕時計を眺めていた。私を見つけると、母親を見つけた子供みたいにニッコリ微笑んだ。
「ブンちゃん、この腕時計欲しい」
彼は明るい緑色のシンプルな腕時計を指差した。私は返事もしないで、彼の欲しがっている腕時計を手に取り、レジに向かった。ごくたまに「おねだり」をする事がある。大抵の物は何でこんな物が欲しいの?と思うような安物ばかりだ。
会計を済ませて、回転什器をくるくる回している彼に腕時計を渡すと、嬉しそうにすぐに腕に付けた。彼の腕時計をしている手を初めて見た。
「ねぇ、似合う?」自分で買った訳でもないのに、得意げに見せびらかす。
「似合わない…」私の言い方が冷たかったのか、彼は黙ってしまった。無言のまま、駅に向かう。彼は腕時計を何度も何度も見ていた。
「ブンちゃん、離れようか」
「えっ?」彼の言葉より、今まで聞いた事のない彼の声にびっくりした。顔を覗き込むと、声と同じ様に顔つきもいつものような無邪気さがなかった。
「ブンちゃんの事好きだから、しらんぷりしてたけど」彼は全てわかっていたのだ。あんなに別れたいと思ったのに、急に涙が溢れてきた。
「今日のこれ、ブンちゃんの代わるにするよ」彼は地下鉄の階段を足早に降りて行った。
あれから三年経つけれど、緑色の腕時計をしている手を見つけるとドキドキしてしまう。
まだ、私の代わりにしているでしょうか?
「17年間ありがとう」山下 活子さんのエッセイ
初めての冬のボーナスで時計を買った。それは7万円くらいのもので、20年前の私にとっては思い切った買い物だった。
それから17年間、私はその時計を大切に大切に扱ってきた。その時計はいつのころからか、私にとってお守りのようになっていた。電池は何度も交換した。途中でベルトの修理もした。動かなくなって分解修理に出したこともある。 安い時計を気楽に買える時代になっていたが、私にとっては、その時計は何物にも代え難い存在になっていた。
ところが、その時計をなくしてしまったのである。それは旅行中のことだった。はじめは「すぐに出てくるさ。」と軽く考えていた。部屋の中か、荷物の中にあるはずなのだから。
ところが見つからない。だんだん必死になった。夫も子どもも私がその時計を大切にしているのを知っているので、一緒に探してくれた。が、結局見つからず、チェックアウトするとき事情を話し、もし見つかったら連絡して欲しいと伝え、ホテルを後にした。しかし、ホテルから連絡が入ることはなかった。
17年間使ったのだから、十分に元は取っている。でも何か大きな忘れ物をしたようで、なかなか思い切ることができなかった。
教員をしていた私にとって、時計は必需品で、授業の開始、終了、ちょっとした作業の区切り、いつもその時計は私を見守ってくれていた。新米教師で何もできず泣きそうなときから、17年間ずっと。
しばらくして夫と時計を買いに行った。結婚10周年だったのでそれも記念して、ペアでそろえた。
偶然にも時計をなくした年に私は17年間続けた仕事を辞めることになった。そして新しい時計とともに新しい生活を始めた。
「初めての腕時計」中西 英明さんのエッセイ
今でこそ値段も安く、小学生が腕時計を持っていても珍しくない時代になりましたが、昔は腕時計といえば、それはそれは大人の象徴だったのです。30年も前、まだ私が小学生だった頃、3つ違いの兄が中学生になり、父に腕時計を買ってもらいました。我が家はなぜか中学生になったお祝いは腕時計と決まっていたようです。何かにつけて兄の真似ばかりしていた私は、その腕時計がうらやましくてうらやましくてたまりませんでした。ちょっとでいいからはめさせて欲しいと何度も頼みましたが、兄が決して貸してはくれませんでした。数ヶ月して夏になり家族で海へ行きました。兄の腕には腕時計。誇らしげに光って見えました。宿についてしばらくして、何故かとても機嫌がよかったのでしょうか、決して貸してくれなかった腕時計を兄が貸してくれました。うれしくてうれしくて早速はめてみなすと、何だか左腕が重くなったようでした。何をするにも殊更左腕を意識して、急に大人になった気分。用もないのに部屋を出て誰かに気づいて欲しくてうろうろ。大げさに腕を振り上げ時間を見たり。心が沸き立ったのを覚えています。それから3年。いよいよ私も中学生になり、腕時計を買ってもらう日がやってきました。父に連れられ行った先は、後で知った安売りの店。ずらりと並んだショーケースの中の腕時計たち。目もくらむばかりに輝いています。ふちが金だったり銀だったり、文字盤が白かったり青かったり緑だったり、ガラスが平面のものダイヤモンドみたいにカットされているもの、ベルトだっていろいろ。ワクワクしてなかなか決まりません。そのときは夢中で分かりませんでしたが、父に早くしろなどとは言われなかったような気がします。じっと待っていてくれたような気がします。散々迷ってやっと決めたのは銀のフレームで金属のベルト、文字盤は青で平面ガラス。文字盤の3のところに日付がでるやつ。自動巻きでした。お店でベルトの長さを調節してもらうために左腕を差し出したときは、とてもドキドキしました。うれしかったです。実際に腕時計を必要とする生活は、高校生になって電車通学をするようになったからのこと。中学時代の3年間は腕時計をする機会などほとんどなかったのですが、中学生になり父に連れられ腕時計を買いに行くことは、大人になる儀式のようなものだったのです。我が家の元服ってとこでしょうか。
「大人の時計」福田 了子さんのエッセイ
小学校2年生。ある日突然、父が腕時計を買ってきてくれた。たまたま入った店で、いいものを見つけたから。そう笑って差し出された箱。厳格な父。小さい頃は、怒ってばかりだったような気がする。だからこそ、時計よりも、父の機嫌がよかったことのほうが嬉しかった覚えがある。
当時の私がつけるには少し大人っぽいもののように思えた。むちむちとした子供の腕に、その時計は少し不似合いだったが、それをつけている私を見ると、父は嬉しそうに笑っていた。
「一生つけられるようなものを選んだんだ」
しかし、電池が切れたことをきっかけに、その時計をつけなくなった。かわりに、流行のシルバーのブレスレット風の腕時計をつけるようになった。そして、大学に入ってからは、腕時計さえつけなくなった。少し年をとった父が寂しそうに言う。
「あの買ってやった時計、本当は気に入らなかったんじゃないのか?」
あの頃は似合わなかった腕時計。20歳になって、ようやく似合うようになったよ、お父さん。
「同じ時間」おかさんのエッセイ
「27歳お誕生日おめでとう」
渡された箱の中身は、腕時計だった。
知り合って2年。初めて会った時から、すでに知っていたかのように気があった。日々、感じたことを話すたび、この人に話して良かったと思えた。感性がとても似ていた。
でも、彼とは恋人になりそうで、ならなかった。私にとって彼は、本当に信頼出来る兄のような存在だった。
「こんな高価なもの、受け取れないよ」
腕時計を返した。
出会って間もなく、彼に告白されたことがある。その頃私は、異性として見るより、この良い距離を保っていたかった。友達という関係を選択し、彼も納得してくれていた。
返した腕時計を見ながら、彼は続けた。
「こっちに転勤してきて、1年目はすごく寂しかったんだ。本音の言える人が近くにいなくて、孤独だった。でも、きみと知り合ってからの2年間は本当に楽しかった。地方に来て良かった、と思えたよ。一緒にいた時間を忘れたくない。最後に、大切な人に頑張って時計を贈ったという思い出を作りたい」
彼は翌月、東京への転勤が決まっていた。
このまま友達では、いられないの?どうして、そんなこと言うの?
