応募期間 2003年1月10日〜2003年12月31日





1年間を通じて、あなたと腕時計との出会い、思い出を綴ったエッセイを募集します。優秀作品は、月ごとに月間ベストエッセイとして発表、月間ベストエッセイ受賞者には、「kodomo-seikoオリジナル腕時計」をプレゼントいたします。あなたの腕時計の思い出、そしてあなたが腕時計と共に過ごした時間のことを800字以内で書いてお送りください。皆様からの応募をお待ちしております。

 


2003年の作品
1-2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

6月の作品(19作品)

「回復室」畠山 恵美さんのエッセイ
「時間の交代」丸山 ひろ子さんのエッセイ
「時計の止まる日」南 十子さんのエッセイ
「私とあなたの内緒話」堀田 知沙さんのエッセイ
「お医者さんの鳩時計」藤田 昌子さんのエッセイ
「柱時計、十年後の真実」田口 厚さんのエッセイ
「電光掲示板」佐野 真知子さんのエッセイ
「目覚時計と一緒に頑張った歳月」吉田 淳子さんのエッセイ
「柱時計は家財道具?」布袋 悦子さんのエッセイ (6月のベストエッセイ)
「初めて時計を習った日」前谷 雅子さんのエッセイ
「おばあちゃんの赤い腕時計」鈴木 真由美さんのエッセイ
「祖父の腕時計」後藤さんのエッセイ
「ジンクスの腕時計」宮野 和恵さんのエッセイ
「早く時間よ 過ぎて」林 さくらさんのエッセイ (6月のベストエッセイ)
「気味悪い時計」nocho7さんのエッセイ
「失くした時計」こさか よういちろうさんのエッセイ
「遅刻」原茂 敬浩さんのエッセイ


「回復室」畠山 恵美さんのエッセイ

秒針の音で、気がついた。薄目で見回すと、手術前に言われていた部屋ではないらしい。「生きてるんだ」って、ぼんやり確認できた瞬間、また秒針の音が聞こえた。『この音はイヤだ』。
左乳がんの手術だった。温存、おっぱいは残った。でも、きっと切ったところには長い管(ドレーン:体液排出管)があって、右手は点滴で固定されている。麻酔がまだまだ効いているらしく、動けそうもない。
60秒に1回、秒針は時計の表面のどこかに、ガシッとこすれる。あと、12秒に1回、たぶん隣の部屋の人工呼吸器の膨らみしぼむ音がする。どっちも、カンに触る。でも、身体が動かないのだから、我慢するしかない。でも、我慢できない。口がきけないから、誰にも伝えらえない。この部屋には、窓がない。私の体臭が、薬臭い体臭になって、私を包む。ガシッ、プー・プシュウ。「あー、もういったいなんだっていうの。動けるようになったら、絶対にこの時計、ぶっ壊してやる。人工呼吸器もだ」。 それから、2日後に、私は元々の病室に戻った。空が青くて吐きそうで、イライラした。あの部屋にいた時、台風が行ったらしい。

それから、4年後、今度は右乳がんの全摘手術のために、同じ病棟にいた。「手術の後、あの部屋だけはイヤです。あの時計がイヤです」って言った。でも、もうあの窓のない部屋は、機材室になっていた。そして、あの時計もすでに、なかった。
今度は、窓のある回復室だった。出血多量で再手術って、主治医がドタバタしてるのを他人事のように思いながら、音のしない時計を見ていた。日付が変わろうとしていた。でも、夢だったかも。窓のある回復室には、時計がなかったかもしれない。

それから、また2年経って、左乳房は丸7年、右胸は丸3年目に入った。命の時間は、ちゃんと時を刻んでいる。
ガシッ、プー・プシュー。この、今の命が、一番最初に聞いた音、秒針の音。


