応募期間 2003年1月10日〜2003年12月31日





1年間を通じて、あなたと腕時計との出会い、思い出を綴ったエッセイを募集します。優秀作品は、月ごとに月間ベストエッセイとして発表、月間ベストエッセイ受賞者には、「kodomo-seikoオリジナル腕時計」をプレゼントいたします。あなたの腕時計の思い出、そしてあなたが腕時計と共に過ごした時間のことを800字以内で書いてお送りください。皆様からの応募をお待ちしております。

 


2003年の作品
1-2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

4月の作品(18作品)

「ファイト、ピッピッ!」望月 純さんのエッセイ
「800キロをつないでくれたペアウォッチ」田村 香織さんのエッセイ (4月のベストエッセイ) 特別賞
「形見の腕時計」小野 勝也さんのエッセイ
「腕時計」久保 忠さんのエッセイ
「ほしかった腕時計」浅野 小夜子さんのエッセイ
「上越線をつかまえて」サスケさんのエッセイ
「ハトの長期休暇」島崎 真由美さんのエッセイ
「丈夫なのが1番!」いぬこさんのエッセイ
「ぶらんど」中西 玲子さんのエッセイ
「大きな掛け時計《思い出タンク》」浅沼 杏子さんのエッセイ
(4月のベストエッセイ) 最優秀賞
「たいせつな「彼女」」村元 彩さんのエッセイ
「思いでの時計エッセイ」
「初めての腕時計」西山 秀子さんのエッセイ
「怪談時計」関戸 清さんのエッセイ
「手術室の向こう側」山道 一壮さんのエッセイ
「宝石箱の腕時計」糸井 佳代子さんのエッセイ
「わたしの時計はルビー付き」宮崎 博美さんのエッセイ
「絶妙なる連携プレー」やまこさんのエッセイ


「ファイト、ピッピッ!」望月 純さんのエッセイ

高校一年生のときに、母からもらった誕生日プレゼントの箱の中に丸い赤い時計がありました。
笛を口に銜えて、きょとんとしているそいつは
次の朝から寝坊がちな私を起こすことが仕事になりました。
時間になると「ファイト、ピッピッ!」とまるで熱血教師張りに騒ぎ立てます。
新機能付で一度止めても、五分後にまた鳴り出し、しかも段々と音が大きくなるというやっかいな代物で、隣の部屋にいる兄に、「うるさいから、早く止めろ!」と言われるほどの働き者でした。そんな「ファイト、ピッピッ!」と、大学生になり一人暮らしを始めても、私は一緒でした。
ある日、ドアをドンドンとたたく音がして、
突然に「寝ているのか?遅刻だぞ!」と友人が心配して現れました。
大切な試験の日、こんな日に限ってどうしてと思いながら、走って試験場に行った時のことを思い出すと、今でもドキドキしてしまいます。
「ファイト、ピッピッ!」は、電池を換えても動かくなっていました。
毎朝、応援されて起きていましたから、それがなくなることは淋しいことで、なんだか起きてもすっきりしないということすらあり、分解を試みたこともありましたが、結局元には戻らず、お別れの日が近づくだけでした。
ですから、自分で言う様にしました。
「ファイト、ピッピッ!」
さようなら、沢山の元気をありがとう。