この時計を置いて、私から去ってしまうつもりだ。友達だと思っていたのは私だけだったのだろうか。
もしかしたら、ずっと彼を傷つけてきたのかもしれない。
それは私の自惚れか、、、。わからない。自問自答。
ただ現実的に、私は、「私のそばから離れないで」とは言えなかった。
「同じ時間、大切な言葉、思い出をありがとう」
私は腕時計を受け取った。
あれから3年。
大切な思い出を軸に、新しい思い出をきざみながら、あの腕時計は今も正確に動いている。
「僕のアヴェニュー」嶋田 勝匡さんのエッセイ
僕が初めて時計をもったのは、高校に入学したときだった。
セイコー・アヴェニュー、両親に買ってもらったものだ。
以来12年間、僕の生活を見守ってくれている。
つらいときも、楽しいときも、僕の12年間をすべて知っている。
好きな子に告白してふられたとき、大学受験に合格したとき。みんな知っている。
だから、アヴェニューにはウソをつけない。全部お見とうしなのだ。自分や他人にウソはつけても、なぜかうしろめたい。
ところが最近、そんなアヴェニューがだんだん調子悪くなってきた。 電池の切れる期間が短くなってきたのだ。
ここぞというときに切れてしまい、はらはらすることもしばしばだ。さびしいけど、もうそろそろ寿命なのかなとも思える。
しかし最期の日まで、アヴェニューを腕からはずすことはないだろう。
すでにからだの一部のような気がするし、水や空気のような存在かもしれない。
僕にはとっては、ロレックスやオメガより価値ある時計だと思うこの頃である。
「私が腕時計を持たないわけ」宮崎 泰代さんのエッセイ
私は今腕時計を持っていない。社会人失格と言われるかもしれないが、時間のチェックは携帯ですませている。よく、腕時計との関係はその人の恋人との関係と似ていると言われるが、本当かもしれない。よっぽど気に入ったものがなければ、無理してつけるのはいやなのだ。腕時計というのは何か特別な感じがある。
3年前会社を退職し、友達とインドに旅行した。もちろん腕時計も持っていった。それは母が若い頃使っていた時計で、もともとアンティークが好きなので、そのクラシカルな文字盤やseikoの表記がとても気に入っていた。また、母から譲り受けたものということもなんとなく誇らしく、ぼろぼろになったベルトを自分で黒のリボンにつけ変えたりして大切にしていた。少し遅れるところに愛着さえ感じるほどで、ずっとこの時計を使おうと思っていた。
けれど暑くてほこりっぽいインドでは腕のリボンは不愉快で、また日本にいる時と違って時間に追われずのんびり過ごしていたので、旅行中だんだんと時計をはずしている時間が多くなっていった。移動中はリュックのポケットに入れていた。インドということでリュックやバッグにもカギをつけて気をつけていたのだが、ポケットまでは気が回らなかった。そしてある日ポケットに入れていたはずの時計がなくなっていたのだ。旅行で得たものも色々あったが、あの時計はあまりにも大きな代償だった。
私が次に腕時計をするのはいつになるだろうか?恋人ができるのとどちらが先か、自分自身気になるところである。
「おまもり」五十嵐 里香さんのエッセイ (11-12月のベストエッセイ)
私が嫁いだ家は、男の兄弟ばかりで女の子のいない家でした。義母は、女の子が欲しくて仕方なかったのですが、授かることができなかったもので、嫁の私を“私の娘”“私の宝物”と大切にしてくれました。私も、底抜けに明るくて優しい義母が好きでした。
そんな義母にも、困ったことがひとつだけありました。それは、義母が買ってくれる様々な物たちでした。母にとって私は、“かわいい娘”なので、買ってくれる物がどれもかわい過ぎるのです。くまさん形のお財布、フリフリのリボン、うさぎ模様のハンカチなど、どれも小学生の女の子向きと言ったところ。でも、義母があまりうれしそうに買ってきてくれるので、「私にはちょっと・・・」とは言えず、かと言って持って歩くこともできず、本当に困りました。
主人と私が離婚をした後も、義母は以前と変わらず私をかわいがってくれました。月に何度か会っては、食事をしたり、お茶を飲んでおしゃべりをしたり、別れた主人には内緒で、二人で楽しい時間を過ごしていました。
「何があってもあなたは私の娘!私がちゃんと守ってあげるからね!」
それが義母の口癖でした。
そうして迎えた私の29歳の誕生日。義母は腕時計をプレゼントしてくれました。くま柄でもなく、お花形でもなく、私の名前と誕生石のオパールが文字盤に入った落ち着いた雰囲気の時計でした。
義母は言いました。
「この腕時計はね、お守りだよ。ほら!してごらん!」
義母に促され、私はその腕時計をしてみました。それを見て義母は、
「ね!よく似合うでしょう?あなたももう大人だものね。」
と、まるで私の気持ちを知っていたかの様に、いたずらっぽい顔で笑いました。
それから10年。今も、義母の腕時計は、私の腕にあります。そして天国へ行ってしまった義母の代わりに、私を守ってくれています。
「ビ ン ・ カ ン」畠山 恵美さんのエッセイ
贈り物されることが、とても苦手だ。まだ、同性からのは何とか心に納得させるが、異性からは、1個のお饅頭であろうとお断りしている。それが、恋人であろうと、もうきっぱりと。想いが、形になるって、イヤなんだ。
でも一度だけ、腕時計を『するり』と受け取ったことがある。それは、何の記念日でも誕生日でもない日だった。私の仕事用の腕時計の皮バンドは、かなりヨタヨタしていた。
時計が安くなったと言っても、本当にしっかりした時計は、それなりにする。最低でも万円単位になる。通常なら「返品してきてチョーダイッ!」と絶叫していたとこである。
「手首細いから。サイズはやっぱ、ゆるいなあ。一緒に直しに行こう」。彼は、笑った。私も笑った。笑いながら、私の左腕に、しっかり収まっていた。誇らしい宝物。
三〇歳を過ぎた恋だった。二人とも高校生のように、お互いを気遣っていた。時計のサイズを直しに行く道々、初めて手をつないで歩いた。すべてが、新鮮な恋だった。
時計専門店のそこには、世界中の時計が集まっているかのくらい、様々な時計があった。「本当は、このドレッシーなのにしようと思ったんだけどさ」。おっと、30万円ではないか。買ってもらった時計の売り場へと到着。見ないようにして、でも。5万円だった・・・30万円のが、よかったなあ。5万円でも、充分高い。だけど、どういう心境の変化か、私は普通の女の子感覚になっていた。私にも、欲というのがあったのだと、思った。
「あなたは金属アレルギーでしょう。だから、チタンにしたんだ」。付き合い始めた時に、何げなく言った一言を、彼が覚えていてくれたこと。それが、嬉しかった。だから。
私たちの時は、いつしか流れの向きが真逆になった。もう会わないのだろう。けれど、あの時計は、再び呼び合う時を待って、眠り続けている。遅い青春の証拠、よ。
「ち ち」畠山 恵美さんのエッセイ