「時間の交代」丸山 ひろ子さんのエッセイ

得体のしれない「音」に、せかされている夢を見た。
目覚めて「あっ、これだ」と、気づいたのは、わが家の柱時計である。しばらく、その時計の秒針を見ながら音を聞いていると、1秒間に2度「カチカチ」と忙しそうに動いている。思えば毎日毎日、この時に合わせて、せかせかと人生を送ってきたのである。
とにかく、時計を替えたいと思い、店に出かけた。さまざまな時計が陳列してある。私は第一条件として、秒針が1秒ごとに1度だけ動くこと、数字が記されて、見やすいこと、などを基準に選別していると、目にとまったのが「振り子時計」である。
私が子供のころ、岡山大空襲で家を焼かれた。農業を営んでいた祖母の家で2年程、暮らしていたときのこと。静かな夜に、振り子の音が「コチコチ」と耳に心地よく響いた、懐かしい記憶がよみがえった。
世の中、いくら、スピード時代になった、とはいえ、時を刻むのまで、イライラと進む必要はないと思う。1分は60秒、1日は、24時間に変わりはないのである。
さっそく、この時計を買い求め、今まで世話になった柱時計と交代してもらった。左右にゆれ動く振り子が、私にせかせかしないで、ゆったりした気分で、過しなさいと、告げているように感じた。


「時計の止まる日」南 十子さんのエッセイ

ぼくの家では居間を時計の部屋と呼んでいる。部屋の主は大きな数字の黒ぶちの丸時計とおじいちゃんだ。何年も何十年もみんなを引っ張って力強く一日を回してくれたぼくの家の大切な大切な宝物。
「ハッハッハッハッ」今、おじいちゃんはぼくの目の前で人の何倍も呼吸をして、それでも息を吐き出せないで、空気人形のように膨れ上がって横たわっている。労働者の街・川崎。何十年も前におばあちゃんと二人でこの街にやってきたおじいちゃんは死に物狂いで働いた。いつもドブネズミ色の作業服と作業帽でにこにこしながら川崎の工場街をたったひとりで歩き回って仕事を取っていた。見知らぬ土地で自分の居場所を見つけるために何も考えず、何も疑わずに生きてきた。毎朝出かけるときに丸時計に手を合わせていたのは前に進む勇気をお願いしていたんだね。そんなおじいちゃんを大きな会社の人たちは「オヤジ」と呼んだ。景気が良くなっておじいちゃんは大きな家を建てた。お昼ごはんには必ず家に帰ってきて、台所からはおじいちゃんの大好きなネギ入りの卵焼きの匂いとおばあちゃんの明るい笑い声がした。突然おばあちゃんが死んでおじいちゃんはひとりぼっちになった。ぼくは仏壇の前に座ってぽろぽろ大きな涙を流していたおじいちゃんを何回も見た。それからおじいちゃんはよく旅行に出かけるようになった。金曜の夕方に出て日曜に帰ってくるおじいちゃんをぼくは駅まで迎えに行った。大きなリュックを背負って笑顔で改札口から出てくるおじいちゃんとぼくは手をつないで家に帰った。あの幸せな時間をぼくは忘れない。
ぼくはおじいちゃんの手を握った。おじいちゃんも握り返してくれた。あのときと同じ大きな手。「もういいよ。もう行きな。おじいちゃん」おじいちゃんの時計はもうすぐ止まる。


「私とあなたの内緒話」堀田 知沙さんのエッセイ

ねぇ、おぼえてる?私とあなたが初めて出会った日のこと。
私の誕生日の日だったよね?
あなたは流行のG-shockじゃなくてC-shockやったけど…
怒りも悲しみもあなただけが私の感情の全てを知っている。
あなたのおかげで私は色んな人と仲良くなれたよ!
あなた自身からかわれてばっかりで不快だったかもしれないけど、私はあなたといれて楽しかった。
あなたはすごいね!存在だけで皆の笑顔を引き出してる。
私もあなたのようになりたいなぁ。
ねぇ、久々に散歩しようか。
青空の下のんびりと…
その時には私にも愛するひとがいるといいなぁ。
約束だよ!先に止まっちゃイヤだよ!
ず〜っと待ってるからね。
二人で時をきざんでいこう。これからもずっと…