「800キロをつないでくれたペアウォッチ」田村 香織さんのエッセイ (4月のベストエッセイ) 特別賞

私が「結婚したい人がいる」と両親に話した時、きっと二人は心の中でとても淋しい気持ちを感じただろう。彼がどうとか、まだ早いとかそういうことではなく、ただ「遠いから」という理由で…。私は、生まれ育った町から800キロ離れた場所に嫁ぐことになった。両親は、初めて彼を実家に連れて行ったとき、温かく迎えてくれた。そして、私の選んだ人に間違いはないと、結婚を快諾してくれた。それから数ヵ月後…、二人が、結婚のお祝いに何かプレゼントをしたいと言ってくれた。ネックレス、ブレスレット、リング…色々考えた結果、「一番二人にピッタリくる」と、ペアの腕時計を買ってくれた。普段、時計を身につけることのなかった主人も、その日から着けるようになり、専業主婦の私は普段は箱に入れて、時折眺めていた。その大切な時計を、ただ握り締めて過ごした日があった。それは、娘がこの世に生まれてきた日。出産入院の準備の時、私はまず両親からもらった時計をバックに入れた。陣痛の間隔を計るために必要だということは知っていたが、それ以上に、800キロ離れている両親に、少しでも近くにいてほしいという気持ちがあったのだ。初めのうちは、まだ余裕も見せれていた陣痛も、時間が経つにつれ時計を見る余裕すらないくらい辛くなり、ただずっと握り締めていた。そして、「頑張れるよね…私なら頑張れるよね…」と、二人に確認していたような気がする。娘は、元気いっぱいこの世に産まれてきた。初孫に早く会いたい両親は、私達が退院してすぐ来てくれた。私は、陣痛の間ずっと時計を握りしめていたことを二人に話した。その時の嬉しそうな顔を、きっと私は忘れない。ただ、何となく恥ずかしかった私は、照れ隠しではないが、「あの時計は秒針が着いてたから、陣痛の間隔を計るのに便利やったんよ!」と、要らぬ一言を付け加えてしまった。それが、私らしかったりもするのだけど…。二人目を出産する時も、私はきっとこの時計を握り締めていることだろう。同じ時計を身につけている主人に見守られながら…。


「形見の腕時計」小野 勝也さんのエッセイ

大学時代の友人が入院していると別の友人から電話が来た。「肺ガンらしい」「ガン?」わたしは悲しいショックを受けた。「見舞いのゆくか」わたしは訊いた。「奥さんのいうには、いまはとても無理だということだ」友人はそういった。入院した友人は出版社でいい仕事をした。わたしの作品も候補作にいれてくれた。「もっと、オリジナルなものを書いてください」かれの精一杯の批評だった。「才能がないよ」わたしは正直に言った。「先輩らしくない」かれはそういった。その後、ときどきわたしの家にきて食事して帰った。「そのうちまとめて恩返ししますよ」彼は口癖のようにいった。「水くさいこというな」、その友人がわたしより早く入院したとはーー。しばらくしてわたしは手紙を書いた。きっと元氣になると思っていたからだ。
 突然、奥さんから電話が来た。「主人にあってください」。わたしは翌日、電車を乗り継いで彼が新居を構えた近郊のまちまで出かけた。市立病院のロビーで奥さんにあった。結婚式以来だった。相変わらず美しかった。白いカーテンのおくのベッドに友人はいた。病みつかれ、小さく縮んでいた。わたしは点滴の内出血が青くにじんている手を握った。すでに死の色を浮かべた彼は言葉もなく涙をためた。わたしもなにも言えなかった。言葉が白々しく思えた。痩せた腕で彼は枕の下からなにかをつかみだし、わたしの手に握らせた。彼が使っていた腕時計だった。初任給で、自分で買った国産の古いものだった。その後一ヶ月して友人は他界した。彼の腕時計はいまわたしの左手首で時を刻んでいる。


「腕時計」久保 忠さんのエッセイ

田舎の小学校から、鹿児島市にある旧制の県立二中を志願した。義兄ははったり屋で鼻っ柱が強く、何でも自分の思うとおりにしないと気のすまないたちだったが、早速手紙が来て、「田舎の小学校から二中などに通るものか、もし通ったら俺が腕時計を買ってやるよ。さっさとやめて、他を志願しろ。」と言ってきた。ふたを開けると、曲がりなりに受かっていた。義兄ははったりの手前、50円の月給の中から、大枚15円をはたいて腕時計を送ってくれた。昭和11年のことだ。15円というのは大金である。僕は飛び上がって喜んだ。銀色の鎖がキラキラと輝いていた。長姉の主人は警察官であったが、お古の帽子を送ってくれた。少しぶかぶかだったが、「まぁいいか」ということでありがたく頂戴した。
新しい制服に着替えると、時計をはめ、ぶかぶかの帽子をかぶって意気揚揚と外出した。桜が咲き、日がぽかぽかと照って、天にも上る気持ちであった。
4月が来て、中学生生活が始まった。まず、びっくりしたのは、朝、学校に着くと靴を脱いで白いズック靴に履き替えることであった。鹿児島の小学校では、雪でも降らない限り一年中裸足であったから、霜朝など随分と冷たい思いをしたものである。新しい教科書に新しい先生、英語や数学の授業、何もかもが珍しく、心踊る思いで、一日一日が過ぎていく。体操の時間がきた。白い帽子に白いシャツ、白いパンツ、白い靴下に、白いズック靴。まるでかもめの水兵さんである。