父が、この世に本当にいないんだと気が付いたのは、一周忌を過ぎたころだった。どうして1年も、父の不在を実感できなかったのか。「お父さん、今死んだから」と会社に電話がかかってきた瞬間に、私の中の何かもまた、止まってしまったのだった。
「俺が死んでも、お前には何も残さない」が口癖だった父は、実にみごとに、何も残さなかった。保険金は生前満期になっていたし、経営していた会社は、多額の負債にて倒産していたし。それでも一周忌が終わって、私の手元には、1万円残った。これを財産の範疇にするのは、難しい問題だが。
そんな中、ひょっこりと、唯一父に買ってもらった腕時計が出てきた。高校に入学する際に、父があわてて買ってきた腕時計だった。 どれだけあわてていたかというと、箱はO社、説明書と保証書がS社で、時計はC社。サイズも当然あってない。左手首でクルクル回る。「乱暴なお前には、ゆるいくらいがちょうどいい。丈夫だから、大丈夫だ」。
女子高だったから、みんなと同じような女の子らしい腕時計にあこがれもあった。でも、私は3年間、一日もかかさずその時計と一緒に女子高での時間を過ごした。うれしい時も悲しい時も、いつも一緒だった。
「お父さんの生きている時間は、もう動かない。でも、お父さんの時計は、まだまだ生き続ける」。ずうっと使ってなかった。放置していた。でも、丈夫で頑丈な時計。
とびきり古い時計店にしか、その時計を再び動かす電池はなく、通常より高かった。
私はそこで、躊躇なく最後の1万円を使った。
「何も残さないって言ったけど、ちゃんと残してもらいましたから。お父さん、これからもずっと一緒です、強制的に」。父の時が、私の腕の上で、また動き始めた。
<翌年、私は、乳がんの放射線治療を受けた。孤独な放射線室の中で、私を励まし続けたのは、まぎれもなく父の時計だった>。
「腕時計が再び動き始める」本多 志行さんのエッセイ
私の持っている時計は一つだけだ。しかも、壊れた懐中時計。
左腕に痺れがあるので、腕時計はしない主義だ。
右手にはめればいいのだろうけど、右腕は利き手なので
邪魔になる。
なので、懐中時計派だ。
もちろん、腕時計を買ったことはある。でも、ポケットに
しまわれ、腕に巻かれることはなかった。
昔は懐中時計など売っていないので、あるいは売っていても
本格的で高価だったので買えなかった。
ある時期から、レトロブームなのか懐中時計の安いものが
出回るようになった。
壊れた懐中時計はその時期に買ったものだ。
しかし、懐中時計はやはり不便で、何度も何度も落としてしまい
壊れてしまった。
その残骸は今でも大切にしまってある。
自分を戒めるために・・・
それ以来、時計は買っていない。
でも、世の中は便利なものだ。
時計機能を持った、携帯電話というものが普及してしまった。
腕時計の存在意義が薄れた。
そんな折、私が腕時計を手にする雰囲気が高まってきた。
「クリスマスプレゼントは時計にしよう」
彼女がそのようなことを言っていたのだ。
嬉しそうな彼女の顔を見ると、「腕時計ははめないよ」とは
言いにくい。
しかも、もらってしまったら、はめないわけにもいかない。
時計屋さんも罪なことをする。
世の中には付加価値というものがある。
時計は「時を計る」という機能だけではないのだ。
アクセサリ、プレゼント、ステータス・・・
さてさて、私の中で止まっていた「腕時計」は再び
動き出すのでしょうか・・・
「腕時計がほしい」atsukoさんのエッセイ
子供の頃、友達が次々に腕時計を買ってもらった時期があった。しかし「人が持ってるからと言って必要ない」と、どんなに私が欲しがっても、両親は買ってはくれなかった。
2年生のクリスマス、終業式でもあったその日、学校で「プレゼントに何を貰ったか」を言い合うことになった。私が欲しかったものは当然、他ならぬ腕時計。私のプレゼントはそれではなかった。が、順番が自分に廻って来た時、私は説明のつかない異常心理にかられて言った。
「私、腕時計貰ってん」
「へぇー、良かったやん!」日頃から私が腕時計を欲しがっていたことを知る友達から、歓声が上がった。
「どんな時計貰ったん!?」
私は架空の腕時計の特徴を細かく説明した。何色で、何のキャラクターで、文字盤の大きさはこのくらいで・・。一通り話したところで、家が近所の一人の子が言った。
「見せて」
さあ、大変なことになった。そんな腕時計、うちにはないのだ。どうしよう。
帰宅して、私は泣いた。母に一切を説明し、泣きに泣いた。「嘘ついちゃった、って、謝るしかないね」と母はやさしく言った。
それから4年後、6年生のクリスマス。電器店で腕時計がずらりと吊るされた、くるくると廻る棚の前に立った時の胸のときめき。いくつかの中から、好きなのを選んでいいと言ってくれた父の言葉。ドキドキして(どれにしよう)と迷ったあのときの感動が、脳裏に甦ってくる。
そうして手にした、おしゃれキャットのピンク色の腕時計。何年も思い続け、やっと手に入れた私の腕時計。
この話をすると、母は「そんなことあったっけ?」と言う。父はもういない。でも大切なその時計は、宝物として、思い出とともに今も存在し続けている。
「初めての腕時計」高田 あおいさんのエッセイ
高校の入学祝に、寝たきりの祖父が買ってくれた腕時計。それが私と腕時計との初めての出会いでした。時計店のショーケースの中で静かに誰かとの出会いを待っていた厚さ1センチ近くもあるアナログの手巻きの腕時計。文字盤が薄きみどり色で角の取れた正方形の形をしていました。今風の軽い時計と違い、左手首にどっしりとした重みがありました。大学で実家を離れる時も就職が決まった時も更に結婚が決まった時もずっと一緒でした。軽くて薄い腕時計が流行している時もバンドをブレスレット感覚のものに替えただけで、ずっと大切な宝物でした。なぜならそれはあっという間に祖父の形見に変わってしまったからなのです。時計を買ってもらった一年後、最愛の祖父が他界してしまったのです。それはまるで自分の死期が近づいていると感じた祖父が「天国でずっと私を見守っていてやるよ」というメッセージと一緒に買ってくれたように思われてならないのです。
結婚してからは子育てに追われ、その間腕時計は外していました。そして、今では薄くて軽い腕時計に替えてしまいました。けれど、主人の買ってくれたどんな宝石よりも心のなかでの一番の宝物はおじいちゃんの腕時計なのです。でも、このことは主人には内緒です。
「南京虫」高田 京子さんのエッセイ
「これ、あんたもお婆ちゃんの形見わけが欲しいと思って。」
久しぶりに帰った郷里の墓参りに向う車内で叔母から腕時計を手渡された。
昔「おでかけ」の際、いつも祖母の腕に光っていた南京虫である。当時、愛用された婦人用腕時計である。
祖母と別れたのは十歳の時。移り住んだ東京から、生まれ故郷九州を遠く離れ北海道の大学に進んだ。祖母から私の身を案じ巻紙で学生寮に便りが送られてきたのだが古めかしく、寮生に読んでと言われ恥ずかしかったのを思い出す。
祖母は着崩れせぬからと人力車を愛用した。私もねだって同乗し、二人の膝にかけられたケットの上で祖母の手は幼い私の手に重ねられていた。