「お医者さんの鳩時計」藤田 昌子さんのエッセイ

実家の近くに幼い頃通っていた診療所があった。優しそうなおじいさんと腰の曲がった奥さんの老夫婦が二人でやっていた小さな診療所だった。私と兄は風邪をひくと母に連れられてよく行ったものだ。お医者さんに行くのはとても嫌だったが一つだけ楽しみにしていた事があった。診察室に掛けてある鳩時計に会える事だ。診察室に入って椅子に座ると先生の頭越しに鳩時計が見える。運が良ければ白い鳩が窓からポッポーと鳴きながらそのかわいい姿を見せてくれる。その一瞬が幼い私にとってはたまらなく胸躍る瞬間だった。もちろん見れない日のほうが多く見れた時は「やったぁ!今日は鳩が出てきてくれた!」と心の中で叫んだ。注射の時はじっとその鳩時計を見つめて「鳩さん今日は何してるんだろう・・」と考えながら自分なりに気をそらしていた。
シーンとした緊張する診察室の中でその鳩時計がいつも私の心を和ませてくれた。私にとってその鳩時計は憧れだった。時計をもっと近くで見てみたい、あの窓の中を覗いてみたい、いつもそんなことを思いながら見つめていた。今思うとあの鳩時計が診察室にあったのは子供達を和ませようとした先生の優しさだったのかも知れない。あれから30年近く経ち今はご夫婦も亡くなられ息子さんが別の場所でお医者様をしているとか。ただその診療所は今も当時のままらしい。今は年に数回しか実家に戻らないがその近くを通る度に診療所でのこことを思い出す。先生の優しい顔、腰の曲がった奥さんの注射を持った姿が少し恐かったこと、大きな注射に恐さのあまり泣き叫んだこと、そして私の大好きだったあの鳩時計のこと。もしかしたら今でも診察室に掛かったままなのだろうかとふと思った。


「柱時計、十年後の真実」田口 厚さんのエッセイ

わが家の長男ミズキ君は、二才の頃からしきりに「ジュアン・マンマ・ボーンボーン」と謎の言葉を発するようになった。妻のことを「マンマ」とか、犬を「ワンワン」と言う程度の頃である。当然本人に「ミーちゃん、なあに?」と聞いても、答えが返ってくるはずがない。とくに妻は「マンマ」という言葉が入っているから、自分に何かを訴えようとしているのだろうと気にしていた。
謎が判明したのは、それからなんと十年も経ってからである。夕食後の団らんで、「いやいや時の経つのは早いものだね。あのミズキ君も、もうすぐ中学生か」などと、昔を思い出していた。
「ところで、あのジュアン・マンマ・ボーンボーンって何だったんだろうね?」と独り言のようにつぶやくと、「ああ、あれ、時計だよ。おじいちゃんの家にあるじゃない。十二時とかにボーンボーンって鳴るやつ」と、彼はさりげなく答えたのである。
「え〜、ミーちゃん、覚えているの!」
妻が驚いて大声を上げた。
今にして思えば、「ボーンボーン」と言ったら真っ先に思いつくのは時計である。わが家もすべての部屋に掛時計はあるが、みんな電池式の丸型だ。二才児のミズキ君には、実家にあったネジ巻きで振り子式の柱時計と、その時報がよほど印象深かったのだろう。自分なりに思いついた言葉が「ジュアン・マンマ・ボーンボーン」だった訳である。
あれは私が小学生の頃から使われていた。しばしば高い踏み台に上がり、二つの穴にネジを差し込み巻いたものだが、すぐに腕がだるくなってしまったことが思い出深い。
さすがに三十年も経つと寿命が来て、先年実家の柱時計は新しい物に代わった。
そしてその動かなくなった柱時計は・・・ 今、中学二年のミズキ君の部屋で、インテリアとして第二の人生を送っている。


「電光掲示板」佐野 真知子さんのエッセイ

スタートの大きな雷管の音と同時に、ゴールの横にあるタイムの電光掲示板が、カタカタと音を立てて動き出した。スタートはまずまずだった。歩幅を小さく、スピードに乗っていく。息をつくまも無く、気付いたらゴール前で、いつものように電光掲示板を確認した。
中学に入って本格的に始めた陸上競技は、私のやる短距離の場合、常にタイムを気にする。みんなで一斉に走るのであれば記録なんて関係ないけど、トラックには8レーンしかないから、8人ずつ何組かに分かれて走る。だから、最後は記録で順位を決める。いつしか私の時間の単位は0.01秒になっていた。
兄も姉も陸上をやっている。同じ短距離をやっている姉に、今のベスト記録を話すと、必ず、まだまだだと言われる。姉は県大会の準決勝まで進くらい強かった。ベスト記録を自慢気に話す。その記録は今の私には、どんなに追い風が吹いても無理な記録だ。顧問の先生は姉の時と同じ先生で、姉をよく知っている。悔しいので、どうしたら速くなるのかと聞くと、受験で太ってしまった姉は、その時、今の私よりやせていたという。それを聞いてから私は、食事などを考えることにした。足が太くなるのを避けていた。スクワットもちゃんとやるようにした。放課後の練習も、今までは日焼け止めを塗っていて最後までグラウンドに出なかったけど、最近はできる限り急いで済ませるようにした。
そうして2年生のシーズンに入った。まだ姉の記録には届かないけど、去年の秋とは全然違う。やっぱり姉にはバカにされるけど、すぐに追いつくと言ってやった。いつか姉の記録を私の「思い出の記録」にしてみせよう。次のチャンスは、初めて出場する郡体会だ。