 オイチニ、オイチニ
 ちからいっぱい、手足を伸ばす。
 太陽に照らされて、腕時計が眩しく輝いていた。


「ほしかった腕時計」浅野 小夜子さんのエッセイ

私の時計の思い出といえば、小学生の頃に戻る、私が子供の頃まだ小学生の頃、家にテレビがなく近所の家へ子供たちが集まってテレビを見せてもらっていた。
あの頃、月光仮面・マグマ大使・七色仮面などといった子供の番組が多かった気がする。中でも私が一番好きだった「マンガ」それはエイトマンというマンガで、鉄の玉をはじき、風のように速く走るといったものだが、変身前の名前は忘れてしまった。
エイトマンの声が高山栄さんという声優で、その声が子供ながら大好きだった。
今では覚えがないが、高山さんがセイコーの腕時計のCMをやっていた。
あの時計が欲しくて欲しくてたまらなかった。
私は何歳くらいだったか覚えがないが、社会人になってようやく欲しかった時計を手にした。私の腕には大きな自動巻きの腕時計。
とても嬉しかった。
緩めのクサリがブレスレットのように動いて自慢だった。私にとってセイコーとは憧れの的だ。
その後結婚をし、引越しをすることになったとき、親しかった友人たちから掛け時計をプレゼントされた。その時計もすでに18年のときを刻み、見守ってくれている。今では腕時計も姿を消し、携帯電話の時計を見てしまう。昔をちょっと思い出した・・・。


「上越線をつかまえて」サスケさんのエッセイ

不恰好なシュプールをえがく私がいた。先頭を行く彼女の背中は、遠く小さくなっていた。私は振り返り、清らかな山並みに目をやった。
あの山に、あの山のふもとに祖父母は眠っている。幼かった私を育ててくれた、あんなにかわいがってくれた、最愛の祖父母が静かに、永遠の眠りについている。
祖父母がいなければ、今の私はなかった。
絵本を読んでくれたのも、文字を教えてくれたのも、母に内緒でおこづかいをくれたのも、みんな、おじいちゃん、おばあちゃんだった。
ここは新潟、越後湯沢のスキー場。スキーの大好きな彼女のリクエストにこたえた私が、引っぱるように連れてきた。
「はやく来て!」下で彼女が手を振っている。
私はすばやく腕時計を確認した。無情な針は、午後3時を回っていた。
祖父母のお墓は、この湯沢から電車で17分の、「塩沢」にある。高崎と長岡を結ぶ各駅停車の上越線は、1時間に1本か、多くて2本のローカル線だ。次の電車は、越後湯沢発4時23分と調べてあった。
ゲレンデから駅まで、小1時間はかかる。墓参に行くのであれば、そろそろスキーをしまい、着替えて駅へ向かわなければならない。
一緒に行ってくれないか ――こう彼女に切り出すことは、ためらわれた。日夜仕事で忙しい、彼女の時間をうばってはいけない。楽しみにしていた、せっかくのスキー旅行を早めに切り上げて、お墓参りはないだろう。
大切な彼女だからこそ、おいそれとは口にできなかった。悩みぬいても、容易に答えは出なかった。けれど時間は待ってくれない。腕時計の針は、優柔不断な私を待ってはくれない。
あぁ、秒針の音が聞こえるようだ。再び私は腕時計に目をやった。黄昏迫る鈍い光が、文字盤に反射し、黄金色にきらめいた。決断をうながす、腕時計の確かなささやき――。
私はまっしぐらに彼女のもとへ滑降した。墓参りにつきあってくれと言うために。