あの時の和服の袖口に良く似合う小さく控えめな腕時計が、四十年の時を経て私の掌にあった。
大学を出てから働きつづけた私には大きく数字がはっきり見える秒針つきの腕時計が必需品だった。仕事の合間を見つけてのたった一泊の墓参りにも手の甲に文字盤を向け時刻を確かめながら飛んできた。
自分の時計をはずし、祖母がしていたように手首の内側に文字盤を向けつけてみた。手首を反らし見つめていたら、まだ針が動いているのに気がついた。明日、空港につくまではこの針の動きと一緒に過ごしてみよう。
祖母を思い出すとともに巻紙の便りにあった言葉を思い出した。
・・・何卒、御身お大切に日々お送りくだされたく候。わが身に代えてお守りいたすべく祈りおり候。
祖母の墓前で張り詰めていた糸が切れたように私は涙が止まらなかった。
「指定席」村田 謙一郎さんのエッセイ
大学を卒業し、社会人になった頃に買った腕時計。特別どうということなく、値段も5千円ぐらいだったが、その軽さとフィット感が気に入り、どこへ行くにも身に付けていた。
数年後、草野球をしていて思いっきりバットをスイングすると、なぜかボールと一緒に時計も飛んでいった。バンドが切れたのだ。
新しいバンドに変えてしばらく付けていたが、なんとなくしっくりこない。以前のような心地いいフィット感がないのだ。何度かバンドの種類を変えて試したが同じだった。そこで僕は思い切ってバンドを外して、時計の部分だけをズボンのポケットに入れて持ち運ぶようにした。
最初はなんだか腕に時計がないのが落ち着かず、腕に目をやり「そうだった」とあらためてポケットから時計を取り出すことも幾度もあった。しかし慣れてくると、バンドを外されたまん丸の時計が妙にかわいらしく感じられ、ポケットから取り出すという行為にも、まるでハムスターやリスを胸ポケットから出すような感覚を覚えるようになった。人から「いま何時?」と聞かれ、ポケットから時計を出すのも最初は照れくさかったが、次第にそのシチュエーションを楽しめるようになっていた。
そんな関係が続いた数年後、たまたま立ち寄った時計店で、僕はある腕時計にひとめ惚れし、その場で買い求めた。
それからしばらくして、あのまん丸の時計は姿を消した。なくした覚えはないのに、どこを探しても時計は出てこなかった。
以来、僕は幾つかの腕時計を買い、腕にはめている。文字通り腕時計を腕時計として使っている。今でも時々、時間を確認するのに無意識にズボンのポケットを探っている時がある。そして、そこにあの丸い感触がないのに気づき、寂しさを感じる。僕はもう、ポケットに腕時計を入れることは二度とないだろう。そこは“あいつ”の指定席だから。
「受験日・会場の机上にて」甲斐 伊織さんのエッセイ
手からの冷や汗が冷たい机を濡らす。志望校の受験日。そして一番苦手な数学の時間。一年生の時から行きたかった憧れの高校だ。絶対に合格したかった。そのために沢山勉強した。何日も何日もこの日を待っていた。しかし数学、わからない難問続出。焦りは顕著にでてくる。まずいまずいまずい。頭の中で考えることより焦ることが先行し、冷や汗は止めどなく流れる。不意に襲ってくる絶望感。だめか・・憧れ断絶の瞬間である。
ふと手元に置かれた腕時計を見た。本当に無意識の中の行動である。受験期いつも共にいた腕時計を。会場には受験期を共にした先生も友達も好きな女の子も連れていけない。お守りも机上にはおいてはいけない。堂々と、机上にいられるのはこの時計だけとなる。こちこちこちこち冷然と正確に。それでいて「諦めるな」と毅然と叱ってくる。矛盾してる奴だ。味方と想わせておいて、急に突き放す。すがるような目で見ても決して時を止めてはくれない。こいつは確か今はもう去ってしまった彼女からの頂き物だった。まったく、この時計の性格は元の彼女にそっくりである。どこでもいつも一緒だった。そこも一緒。しかし、やっぱり机の上に女の子は置けない。机上の唯一の味方、腕時計。こいつに何度励まされ何度こいつの示す時間に翻弄されてきたか・・懐かしさと思い出とを織り交ぜて腕時計を「眺めている」とこいつの様々な性格が正確に伝わってくる。そうして時計はいつになく厳しく伝える。「あたしを見てないで、頑張ってみなよ。そばにいてやってんだから。残り時間は・・」と。その想いは心の中にずっしりと。いつも一緒にいた友達に励まされているのである。絶望感は遠くへ飛び、そしてまた私は意識の世界へと戻る。俺は一人じゃないんだぜ!そう想うと、絶望なんて語は全く浮かばない。そしてまた難問数学に立ち向かっていたのである。時間はあと20分。冷や汗は、もうでない。
「私の腕時計物語」後藤 純夫さんのエッセイ
昭和三十年代、日本がまだ貧しい時代。父が病気で職を辞し、我が家は経済的に世間の平均よりつましい生活をしていた。母の内職のお蔭でやっと入れた高校で友の大部分は、腕時計を持っていた。母が、「腕時計買ってやれなくてゴメンな」という。「勉強に関係ないから要らない」と私。けれどとっても欲しかった腕時計。高校三年生になって、初めて持った腕時計は、兄が時代劇映画の足軽役のエキストラをしてフウフウ走って買ってくれた。友に遅れること二年だったが、嬉しくて嬉しくて。バスや電車の通学で決して座らず、つり革の左腕を動かせて、腕時計をちらつかせた。出来るものなら、習ったばかりの英語で、”ジス イズ マイ リストウオッチ”と叫びたかった腕時計。母が、買ってやりたくても買えないで、そっと涙をぬぐった腕時計。高校時代、自分が持てなかったのに、弟の為に初めてのアルバイトで稼いだお金で買ってくれた腕時計。今、ネコもシャクシモ当り前のように皆んな持ってる腕時計なのに、あの頃はとても高価で贅沢品だった。どの時計も同じように時を刻んでいるように思えるけれど、たまらなく哀しい響きを刻んだ時期もある。今、十九年前に亡くなった母を思い浮かべている。
「あの時を知らされて」奥村 敏弘さんのエッセイ
はじめてもらった雇用保険で買ったのは、時計だった。そのダイバーウオッチは、電池がきれて動かないまま、引出しにしまってある。上ベルトに近い部分は錆が浮き出し、六時五十分をさしたままだ。
時計を買おうと思ったのは、雇用保険の説明会に行ったときだった。北区のハローワークのエレベーターで、定員オーバーのブザーがなるまでいっぱいに乗った人たちと、入る場所は一緒。それは縦に長い部屋で、壁の等間隔に柱が凸凹をつくり、ホコリに薄く茶に染まっていた。説明会の会場だった。説明なんぞは、聞えてこなかった。ただ埋め尽くす人に、飲まれていた。どうなるんだろうと思った。
説明会が終わって、いちはやく部屋から出た。逃げ出したいのだった。それを偽るように、就職先を探さねば、と思った。頭に浮かんだのは、形だった。大学入学のときに着たきりのスーツはあった。が、時計はなかった。まずは時計か。
こうして逃げ出す場所を具体的にして、ずるずると求職生活をはじめたのだった。