「目覚時計と一緒に頑張った歳月」吉田 淳子さんのエッセイ

早起きは三文の徳という諺があるがその早起きが大の苦手ときている。
その私に嫁ぐ日が決まった。
一家の主婦ともなれば早起きは必須条件、まして舅、姑との同居生活。
娘時代は親に起こしてもらい毎日やっとの出勤、職場で結婚祝いに何が欲しいかと!即、目覚し時計と返事した私、只、音の大きさだけを強調して頂いた目覚し時計は、エリーゼのためのオルゴール付き、姿、形は立派だが音がやさしく私には子守唄に聞こえてしまう。「えっ」こんなんで目が覚めるのかしらと一層心配が募るばかり、しかし皆は「大丈夫、大丈夫」と言って励ましの言葉をくれる。
嫁入り道具と一緒に嫁ぎ先に来た。新婚旅行から帰ってきていざ出番、寝る前から起きられるかとそのことばかり、五時に針をあわせ上手くオルゴールがなってくれるかと繰返し確認し目覚し時計に拝んで頭のすぐそばにおいて横になるが何度も目が覚め熟睡出来ない。
結局毎日昼休みが終わって仕事を始めると睡魔が襲ってくる。ペンの字がミミズ状態、家では、良い嫁と言われようと頑張っていたが、職場では皆んなの好意に甘えていた当時の私だった。冬の五時起きは辛かった。毎日五つの弁当作り、要領が悪かった、五時に起きないと間に合わない今考えれば良く頑張ったものである。今では誰の気兼ねもせずその日によって自由自在に早起き、ずる寝をしている。随分と長い間お世話になったその時計は、今では音も出ず針も動かず、どっしりと構えて私を上の方から眺めている。思い起こせば「あっ」寝坊してしまった、でもまだ六時なんとかなるとおもいきやよくよくみれば七時あの時は肝を潰してしまった。本当にお世話になり改めてタンスの上に飾られた時計に頭を下げる。長い時がたった。今でもやっぱり早起きは苦手、時間を無駄にせず一日一日時を大切に前に進んでいこうと思う。


「柱時計は家財道具?」布袋 悦子さんのエッセイ (6月のベストエッセイ)

昭和38年、日本がまだ貧しく、おおらかだった頃のお話。
小学校の入学式から数日が経ち、学校にもなじみ始めたある日、担任の先生が突然、「うちにテレビがある人、手を上げて」と聞いた。
「ハイッ!」、「ハイッ!」と、あちこちから誇らしそうな手が上がり、私も無邪気にそれにならった。
「ミシンがある人」 「電気釜がある人」・・・・・
先生の質問は続き、それに応えて挙手する私は、しだいに優越感に浸りはじめた。
当時、どの質問にもクラス全員が手を上げることはなく、多くても2/3程度の挙手だったと思う。
「わたしのうちは、なんでもあるんだよ」という錯覚に陥りはじめた頃、
「時計がある人」・・・・・
えっ、うちに時計があったかな?
チクタクと振り子がゆれる柱時計、ボーン、ボーンと時を知らせるあの時計、いつか時計屋さんで見た、どっしりとしたその姿が目に浮かんだ。
みんなより少し遅れて手を上げた私は、今までの勢いはどこへやら、先生の顔をまっすぐ見ることができなかった。
「だって、お父さんの腕時計があるじゃない」心の中でそう言い訳したものの、自分がとんでもないうそつきになったようで、その日は一日心が晴れなかった。
そして帰り道、大変なことに気がついた。
もうすぐ家庭訪問!
「うちに時計がないことがわかってしまう!」