「ハトの長期休暇」島崎 真由美さんのエッセイ

その昔、私は一羽の白いハトを飼っていた。それもただのハトじゃない。体長約4センチで、エサは必要なし。時間に厳しいのだ。
ハト時計は、私が生まれる前から家にあった。巣箱の形で、時間になるとハトが扉から出てきて、「ポッポー」と羽ばたきながら鳴く。夜中もかかさず鳴くものだから、母が「夜はハトにも休ませてあげよう」と、毎晩鳴かないように設定するようになっていた。
幼い頃の私は、毎時間ハトが出てくるのがとても楽しみであった。家に帰るとハト時計の前に立ち、早く現れないかと心待ちにしていたものだ。待ち切れず、時計の長針を自分で十二に合わせ、母に怒られたこともあった。
小学校四年生のある日、私が小学校から帰ってくると、二つ年下の弟が、柱に掛かっているハト時計を見上げたまま突っ立っていた。「何してんの?」私が尋ねると、弟は言った。「ハトの鳴き声が、変」
私が首を傾げていると、そのうちハトが出てきた。私は耳を疑った。ハトが、いつもの二倍速で鳴いたかと思うと、さっさと中に戻ってしまったのだ。私はあっけに取られた。ハトが、せっかちさんになってしまった。
その後もハトの様子は不可思議なものだった。一時に一回鳴く所を十二回も鳴いてみせたり、時々鳴くのをさぼったりしていた。
そうこうするうちに、ぷつりと、ハトは扉から出てこなくなった。
ハトの鳴き声が消えて初めて、私の生活とハト時計は、密接につながっていたことに気付いた。朝、ハトが七回鳴くと同時に目を覚まし、八回鳴く前に家を飛び出した。夜眠れないときは、ハトの鳴き声が聞こえると安心して眠ることができた。
両親の寝室の柱に飾られているハト時計。扉から出てくることはもうないけれど、私の心の中には、今も「ポッポー」という、時を告げる心地よい鳴き声が響いている。


「丈夫なのが1番!」いぬこさんのエッセイ

長女がある財団からの奨学金をもらって留学することになった。
高校入学時にお祝いに買った腕時計は革ベルトが朽ち、落として壊れてしまっていた。「お祝いにブランドの時計でも買ってあげようか?」「ブランドはいらない、丈夫で安いのを買ってよ」という。
出発の日の彼女はジーンズにパソコンの入ったリュック。腕には黒い大きなデジタルの時計。少し緊張して手を振りました。
あれから3年、現在も米国の大学院で学んでいる。
先日、メールに添付された写真に笑顔の娘の腕にその時計があった。
長女も元気。時計も動いているんだ。丈夫なのが1番!


「ぶらんど」中西 玲子さんのエッセイ

まだバブル前のことである。
ブランドのことなど何も知らない私、友人達が、ヴィトンのバック、ロレックスの腕時計、オックスフォードのスーツ、車はBMWというのが、私の周りに目につきだし、やっぱり、そういう物持ってるのが、普通なのかななんて思ってしまった。そうゆう田舎者だから多分、何も知らないのが恥ずかしい感じがしたんだろうと思う。
今思えば、見栄である。で、ついつい買ったロレックスの腕時計、実のところ、時計は正確に動いてくれたら、メーカーなどは、どこでもいい方だったのである。
使い始めてしばらくたって、やはり高いもの買ってしまったなーと、思っていたのに、またまた見栄を張ってしまった、知り合いに「いい時計してるね」と褒められた時、「たいした事ないですよ」と答えてしまった。今でも、若き時代の見栄の張りようを思い出すと、今は恥ずかしくなるが、これを告白することによって、解決がついた気がする。このような見栄張りは物を大切にするように思うだろうが、実は一ヶ月後、公園のベンチにうっかり30分ぐらい放置してる間に、その見栄張り用の時計は盗まれたのである。警察に届出をしたが、返ってはこなかった。