この時計を選ぶとき、一時間ばかりも店にいただろうか、なかなか決められなかった。これにしよう。いやまて、ともう一人の自分。見にくいだの、重そうだの、いろんな理由をつけて、ショーケースの前で屈んでは立ちした。求職活動が怖かったのだ。この時時計は、失職と求職とを知らせていたのだった。
それから何度も就職の面接に行った。そのダイバーウォッチを左腕にしながら。時間に間に合うかどうか袖をまくりあげ、面接が終わって意味なく見つめ。時計はいつもなにも言わず、ただぶっきらぼうに時間を告げるだけだった。毎週同じことを繰り返し、同じようにまた面接へ。いつまでも終わらない、出口ない場所に迷いこんだような気がしていた。
アルバイトだったが、仕事をはじめるようになった。当然のように時計をしなくなった。携帯電話を持ちはじめて、それが時計がわりになったのだった。ひきだしにしまったままの時計をたまに見つめる。まだ動いてるわ。それは終わりを確認するためだったか。幾度か転職するうち、時計のことじたい忘れていた。
あるとき、ふとひきだしをあけて、時計がとまっていることに気づいた。なんの感傷も浮かんではこなかった。必要のなくなった道具に、気持ちのもちようがなかったのだ。
いま手にとって眺めてみる。汗を吸ったベルトはたわみを見せる。傷のいったガラス面は指紋でくもって。
今度、動かしてみよう。投げやりでない時を刻むことができるだろうか。この時計と相談しながら。
「銀婚式と腕時計」宮野 史朗さんのエッセイ
私には高校時代からだから30年来付き合っている友人がいる。社会人になってまもなくして私は彼の結婚披露宴の司会をつとめた。場所は横浜港に面した由緒あるホテル。そこであまり由緒正しいとはいえない二人の盛大な披露宴は執り行われたのである。数日後、私のもとに小さな贈り物が届けられた。司会の大任を果たした私への彼の両親からのお礼の品。クオーツの腕時計だった。私は高校入学時に両親からもらった自動巻きの腕時計を使い続けていたが、その日から私の左手首には皮製ベルトのクオーツ腕時計が飾られるようになったのである。あれから二十数年、消耗品である電池やバンドを何度となく交換した。すでに時計そのものの価格を超える額を電池やバンドに投じたことになろう。2、3年前、勤め先の近くにあった小さな時計屋さんで電池を交換してもらったときのことだ。応対してくれた店主と思える老人は80歳を過ぎていたに違いない。早速作業にとりかかったのだが、なかなか裏ブタが開かない。歳のせいか視力の衰えもあるだろう。私がかわりましょうかといいたいほど細かい作業はきつそうにみえた。ようやく裏ぶたが開き精密な内部が露出されると「いい時計ですねえ。今はこんなの作らないですよ。大事にしてくださいね」目を細めて精密な内部を覗き込みながら店主はうれしそうにいった。今でもその時計は私の左手首にまかれている。彼の両親にいただいてからすぐに、会社のタイプライターの角にぶつけてつけてしまった傷が表面にあるものの、いまだに正確に時を刻み続けている。腕時計は元気だが、独り身になってしまった彼には最近元気がない。2年前突然奥さんが亡くなったのである。奥さんが元気ならば来年二人は銀婚式をむかえるはずだったのに。
「引き継ぐ想い」加藤 和子さんのエッセイ
三十数年前成人の御祝に父に買ってもらったアーモンド型のねじ巻き時計。
今それは娘の腕にある。
成人式前日大切な行事の時に着る大島の着物に着替えた明治生まれの父は私に「お出掛けの服を着てきなさい!」と命令した。連れて行かれた先は時計屋さん。そこで父は婦人用の時計を片端から私の腕に着けていった。
小一時間もたっただろうか、「よしこれだ!」と満足げに買い求めたものである。
いつしか忘れ去られ鏡台の引き出しに入っていたのを見つけてつけていた娘。
門限は6時半、一分でも過ぎると玄関に仁王立ちに立っていた父。何度時計を見ながら走ったことか。
「幸せになるんだよ」と目に一杯の涙を浮かべながら精一杯の笑顔で送り出してくれた父。
孫娘を見ずにあの世に旅立った父の思いを今娘の腕にある時計をみて想う。
厳しさと優しさをあわせもった明治の男。幾度となくかり出された戦地。終戦後は家族の為に働きずく目だった父。自分の望んだ人生をはたして歩んできたのだろうか。
時折出してきてはねじを巻いている娘の背中に心の中で声をかけた。
貴方は貴方自身が望む素敵な時を刻んで、と。
「左手首の主張。」えりこっこさんのエッセイ
小学校のときから仲の良かったさとちゃん。
別々の高校に進んでからはなかなか会う機会もなかったけれど、
彼女の誕生日の少しあと、冬のある日、下校途中に偶然一緒になって、
自転車を停めて長々とおしゃべりをした。
ふと、さとちゃんがとても素敵な腕時計をしているのに気づいた。
細い茶色のベルト、木目調の文字盤、金色の針。
夕方の景色のなかで、それは本当にきれいに見えた。
それを伝えると、さとちゃんは嬉しそうに彼にもらったのだと答えた。
彼女の恋が、少しつらい始まりだったことは聞いていた。
その時期を乗り越えて、彼女は意思の強い顔で微笑んでいる。
わたしは出口の見えかけている自分の片想いを思い、
わたしもいつか大好きな人から素敵な腕時計をもらおうと決めた。
それから2年間の高校生活。
さとちゃんの左手首では素敵な時計が時間を刻みつづけ
(わたしの知らないところで修理に出したかもしれない)、
わたしの恋は最後に壊れることになる。
高校を卒業してしばらくしたころ、駅でさとちゃんに会った。
カジュアルな服装に品を添えるような、銀色のブレスウォッチ。
わたしの心配はもちろんのこと杞憂で、
新しい時計をもらったのだと彼女は余裕の笑顔で言った。
最初の腕時計を見せてもらってからもうすぐ10年。
わたしの左手首には自分で買った腕時計がある。
自分で選んで自分で買う。10年間でそんな喜びも知った。
それでも、いつか誰かがセンスのいい華奢な腕時計を
贈ってくれないかと、冬が近づくと夢見てしまうのだ。
わたしは1年遅れて大学に入って地元を離れ、
それ以来彼女には会っていない。
いまごろどうしているだろう。
何代目かの時計が彼女に時間を教えているだろうか。
それとも別の人と別の時間を歩いているだろうか。
どちらなのかはわからないけれど、
あの2つの時計が今も彼女の宝物でありますように。
「平和ボケ?」中村 陽子さんのエッセイ
同時多発テロの恐怖が消えないままの2001年11月、南半球の異国路の南島で、夫の腕時計を時差4時間の現地時間に合わせ、私の時計は日本時間のままで、フリースタイルツアーをスタートさせた。
英会話能力なしの中年夫婦の二人三脚は、平和な国でトラブルなし。明日は国内線で北島へと言う夕刻に、現地で渡されたプリントをチェックしてギョッ!ホテルへの迎えが、空港出発5分前になっている。空港まで数分の距離、そして国内線とは言え、乗り遅れてしまうのは必至。
「あ〜ら、おかしいわねぇ」
慌てて電話をすれば、すっかり平和ボケしたような答え。パニックになったこちらがバカみたい。
1時間早い迎えに訂正され一件落着となったが、テロのあった同じ地球上の国とは思えない長閑さ。
平和なこの国では、時間の流れがよそと少し違うのかしら?