今でも実家の物置には、その時両親があわてて買った柱時計が、ほこりをかぶって眠っている。
現在の感覚では大問題になりそうな「家庭調査」だが、時計さえも家財のひとつとされた時代の、そして少し見栄っ張りだった私の幼い頃の思い出である。


「初めて時計を習った日」前谷 雅子さんのエッセイ

アレは何年生の時だろう私が時計の読み方を習ったのは、恥ずかしくも私は他の人よりおよそ一年過ぎてようやく自由自在に時計を読むことになった・・・
正直に言おう私はどんな掛け算より、割り算より、珠算より、時計が苦手だった、一なのに五分、二なのに十分、十二なのに六十分そんな、とんでもなく不可思議な機械である。
我が家は当時家族全員仕事を持っていた、私の時計学習の遅れなど気にしている者はいなかった、居るとすれば、友達位だろう、遊ぶ約束にも時間は必要である。
ある日心配した担任の先生が家に電話を掛けてきた。
「時計問題に多少遅れがあるので家でも指導していただきたく・・」びっくりした家族は、近所の塾の先生に駆け込んだ、塾といっても、教員経験のある主婦が、自宅で近所のかぎっ子達の宿題を指導していた、それはそれは、気の長い奥さんで、今でも覚えているが、下手な先生より指導上手であった、一ヶ月もたたないうちに時計をマスターし、その場所が気に入った私はそれから、宿題を持っては訪ねる事なる。
小学校卒業まで数年通った。月謝は昭和50年前後2000円だった、今なら子供が殺到するに違いない、お寺の奥さんなのにクリスマス会まで開いてくれて、かぎっ子達の第二のお母さん的存在だった。そんな母ちゃん先生に再開した、偶然実家の近くのスーパーで、「あら!マーちゃんじゃない?」後ろから急に離しかけられびっくりして振り返ると、多少背中がかがんだ先生がやはりあのときの笑顔で立っていた、確かアノ当時は「おばちゃん」と呼んでいたが、どういうわけか私の口からは「先生!」と声に出た。「お元気?結婚したの?」ありきたりな会話であるが、そこにいたのは37歳の私ではなく確かに10歳の私だった。


「おばあちゃんの赤い腕時計」鈴木 真由美さんのエッセイ

今でも明るく貧乏な鈴木家であるが、当時はもっと貧しかった。

私は3才くらいだっただろうか。2人目の弟が生まれるため、祖母が母の出産準備のために我が家を訪れていた。

どうしても腕時計が欲しくてねだった記憶が微かにある。欲しいものでも買ってもらえないのが当たり前だったので、そう滅多に物をねだったことはなかったのだが。理由は忘れたが、欲しかった。

器用な祖母は、私のために毛糸で腕時計を編んでくれたのだった。
今でも鮮明に覚えている。シックな赤い色をしたその時計の丸い文字盤は白く縁取りされていて、時刻は常に、大好きなおやつの時間、3時を示している。

先日、祖母からお金が届いた。大学を卒業したのに未だ就職が決まらない私のために。でも今回は素直に喜べない。私だって、働きながら一生懸命努力したのにこの有り様。悔しいよ。情けないよ。憤りさえ感じる。年金暮らしの祖母に心配をかけるなんて。

あの腕時計は今どこにあるのだろうか。


「祖父の腕時計」後藤さんのエッセイ

数年前、九十五歳で亡くなった祖父の遺品の中に、米国製の腕時計があった。後生大事にハードケースにしまわれて腕時計を、祖父を一度もはめたことがない。父の話からすると、終戦後、駐留米軍の将校と、祖母の肩身であった京都友禅の着物と物々交換したものだった。食べ物に困っている家族たちの気持ちを無視した祖父の行為に、祖母も父も怒った。世間では、餓死者が出たほどの時代に、祖父は、親戚たちからも軽率となじられた。
祖父の葬儀のとき、彼の友人が「おたくには、立派な時計があるそうですね。家宝伝来の腕時計らしいと故人は自慢していたな」との父が聞いた。戦争で家も家財もすべて燃えてしまった中で、祖父はあの腕時計を家宝として、家族たちの象徴にしたかったのだろうか。その話のあと、父は仏壇の奥にそれを油紙で密封して、門外不出にした。
今度、その腕時計を見られるのは、父の葬儀の日だという。祖父は何の遺言も残さず、この世から消えた。だが、沈黙のままに腕時計だけは残った。それが今でも動くのかどうでもいい。ただ、それがわが家の家宝としての地位を得た事実だけがある。父もきっと、私に内密に腕時計を残すだろう。残った者たちが、その家宝を家宝として新しい物語を作ろうか。