「大きな掛け時計《思い出タンク》」浅沼 杏子さんのエッセイ (4月のベストエッセイ) 最優秀賞

私は大きな掛け時計だ。外見は威風堂々としてはいるが、内部はだいぶくたびれている。戦前、海辺のこの家の工場で製造された。戦争が激しくなった頃、私は若い主と妻に担がれ、郊外に疎開する光栄を受けた。戦争が終了して戻ったら、家は空襲で焼け出されて仮住まいだった。若い妻は苦しい生活の中で病に倒れた主人を抱え、一族の世話に明け暮れていた。お腹も大きかった。私は「がんばれ、がんばれ」と時を刻んだ。
やがてまるぽちゃの女の子が2人生まれた。私をじっと見上げて睨むのじゃ。そのうち手の指を数えながらわしを睨みあげる。どうやらわしの顔の数字を使って計算しているようじゃ。子供たちはいつもわしを見上げていた。学校に出かける時、帰った時、おやつ、眠る、いつもいつもわしを見上げていた。若い私は快活に時を刻んだ。「元気に!健やかに!」
やがて子供たちは大人になり家を出た。老夫婦だけの静かな生活に私は時を刻んだ。「お疲れ様。ゆっくり幸せに!」
ときどき子供たちが帰ってきた。孫もいる。ヨチヨチ歩きの孫たちは、かつての子供たちと同じ輝く瞳で私を見上げる。老いた私には少々うるさいが、かわいいことこの上ない。
昨年主が亡くなった。彼は欠かさず私のねじを巻き、常に正確な時刻を保ってくれていた。彼は静かに時を制していた。
女の子の1人が戻り、高齢の母親と一緒に暮らすようになった。私はもう老体だが、この家族の幸せを願い動く限り時を刻むつもりだ。

「なんて、この時計は思っているんだろうナ」、と戻ってきた元女の子の私は想像する。この大きな掛け時計は私たち家族の歴史、たくさんの夢、笑い、涙を見守り、常に思い出の中心にある、我が家そのものなのです。


「たいせつな「彼女」」村元 彩さんのエッセイ

私は今、小さな黄色い置き時計と一緒に暮らしている。でもただの置き時計ではない。「彼女」は私の大切な友人なのだ。
彼女と初めて出会ったのは高校二年の終わり。大好きだった先輩に振られてふさぎ込んでいた私に、友人三人がお金を出し合って贈ってくれた物なのだ。
やさしい黄色の木枠におさまった小さな時計。その裏には三人からの「過去や思い出じゃなくて『今』を見ていこう」とメッセージが刻まれていた。
決して高価な物ではなかったけれど、私にとってはなによりの贈り物だった。
それ以来、私と「彼女」はとても良い友人なのだ。落ち込んだ時など「彼女」と向かい合ってコチ・・・コチ・・・コチ・・・という声を聞くと、
「確実に時は進んでるんだから、落ち込んでなんかいられないよ!」
と背中を押されているようで、何だかとても元気づけられるのだ。
もちろん、「彼女」を贈ってくれた友人達も、今も変わらず大切な友人なのだが、高校を卒業して皆それぞれの道を歩いているため思うように会う事ができないのが現状なのだ。
その分を補ってくれるのが「彼女」なのだ。
置き時計に向かってブツブツと会話をする様はきっと、客観的に見ると不気味なのだろうが、私としては全く止める気はない。
この素敵な友人が私の部屋に来て、今年で四年になる。「彼女」は時々ヘソを曲げたりしながらも、変わらず私を元気づけてくれている。
これからも変わらず、常に前を向かせていてくれる大切な友人であって欲しいものだと、心から思う。