諍いの絶えない北半球へ帰らず、このまま平和の中に暮らしたい。
平和ボケしかかった人間にお構いなしに、二つの時計はそれぞれの
時間を休みなく刻み続けた。
10時間に及ぶ帰国便の中で、夫の時計は日本時間に無事戻された。
「父からの大事な贈り物」渡辺 あやひささんのエッセイ
一番最初に腕時計を持ったのは、高校一年の時。お父さんが警察官として勤続二十年でもらった腕時計を入学祝いに私にくれたのです。地方公務員の勤続記念などはたかがしれていて、国産のねじ巻き式の腕時計でしたが、とても嬉しかった記憶が残っています。
私自身はそれまで時計は私には鬼門だったのです。何故ならば興味本位で、お父さんの大事な懐中時計を解体し元に戻せなくした事で、過去叱られた事が有ったからです。
その後、私は故郷から離れて、六年間の大学生活を経て社会人となりました。そして家族を持つ身になって、ふと廻りを見渡すと、あれほど大事なな贈り物だった時計がどうなったかが、全く判らなくなっていました。多分、故障すると同時に、当時はやりだったデジタル型の時計へ切り替えて、どこかにいってしまったのだと思います。
そうしたデジタル時計も盗難に有ったり故障して交換したりで、この十年間も余り腕時計には縁の無い生活を送っていました。きっとお父さんの腕時計を大事にしなかった罰かもしれません。
今、日常使っているのは、海外出張で必要だった二カ国の表示が出来る多機能型の時計です。これはもう使って四年が経つでしょうか。カレンダーもついていて頑丈なので、愛用しています。もうひとつは、義父からもらった、ロレックスに似た国産腕時計です。これはドレスアップした時に誤魔化して使っています。
このように私にとって、時計は無くてはならないものの、一番大事なものを失って以来、愛着のあるものとして取り扱えなくなっています。だから、ロレックスやロンジンなどの高級品は要らないけれど、あの大事な時計をもう一度手にいれて、お父さんに感謝したいと思います。
「初めての腕時計」山下 雅子さんのエッセイ
あの頃、高校の入学祝いといえば腕時計と決まっていた。というのは限られたエリア内だけでの話だろうか。少なくとも1970年代初めの私の周囲では、そのような共通理解ができていたはずである。その頃の私にとって腕時計とは、単に時刻を教えてくれる道具ではなかった。それは高校生の証、ひいては大人への第一歩を踏み出したという証明書のようなものであった。中学生では校則違反となるためできなかった「腕時計をして登校する」そんなたわいない行為が、高校生になったことを何よりも実感させてくれたのである。
私の初めての腕時計、それは四角くて大きな、文字盤の色が濃いグレーの男性用だった。
「どうして男物なの?」といぶかる母には、「数字が大きくて見やすいから」と説明していたが、華奢な女性用が私にはどうしても似合うとは思えなかったのだ。
望み通りの時計を入学祝いにもらった私は、それからというもの、気になって仕方なかった。必要もないのに左手を上げ下げしては、その度に3〜4センチ移動する金属の冷たい感触を、いったい幾たび楽しんだろうか。文字盤の位置を内側にしたり、外側にしてみたり、また手首に直接するのではなく、制服の袖の上からはめてみたりと、思えばいろんな事をしていたものだ。本を読むふりをして、飽かずにずっと眺めていたこともあった。
そしてその当時私の高校では、カップル同士はお互いの時計を交換しあうということが流行っていた。彼の時計を左手からのぞかせている女の子は、羨望の的であった。彼女たち自身も、なんだかすごくかっこいい事をしているような、誇らしげな空気を漂わせていた。
そんな雰囲気が支配的であった中、もてないけれど、プライドだけは高かった私は、今から思えば、いもしないのに「彼の腕時計をしている」顔をしていたに違いないのだ。そんな自己満足の日々を送ることができたのも、私の腕時計のおかげであることを今告白しよう。
「腕時計のお詫び」後藤 順さんのエッセイ
彼女ができるまで、僕は腕時計をはめなかった。何かむずがゆい感触が嫌いだった。
ある時、待ち合わせをした。街のどこかに時計があるからと、軽い気持ちでいた。待ち合わせの場所に、彼女の姿はなかった。僕が少し早く着いた気持ちがあった。十分程過ぎると、時間が気になり始めた。街角にある時計を探した。だが、なかなか見つからない。僕は心の中に「ひよっとして」との不安が湧き上がってきた。
少し肌寒い風が吹いてきた。三十分ぐらいとの心持ちであったが、それは人間の身勝手な時間単位であった。思い切って通行人に時間を聞いた。「十時過ぎですよ」その言葉に唖然とした。
六時の待ち合わせ。実際に僕がきたのは、推定では八時を過ぎていたのだ。家の時計が二時間遅れであることを知らなかった。その延長である待ち合わせ時間も、二時間も遅れていた。
二時間も待ったらしい、彼女の姿はないと判った。しょんぼりしながら家に帰った。彼女に詫びの電話を入れた。「突っ張らないで、腕時計をはめなさいよ。」僕はそれに従った。
「子育て卒業記念賞」藤田 啓子さんのエッセイ
私は、朝起きたら、まず眼鏡をかけて、腕時計をする。夜、寝る前に、眼鏡を外して、腕時計もはずす。
私の一日と行動を共にしている腕時計は、シルバーの金属のベルトに青い文字盤のややごっついスポーツタイプのもの。いかにも、若者好みという感じなのは、4年前に息子が初めての給料から、自分で選んで、夫とペアでと買ってくれたものだからなのだ。だから、この時計は、私の子育て卒業記念賞ともいえる。私は、息子の気持がうれしく、以来、毎日腕にはめて過ごしてきた。
そして、この時計が刻んできた時間は、夫と二人きりになった日々の時間。
夫が、出先で突然倒れたと連絡を受け、電車の時間を見ながら駅にかけつけたときも・・
病院へ運び込んだ夫の検査中の時間も、・・
持ち直した夫の面会時間に合わせて出かけるときも・・
退院した夫に付き添って、通院するときの、廊下での長い長い待ち時間も・・
そして、復職した夫を、又、朝晩慌しく駅へと送り迎えするときも・・
みんな刻んできた・・・。
さらに、これからは、定年を迎えた夫との一日一日の時間を刻んでいってくれるのだろう私の時計・・
できれば、二人の落ち着いた、笑顔を見合わせる時間を刻んでいってもらいたい・・
息子がくれた腕時計・・・
「黄色い時計」藤田 麻美さんのエッセイ
あれは中学生になったばかりの頃、母が再婚して新しい父と暮らし始めたが、私は再婚に反対していたので今までどうり祖父母宅に住んでいた。
部活が始まり、朝練の為に一人で起きなくてはならなくなり時計が必要だった。会社兼自宅の祖父母宅の事務所の机には黄色い時計がポツンと、置かれていた。なぜか勝手に持ち出し、自分の物にしてしまった。
後から叔父の物だと知ったが、自分が持っていることはナイショにしていたのである。実際、持ち歩く事はなく部屋で目覚まし代わりに使うのみだったことと、子供心にあまり高価ではないことを知っていたからだと思う。