「ジンクスの腕時計」宮野 和恵さんのエッセイ

私がずっとずっと小さかった頃の話。時計と言えば、壁に掛かってあるもので、親が持っていた腕時計が羨ましく思っていたものです。そんな時、私が手にした時計というのはというと、絶対右腕にはすることのできない時計─そう、右ききなので、左腕に直接書いた腕時計だったのです。時間はいつ見ても3時。おやつの時間です。数字はもちろん、ベルトの穴までかいていたような気がします。
いつの頃のことか憶えていませんが、おそらく、小学生の頃、私の記憶の中の1番最初の腕時計というのは、スヌーピーの絵が描いてあり、ベルトは茶色っぽい色だったように憶えています。
どうして、その時計だけ頭の中にあるのかというと、誰かに買ってもらったというのではなく、何故かその時計をはめて寝ると自分が起きたい時間に起きることができたのです。5時に起きようと思うと5時に、6時に起きようと思うとその時間にというように。別に早く起きて何かをするわけではなかったので、また、寝てしまうのですが、自分の決めた時間に目が覚めるというのが嬉しかったのです。そのころの私は、何かジンクスのようなものを感じていたのでしょうか?
思い出に残っている時計がもう1つ。OLをしていた頃。通販で買った腕時計で、文字盤が1・2でも、T・Uでもなく、壱・弐と書かれてあった時計。今はもう動かなくなり、ベルトも切れ(特殊だったため、ベルト直しができませんでした。)てしまいましたが、すごく気に入っていたため、ばだ、捨てられずに、私の宝箱の中で、眠っています─おそらく。
私自身、携帯電話を持つようになってから、腕時計をしなくなり、たまにしても、「何時かな?」と思うと、ついつい携帯電話を見てしまいます。昔に比べると、いろいろなデザインの時計が世の中に出回っているのに、ちょっと損をしている気分です。


「早く時間よ 過ぎて」林 さくらさんのエッセイ (6月のベストエッセイ)

私が高2の時、遠方の男子高校生A君と文通を始めました。まだ顔も知らないので相手を想像しながら楽しく手紙のやり取りをしていました。ある日彼からこんな手紙が届きました。-僕は、今日も郷ひろみと間違えられてしまった。よく間違われるので困ります。当時、ひろみのファンだった私はすっかり彼へのイメージがひろみになってしまい、私も手紙に1度だけ似ていると言われたことのある小泉今日子似と書いて出しました。まもなく電話番号も教え合い、電話でも話すようになりました。彼は私の声を聞いてますます会ってみたくなったらしく、わざわざ私の最寄駅まで来てくれることになりました。午前11時に駅の改札口で待ち合わせ、私は早めに着いて駅に掛かっている時計を見ながら彼を待ちました。約束の11時には改札口辺りは待ち合わせの人が数人いましたが、その中に高校生らしき人はたった一人、私は思わず足がすくみました。郷ひろみには似ても似つかぬヘンな顔が立っていたのです。とにかく私の苦手なフェイスだったのです。その人もこっちを見ています。さらに時計を見ながら時間の経つのを待ちました。「時間よ 早く過ぎて」と祈りました。とうとう、二人しかそこにいない状況になったとき、彼ははっきりと悟ったらしく、そのままホームに入っていきました。それで文通は終わりました。彼もまったく私と同じ気持ちだったのでしょう。一瞬にして天国から地獄に落ちた私の気持ちは今も駅の時計を見ると思い出します。