「思いでの時計エッセイ」

腕時計、それは私にとって最も身近で、親しい友人である。付き合いはもう五〇年以上にもなるであろう。私も来年は、満七〇歳になるが、この間一日として、時計の顔を見ない日は無かった。
腕時計との出会いは、私が十代の時であった。当時は戦時下で総ての物資が不足していた。腕時計もご多分に洩れず貴重品だった。出征兵士が軍隊へ入隊する時に持参するのにどうしても欲しい。さりとて、新品は入手出来にくい。中古品を修理してでも、持って行こうと言う時代だった。この様な世相で時計修理職人も極端に少なく当時小学校高学年であった私も、家が時計店であったことから、腕時計の分解掃除を手伝うようになった。
私の分担は、分解・洗浄することだった。腕時計の皮バンドをはずし、時計の硝子蓋と裏蓋の二ヵ所をコジアケを使って開ける。その隙間が数ミクロンしかない所へ工具を当て、押し付けて隙間を開くようにして開けるのだ。これがなかなかの難関である。手先の微妙なコツがいる。体で覚えるしかない。
機械止めの二本の捻子を外し、側から機械を取り出す。針を外し部品を止めてある捻子を総て抜いてばらばらにする。その後部品をベンジンで洗う。此処までが私の分担であった。一番苦労したのは小さい部品をピンセットで摘まむ事。飛ばさないように注意して摘んだつもりでも失敗することがある。飛ばすと探すのに大変だ。なにしろ小さい部品だから、二、三メートルも飛んだりする。それも思わぬ方向へ飛んでいってしまう事すらある。(男性用の十型の機械は、当時の腕時計の内では大きい方だが、それでも直径二・五センチの中に二〜三十個の部品が収まっている。)
時計修理技能士制度が出来き、最初の検定試験で一級技能士になったが、時代も変わり腕時計もクオーツが、主流となった。青春時代に苦闘した相棒の機械時計の姿を、見かける事も少なくなり一抹の寂しさを感じる。


「初めての腕時計」西山 秀子さんのエッセイ

初めての腕時計を買ってもらったのは、高校入学のお祝いに祖母からでした。ショーウインドに飾ってあったその時計は、長方形の文字盤で、35年前には珍らしかった自動巻。ベルトは、赤と黒の皮で編んだスナップ止めのものでした。
一目で気に入った時計は、セイコー製、以来9年狂うことなく、無くすことなく時を刻んでくれました。
2つ目の婚約記念の時計を買ってもらうまで・・・2つ目もセイコーの長方形の文字盤のブレスレット型のものです。それは、26年目の今も動き続けているのです。さすが、世界のセイコーだと思います。
今、私の職場は、時計売り場です。今年も初めての時計を買われる人達が来られました。あの時の私とおなじように、おじいさんやおばあさんに買ってもらう少年、少女。
時計を、選ぶ目は真剣で嬉しそう。、晴れの日の贈り物だなあとおもいます。誰にも、初めての時計の記憶があると思う。そして、その思い出は、暖かく、懐かしいものだと思う。


「怪談時計」関戸 清さんのエッセイ

時計が大変高価で、貴重品であった頃のことです。とても中学生の持てるような物ではありませんでした。学校では始業終業のベルの音だけが時間を知る頼りでした。
その中学校は受験勉強に熱心で、放課後も生徒に好きなように教室で自習を許していました。ところが放課後はベルがならないため、居残って勉強している生徒には時間を知る方法がないのです。それでは不便だと言うことで時計を校内の見やすいところに掛けることになりました。
校舎は二階建ての翼を広げた形で、中央に幅の広い階段があり、二階への途中に踊り場があります。その踊り場の壁に時計は掛けられました。ずい分大きな時計で、その場所ですと一階からも二階からも眺めることができるのです。大きいだけあって、時を刻む音も何かしら響くようにも聞こえました。また時計の反対側が窓になっているため、季節や時刻によっては時計の盤面に陽が差しこみ、盤面のガラスが燃えるように輝くこともあります。
生徒が構内にたくさんいるときはその時計の音も、輝くことも誰も気に留めません。
ある冬の、風の強い日のことです。放課後で、すでに日も傾き、居残って勉強している生徒もわずかでした。一人の生徒がそろそろ帰ろうかと、ふと一息入れたときでした。どこかで女のすすり泣くような音と男の叱りつけるような声が聞こえました。階段のほうから聞こえてくるようです。気になって階段のところまで足を運び、音のするほうを覗いたときです。赤い着物がさあーと翻えるように消えたようでした。すすり泣きも消えました。
生徒は驚いて立ちすくみました。気がつくと今は風の音と時計の音だけがしております。
その後、これと似た話が教室で話題になりました。階段にある時計にまつわる気味の悪い話のため、その時計は怪談時計などと呼ばれるようになってしまいました。