その時計は叔父の手元に帰る事無く、その後も高校・短大・就職・結婚と合計8回の引越しを共にしてきたのだが、結婚して1年くらいたった頃、ついに壊れてしまった。もうとっくに手元には無いけれど、黄色い時計を見つける度にあの頃の思い出や複雑な心境、そして無断で自分の物にしてしまった苦い気持ちがよみがえるのです。
「アンクル時計」池沢 信一郎さんのエッセイ
私が、幼稚園に入る前くらいの時、テレビ番組で「ジャイアントロボ」というのをやっていました。
主役の少年が、トランシーバを兼ねた腕時計から命令して、怪獣をやっつけるといもの・・・。
子供心ながらに「腕時計をはめる事=カッコイイ!」 と安直に考えていた私は、その頃から腕時計への執着を持つ様になりました。
最初は腕に時計の絵を描いていましたが、マジックで描くので、お風呂で洗ってもなかなか落ちない、しかも、毎日、描くので徐々に跡が残る様になってしまい、親が見かねておもちゃの時計を買ってきました。
しかし、本物の時計の重量感に魅力を感じていた私は、おもちゃの時計では満足せず、更に本物の時計への執着を強めていきました。
小学校に上がる頃、叔母が結婚し、その旦那さんである叔父さんには、とても可愛がって頂きました。叔母夫妻は地方に住んでいた為、会えるのは年に1,2回程度でしたので、この時とばかりに思いっきり遊んでもらっていました。
ある時、目に付いたのが叔父さんの腕時計。当時には珍しい、多機能の腕時計でした。その頃は、大人がはめている時計は必ずチェックしていたのですが、その時計の事だけは今でもハッキリ覚えています。
よっぽどカッコ良く見えたのか、思わず、「おじさん、その時計、カッコイイね!」と言ってしまいました。
そして、図々しくも「要らなくなったら、ちょうだいね?」と言った私の言葉に、「分かった、もうちょっと大きくなったらな。」と答えてくれました。
それから2,3年の間は、叔父さんと会う度に、「いつになったらくれるんだろう?」と心の中で思いつつも、決して、時計の事は口には出しませんでした。薄々、「貰えないだろな。」とも思っていました。
それというのも、「ちょうだいね?」と言った事を親が見ていて、後で、こっぴどく叱られてしまったのです。
小学校4年の時の誕生日が近づいた頃、私宛に、小包が届きました。送り人は叔父さんです。「もしかして!」という思いに駈られながら、包みを開けたら、きちんとケースに収まった、叔父さんの時計が入っていました、一通の手紙と共に・・・。 手紙には
「立派な男になった事と思います。約束通り、時計を送ります。中学生になったら使う様に!」と書いてありました。私は、「小学生を捕まえて立派な男はないだろう?」と思いながらも、嬉しさのあまり、家の中を転げまわって喜びました。学校の作文にも、この時計にまつわる話しを書いた記憶があります。
それから、中学に上がるまでの2年半の間、机の引き出しにしまった時計を毎日の様に眺めながら、約束を覚えていた素晴らしい叔父さんに感謝していました。
「時計と一緒に過ごした時間」下田 陽子さんのエッセイ
今の腕時計は私が始めて腕につけた時計で、高校受験のときに母と一緒に店に行って選んだ。それからずっと一緒に同じ時間を過ごしてきた。今では時計をしていないと、時間が分からなくって困るようになった。
一日、どれだけの時間時計を見るのだろう?一回に何分も見るものじゃなくても、それなりの時間見ているんだと思う。
私の時計は金属製だから、体温が時計に残りやすい。この季節、朝時計をするときは冷たい時計にいつも目を覚まさせられる。これから学校に行くための、気分の引き締め。
それでも、身に付けているうちに、やがて私の体温と同じになっていく。そして時計を外した時、「今日も一日終わったんだな」って気分にさせられる。時計の下がっていく体温と一緒に自分も眠りにつく。
この時計に助けてもらったことがある。今通っている学校は、無理して入った学校だ。難しい問題が解けず、時が止まれば…なんて思った。そう思って時計を見ても、時が止まる事なんて無い。でも、変わらない速さで刻まれていく秒針を見ていたら、落ち着くことが出来た。時計は、時間を教えるだけでなく冷静さもくれたのだった。
「姉さんの時計」中村 清美さんのエッセイ
もう、30年前。5歳上の姉は、中学校を卒業すると、定時制高校に通い、紡績会社に勤めることになった。金の卵といわれた時代。冬のある日、男の人が、親と話をしていた。きてもらえたらと、腕時計をおくられた親。今思えば、就職祝い。ドア越しに、耳を済まして聞いていた私は、10才ころ。姉ちゃんが、時計の代わりに、行ってしまうと悲しくなった日。あれから日々は過ぎ、姉は3人の子の親になった。2人は、県立高校に入り、卒業した。3男坊は、勉強がいまいちらしいが、働きながら、定時制に通う苦労を知っているせいだろう。この子で終わりだから、私立でも仕方ないという。私は、県立高校に通わせてもらっただけに、少し肩身が狭い。「時計と引き換えに、姉が居なくなると泣いた日は、遠い。」
「お守りみたいの腕時計」中村 清美さんのエッセイ
私は高校卒業後、見習で病院に勤め、寮に入った。準看の学校に半日かよい、半日仕事をする。先輩に習い、患者さんと接する日々。トイレ掃除、風呂掃除、病室の掃除も。なれない、田舎娘。頭には、白いターバン。患者さんや、付き添いの家族の方が、やさしく声をかけてくれる。石の上にも、3年だから、頑張れと。親元を離れ、世の中にもまれる日々。心に、勇気と希望を貰った。時には、悩みを聞いてもらつたリ、励ましてくれる、同期の友や、先輩、上司。そして、腕には、就職祝いに買ってくれた母から腕時計。時間を見る、脈をはかる、点滴の滴数を合わす。そして、悲しいとき、つらいとき、時計を見ると、かあさんの顔が浮かんで、途中で投げ出せないなって思い頑張れた。電池が切れたころには、少しなれ、心に余裕も生まれてた。
「貴重品だった時計」たかぴさんのエッセイ
時計を持たない人が増えているらしい。携帯電話の時刻でわかってしまうからだそうだ。
いつから時計ってどうでもいいものになってしまったのだろう。
私立の都内女子高に通っていた私には今でも思い出すことがある。中学、大学もある学校でまあ、経済的には余裕のある家庭の子ばかりだった。中には夏休み簡単に「ハワイ」が家族旅行の子もいてびっくりした記憶がある。今から20年前のことだからかなり珍しいことだった。サラリーマンの子である私は小さくなっていた。
体育の授業のとき、貴重品袋があり、皆お財布をそこに入れ先生に預かってもらう決まりがあった。そんな裕福な子が多い高校なのに腕時計を持っている子全員がその袋に当然のように時計を入れた。時計は間違いなく、貴重品だった。無くなったり、落としたりしたら探しまわり見つからないとがっかりするものだった。私にとってもそうだった。でも今はどうだろう?
100円ショップで私は腕時計を子供に買って与えている。まったくのおもちゃ感覚で。
財布には気を遣うが、高級でもない腕時計を盗む人もいないだろう、とスーパー銭湯で割とそのあたりにほいほい置いている。いつから時計は貴重品じゃなくなったのだろう?
大切に先生が持って回る古ぼけた貴重品袋に腕時計を入れていた自分はどこにいったのだろう?