「気味悪い時計」nocho7さんのエッセイ

友達が大事にしている時計がある。ミッキーマウスのデジタル式腕時計だ。高校入学の時に母に買ってもらったのだと言っていた。
高校の頃はよく遊んだものだ。その時計にはミッキーのテニスゲームができるようになっていて、休み時間になると、遊ばせてもらっていた。ある時、いたずら心から彼女の見ていない隙にアラームを設定し、授業中に鳴り出すようにした。あわてふためいていた彼女の姿は今思い出しても笑える。もちろん仕返しもされた。そんなたわいもない遊びを繰り返していた。
大学を出て就職した時、久し振りに彼女の家に遊びに行った。机の上には懐かしい古ぼけたミッキーの時計がおいてあった。「ねえ、そろそろ新しい時計買いなよー」と言う私に彼女は、「実はさ、あたしの持ってる時計、みんな壊れちゃって、今このミッキーの時計しかちゃんと動くのないんだよね」といって、引き出しをあけた。そこにはなんと十本近くの動かない時計が入っていた。「もう、他の時計持てないんだよね〜。まあ、ミッキーが動いていればそれでいいけど」。
なんとなく気まずい空気が流れた後、「なんか気味悪いねー」と顔を見合わせてその話は終わった。
先日、高校の同級生の結婚式で何年か振りに彼女と会った。「ねえ、ミッキーの時計はまだ無事?」と私は冗談半分に聞いてみた。すると、
「あのさー、普通腕時計の電池の寿命ってどのくらい?」「せいぜい10年くらいじゃない?」「あの時計、買ってから18年経つのに、まだ動いてるんだけど・・・?」「えっ?!電池取り替えたことないの?」
「うん」「あは、、、ま、動いてるからいいんじゃない?」「そ、そーだよね?」「なんか気味悪いねー」そういってお互い強引に話題を変えた。
たぶん、これからも彼女と会うたびにミッキーの時計は話題になり、そしてお互い昔のことを思い出しながら、最後には「なんか気味悪いねー」といって別れていく、自分と彼女とミッキーの時計の三角関係の未来を想像して、少しおかしくなった。


「失くした時計」こさか よういちろうさんのエッセイ

今から約10年位前の話である。
父親が韓国の出張から帰ってきた。おみやげは、サムスン製の腕時計であった。私は、その時計が気に入り、いつも身につけていた。
大学時代、故郷に戻り、地元の友人たちと遊んだ。
そして、友人の家に、その時計を忘れてしまった。
次の朝、友人の女の子から電話があり、「私が昨日、あなたが忘れた時計を、預かっているんだけれどとりにこられる?」
「うん、いいよ」と、指定された場所に行くと、彼女が先に待っていた。
「この時計いいなぁ」私は、彼女が私に好意を抱いていた事を知っていた。
「この時計私に頂戴!」「大切に使うから」とにっこり笑って彼女は言った。
「ゴメン、その時計は父親からのプレゼントだから・・・」
彼女は「わかった」と言い、私に時計を返し、その場を去った。
その後、大学のある埼玉に戻り、私は、大学の友人と酒を飲み、酔った勢いで、河原で友達と相撲を取っていた。その時、その時計が外れて、川に流されてしまった。結局、時計は見つからなかった。
あの時、彼女に時計を渡していたらと思うと、今でも心苦しく思う。
青春の苦い思い出である。
それ以来、私は、腕時計をつけた事がない。


「遅刻」原茂 敬浩さんのエッセイ

「もう50分よ、いい加減にしなさい。」母のこの言葉は私にとって人間の限界を超えさせるに充分な言葉だった。飛び起き、食事も摂らず、カバンを持って走り出す。駅まで6分。並行して走る線路の側道が駅への一本道である。遠くの踏み切りの警報機が鳴リ始める。どんどん近くの踏み切りに移ってくるように、警報音が迫ってくる。電車の音も大きく迫ってくる。気が焦る。そこで駅前の階段である。階段に着くのが電車より早ければ飛び乗れるが、遅れればいくら頑張ってみても無常なドアは目の前で閉まってしまう。そんな大事な時を告げる大きな柱時計が家にあった。そのゼンマイを一週間に一度巻くのが私の役目だった。ある時、時計を家族に黙って10分程進めたことがあった。翌朝、母に起こされてもいつものように慌てず、10分のゆとりを謳歌していたが、駅について愕然とした。母が時計を元に戻しておいたのだ。「バシッ。」背中で竹刀の音が鳴った。遅刻者に対する高校の罰則である。痛かった、その時ほど時間の正確さ必要だと痛感したことはなかった。今も我が家で時を刻んでいる柱時計。ゼンマイを巻きながら昔話ができる時計へと成長している。


(注)「思い出の時計エッセイ募集」に送っていただいたエッセイの著作権は、セイコーインスツルメンツ株式会社に帰属します。
   予めご了承下さい。