「手術室の向こう側」山道 一壮さんのエッセイ

私は元来、腕時計というのが嫌いだった。
腕時計によって、正確な時刻を知り、それにしたがって、黙々と人が動いている様子は、壮観ではあるけれど、一方でなにやら機械がリモコンで人間の行動を制御しているようにも見えた。
高校に入って、電車通学となり、必要に迫られて腕時計をして学校に行く様になった。しかし、時計が嫌いだった私は、度々、ポケットに入れたまま洗濯して壊してしまった。
ならば、と「絶対に壊れない時計」として、誕生日にプレゼントとしてせがんだのが、カシオのG-SHOCKだった。
程なくして、私は心因性の胃潰瘍を患い、生まれて初めて入院を体験する。猛烈な腹部の痛みを覚え、手に取れるだけの私物を持って、病院に担ぎ込まれた。その中に腕時計も含まれていた。
検査のために、胃カメラを飲んだ。体験したことのない激痛。その時、ふと、いつもと変わらず、時を告げている腕時計が目に入った。腕時計の周辺だけ、いつもの「日常」が漂っていた。激痛は続いていた。しかし不思議と気持ちは落ち着いていた。
以来、私はその腕時計に、手術室の苦痛をともにした持ち物として、強い愛着を持って使うようになった。
浴室だろうと海中だろうと試験場だろうと、辺りかまわず持ち歩いた。無骨なデザインは、使い込むにつれ、丸みを帯びるようになり、貫禄のようなものまで漂わすようになっていき、腕時計はすっかり体の一部となった。付けていない日は、左手が不自然に軽く感じるほどに。
成人式にも、その腕時計をしていった。今や、バンドの留め具はなくなり、バックライトのボタンを押すと文字が消えるまでになった腕時計を見て、久しぶりに再会した友達たちは皆、苦笑していたが、間違いなく、10代を彩った持ち物の一つだった。
現在、腕時計は現役を引退し、部屋で予備として使われている。
変わらず、黙々と時間を告げながら。


「宝石箱の腕時計」糸井 佳代子さんのエッセイ

30年前、私は腕時計を買った。就職して下宿生活を始め3カ月目のことだ。若さと健康だけが頼りの貧しい暮らしだった。
当時、職場に洋服、アクセサリーなどを売りにきて、代金は給料から天引きしてくれた。時計屋さんが来た日、私は買うつもりもなく、ズラリと並んだ腕時計を眺めていた。いまでは腕時計など手軽に買えるが、当時は高級品で、就職して間もない若者が買えるような値段ではない。私の腕にはめていた時計は母のお古だった。
当時若い人向けには、グリーンやブルーの文字盤で円型の時計が流行っていた。ふと上段に置いてある、正方形でシルバーの縁取りの腕時計が目に入った。地味だが周囲を圧倒する気品に満ちている。
私の視線に気がついた店員さんが言った。
「これはうちの店でも高級品、一生もんでっせ。そやけどお嬢さんにはちょっと贅沢かな。こっちのはどうです」
文字盤が輝く若者向きのいくつかを勧められた。
私は憑かれたように正方形の腕時計を見ていた。縁はプラチナで、押さえた華やかさがたまらない。
店員さんが悪魔のようにささやいた。
「3カ月なら月賦にしまっせ」
かくて私は、数カ月の極貧生活を送る羽目になった。もちろん、初めての夏のボーナスもすべて支払いに回ったのである。
電車のつり革を持つと腕時計が見えるのがうれしくてたまらない。左手ばかりでつり革を握っていた。給料前になるとお金がなく電車にも乗れなくなったが、職場まで歩きながらさりげなく左手の時計を見た。
このときの腕時計は、私にとって最高の贅沢な買い物であったのだ。
動かなくなった腕時計は、いま宝石箱の真中に眠っている。