大切だった時計の記憶と私の過ぎてしまった青春の匂いが微妙に重なる。
「時計」小笠原 一夫さんのエッセイ
各種の公共の乗り物、放送等は分・秒単位で動いている。21世紀の現代社会において、時刻を告げる時計なくしては生活できないであろう。
私の時計は、日常生活をしていれば自然にゼンマイが巻かれ、快適に動き続ける。今よく囁かれているクリーンエネルギーな時計と言うべきかも知れない。もうかれこれ三十五年程になるであろうか。・・・それでも正確に刻一刻と時を刻み続けている。この律儀さには私も閉口するのである。
品質管理がよくなった現代、企業間の品質の差がなくなり、また企業努力で低価格で入手できるようになったのには、我々消費者にとって大変ありがたいことである。だが反面、企業にとっては今までのように利潤がなくなり、一長一短というところかもしれない。
今日までにはいろいろな機能が付いた時計がたくさん出回り、その種類の多さには目を見張るものがある。オリンピック等の世界的なイベントにおいても、日本の時計メーカーの名前を目にするのは、日本の技術がやはり世界最高水準であることの証左ではないだろうか。
「人間臭い時計」佐藤 直路さんのエッセイ
ピンクゴールドの洒落た枠が気に入った。自動巻き?懐かしいなぁ。中学のころはこれが最新型で、両親にはじめて買って貰ったのもそうだった。正確無比なクォーツが主流になり、もう作ってないと思っていた。裏はスケルトン。機械の動きとともに人間臭さが透けて見える。はじめて時計に惚れた。無骨な分厚さと重さは……軽くて薄いのが高級の証と言う思い込みを変えればいい。大変だろうが、それも覚悟して付き合っていきたいと思った。だが、困ったことに女性用がない。結婚二十年の記念にお揃いの時計を探していた。
結婚前のデートのとき、彼女はよく遅刻した。何度もそのことでケンカした。一度だけ私の方が一時間近くも遅刻したことがあった。痛み分けということになったのだったか?長い春は、そのまま今に続いている。
「あなたが気にいったのなら、お揃いじゃなくてもいい」と妻は了承してくれた。お互いの時計に記念の文字を刻むことにした。妻は、他所行きとにしまい込んだようだ。私は、毎日腕にはめている。
今年の夏、妻が突然の病で入院した。手術までの不安な時、ただ待つしかなかったあの十六時間、コイツは静かに時を刻み続けた。手術は成功し、良性と分かり退院できた。結婚二二年目を無事迎え、快気祝を送り終えた。
妻の退院後しばらく経ったころ、リューズが壊れた。人間臭いと言うことは壊れやすいと言うことでもある。修理に出すことにした。二ヶ月近く、妻も気にしながら時計の帰りを待った。
元気になった妻がいる。元通りになった時計がここにある。時は、過去を今を、そして未来を静かに刻み続ける。私は、できるだけ長く、妻との時間をともに過したいと願う。コイツとまた新しい思い出を刻んでいきたい。
「プール」朗子さんのエッセイ (11-12月のベストエッセイ)
「しまった。」と思った時はもう遅かった。大学生になったばかりの民子姉ちゃんの赤いベルトの時計の文字盤には、すでに水が入っていた。
あれは私が小学校四年生のことだった。
プールに行って飛び込んだ途端、手に腕時計をはめていたことに気づいたのである。しかも、時計は家に遊びに来ていた親戚の民子姉ちゃんの時計なのだ。私はどうしてもお姉ちゃんの時計がしてみたくて、こっそり時計を自分の腕にはめたまま、友だちとプールに来たのである。
普段はやさしい民子姉ちゃんだが、大切な時計を勝手に持ち出されて、水につけてしまったと知ったら、どんなに怒るだろうか。母や父にもどんなに叱られるだろうか。
時計屋のおじさんは難しい顔をして水の入った時計を見てから、言った。
「こんなに水が入っちゃったら、新しいのを買った方が安いよ。」
「お姉ちゃんの時計なの。間違ってプールに入っちゃったの。」
泣きそうになりながら言う私をよそに、おじさんはアハハと笑いながら修理を始めた。
「一応、動くようにしたよ。本当は一度全部分解しないと、すぐ止まっちゃうかも知れないけどな。」
大サービスだと料金を受け取らないおじさんにお礼を言って、すぐに私は家に帰った。そして、こっそり時計をお姉ちゃんのハンドバックの横に置いた。
その後、会うたびに謝らなければと思いつつ、結局時期を逸してしまった。
・・・民子姉ちゃんはもういない。
今でも夏になり、プールの塩素臭い水の匂いを嗅ぐと、やさしかった民子姉ちゃんと謝り損ねた赤いベルトの時計のことをほろ苦く思い出すのである。
「たったひとつの、いつか。」長岡 美帆さんのエッセイ
私はほとんど物を持たない。というよりも、要るものしか持たない。実は33歳にして腕時計も持っていない。旅行などに出掛ける時は妹の数ある時計の中からひとつ借りるのだ。
今はどこにでも時計があるし、携帯電話にも時計が付いている。ひとつぐらい買えばいいのはわかっているけれど、私はすごく物持ちがいいので、ひとつ買うと、きっと何十年も愛用してしまうだろう。だから本当に欲しい腕時計が見つかるまでは買わない。本当は買いたいのだ。いいものをひとつ。といっても私の給料では何十万もするような時計は買えないけれど。本当に本当に愛用するのに、まだイメージ通りの物に巡り会えない。
時々腕時計をした自分を想像してみる。どんな服を着よう。カジュアルな自分とドレスアップした自分。どきどきしてきた。早く欲しいと思う。どこにでも連れて行きたい。世界中のあちこちで時を刻むことができたら、とても楽しいにちがいないと思うから。すごくシンプルな銀色の時計がいい。
ある時は京都の竜安寺で静かな時を刻み、ある時はパリのオープンカフェで自由な時を刻む。なんだか想像するだけで楽しくなってきた。
今まで待ち続けて来たのだから、いつか理想の(価格も。)腕時計に巡り会うまでこれからも気長に待つつもりでいる。
「高価だったデジタルの腕時計」福原さんのエッセイ
「はーい これは今日きてくれたお子さまへのプレゼントです。」と言って店員さんがデジタルの腕時計を下さいました。子供たちは喜んでさっそく時刻を合わせていました。今は百円均一でも売っていますよね。
もう25年も前のことですが...。
姉は就職してはじめてのボーナスが支給されました。そしてそのお金で家族みんなにプレゼントをしてくれました。姉は父親に何が良いかと確認しました。「デジタル式の腕時計」のリクエストがあり、私も姉と一緒に時計屋さんに行きました。
そのころは、デジタルでパッと時刻がわかる方式は、最新で珍しかったのです。どれを見ても....高価です。私たちが気に入って選んだデジタルは、3万円でした。姉のボーナスは半分の金額になりました。
そんな金額のことは知らない父。ピカピカの腕時計がとても見やすくて、しかも娘からの感謝の気持ちいっぱいのプレゼントなのでとても喜んでいました。腕時計を見る姿は最高の笑顔でした。そして亡くなるまで大切に使っていました。
デジタル時計を見るたびに、父の笑顔と姉の気前の良さと3万円の腕時計を思い出すのでした。
「あのとき」赤崎 芙美さんのエッセイ
私は4年程前にはじめて自分の腕時計を手にした。
その腕時計は○ッキー○ウスの手が動くようになっているいたってシンプルなものだった。
その当時の私はまだ、小学校2年生。その日一日中ずっとわくわくしていた。まだか、まだか、一日が1ヶ月くらいに感じられるくらい待ちどうしかった。そしてついに腕時計がもらえる瞬間!
私は、息を呑んだ。その瞬間はきっと大人になっても忘れることはないであろう。「おとなになったんだ・・・・。」
と思った。私はいまもそのときめきをおぼえている。
なんか不思議なエネルギーだ。子供のときの、今では感じられないあのエネルギー。
あれから4年の月日が流れた。
ところで、その腕時計は今もまだ使っている。
ただ、あのときのエネルギーはもうかんじられないけど・・・。
これからも大切にしたいと思う。
(注)この「思い出の腕時計エッセイ募集」に書いていただいたエッセイの著作権は、セイコーインスツルメンツ株式会社に帰属します。予めご了承下さい。
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