「わたしの時計はルビー付き」宮崎 博美さんのエッセイ

初めての時計は小学校の修学旅行の前、両親からもらった腕時計だった。
丸くころんとしたフレームに赤い皮バンド。何より一目で惹きつけられたのは、文字盤に4箇所はめられた小さな赤い石のきらめきだった。「これルビー?」と聞くと「そうよ」と言う。今から四十数年前、まだまだ物が乏しい時代に小学生に腕時計はぜいたく品であった。しかもルビー付きとは!私は有頂天になり大事に机の引き出しにしまいこんで、特別なお出かけの時にしかはめなかった。ハンカチのコレクションやミニチュアの人形セットとは別格の本物の宝ものだった。
ある時、偶々ふだんあまり親しくもない少女とはなしをしているうち、彼女の自慢話になり、外国のおじさんから贈られたという様々な宝石の話が語られた。私は思わず「家にだって宝石箱があって真珠やダイヤがはいっているわ。私の腕時計だってルビーがついてるんだから」とあらぬ見栄をはってしまった。
彼女は「ふーん」と言い「今度見せて」と言った。私は「いいよ」と胸を張った。
その腕時計を彼女に見せたかどうかは記憶にない。ただずっと後になって、その時計が母のお古で、皮バンドだけ新しく取り替えた物であったことを知った。それはよいとして問題はルビーである。「でも、あの赤い石はルビーだよね」と聞くと母は「さあ、どうだろう・・・」と気のない返事をする。ついでに宝石箱についても尋ねると「おもちゃよ、みんな」と一笑に付すではないか。大見得を切ったあの日の私をどうしてくれるんだと憤慨してみたものの、すべては遠い時の彼方の出来事となってしまった。
腕時計は今もどこかにしまってあるはずだ。今更確かめる気にもならないけれど、街でピジョンブラッドといわれる輝く石を目にする度に「私の時計はルビー付き」と思わずつぶやいてしまう私なのである。


「絶妙なる連携プレー」やまこさんのエッセイ

「あと10分!」
試験監督の声に重なって、キミが訴える。
文字盤に目をやって、ぎゅっとえんぴつをにぎりなおす。
「大丈夫、あと10分ある。絶対解ける」
自分に言いきかせて、神経を集中。
「三角形の一辺が2pで角度が・・・」
その間も、秒針はチッチッチッ。えんぴつの先は動かない。
(もう1分たったよ。はやく、はやく)
キミがイライラとせかす。
「分かってる。ちょっと待って。なんとかするから」
あせる気持ちを抑えて文字盤をにらむと、短針と長針が目配せして
(OK。しばらく静かにしてるから頑張ってね)
見守ってくれている。
「・・・・・・」

「ヤッタ!分かった!」
心臓ドキドキ。手が震える。
「あと5分!」
キミも緊張気味にアドバイス。
(落ち着いて。計算間違わないで)
「うん」
えんぴつで頭のなかの答えを答案用紙に転記していく。
「あと1分!」
ミスしないように・・・。
秒針はチッチッチッ。
記入完了。
「デキたっ!」

憧れの中学校への入学試験。チャンスは1回だけ。一生懸命勉強して、何度も復習して、とうとうやってきた1度キリの本番。小学生に受験勉強なんてかわいそう? プレッシャー? そんなふうに見る人もいたかもしれないけれど、やってる本人は結構楽しんでいたなぁ。問題を解いていくスリルと集中力、それに達成感。真剣勝負のゲーム感覚で制限時間内に問題を解く。もちろんキミのおかげだったけどね。時間との戦いを助けてくれた相棒の黄色い腕時計よ、ありがとう。絶妙な連携プレーだったね。
あの頃いつも一緒だったキミは、合格祝いに新しい腕時計をもらってから、どこへいったのか見あたらなくなってしまった。中学受験から15年、あれほど真剣に何かに集中することもなく過ごしてきた私は、ときどきあの頃を思い出して、押入れやら屋根裏のダンボールをひっくりかえしてキミを探すけど、やっぱり見つからない。集中力と一緒に、キミも消えちゃったのかなぁ・・・。相棒の黄色い腕時計。


(注)「思い出の時計エッセイ募集」に送っていただいたエッセイの著作権は、セイコーインスツルメンツ株式会社に帰属します。
   予めご了承下さい。