応募期間 2003年1月10日〜2003年12月31日





1年間を通じて、あなたと腕時計との出会い、思い出を綴ったエッセイを募集します。優秀作品は、月ごとに月間ベストエッセイとして発表、月間ベストエッセイ受賞者には、「kodomo-seikoオリジナル腕時計」をプレゼントいたします。あなたの腕時計の思い出、そしてあなたが腕時計と共に過ごした時間のことを800字以内で書いてお送りください。皆様からの応募をお待ちしております。

 


2003年の作品
1-2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

12月の作品(51作品)

「結婚時計」福重 陽子さんのエッセイ
「長い一日」M松さんのエッセイ
「船出の時」中島 めぐみさんのエッセイ
「マサキ時計」川村 明海さんのエッセイ
「せつない腕時計」中崎 栄子さんのエッセイ
「嘘吐きの時計」伊藤 一歩生さんのエッセイ (12月のベストエッセイ) 優秀賞
「からくり時計」佐藤 眞弓さんのエッセイ (12月のベストエッセイ)
「長い針」戸高 久美子さんのエッセイ
「捨てられない腕時計」細江 隆一さんのエッセイ
「指輪時計」山本 由美子さんのエッセイ
「自転車屋の時計」鈴木 久仁子さんのエッセイ
「10時にここで」原田 聖子さんのエッセイ
「哀れ、目覚まし君」土谷 晶子さんのエッセイ
「ママちゃま時計」和泉 まさ江さんのエッセイ
「時計がインコに!?」小椋 美穂さんのエッセイ
「偶然の確率」木村 奈緒子さんのエッセイ
「未来へ」桝井 幸子さんのエッセイ
「ドラゴンを探して」立花 流迦さんのエッセイ
「思い出の目覚まし時計」北沢 万里子さんのエッセイ
「時計とビラ貼り」宮崎 宜和さんのエッセイ
「わたしの目覚まし時計」木暮 礼子さんのエッセイ
「二つの時計」小堀 彰夫さんのエッセイ
「夕焼け」畠山 恵美さんのエッセイ
「永遠の宝物」はなさんのエッセイ
「海のベストパートナー」大坪 雅子さんのエッセイ
「腕時計に歴史あり」久遠 とわさんのエッセイ
「1日48時間時計」オデッセ−さんのエッセイ
阿部 絵里さんのエッセイ
「舞鶴の腕時計」せたまさおさんのエッセイ (12月のベストエッセイ)
「初めての腕時計」とむちゃんさんのエッセイ
「お父さんの時計」宇香里さんのエッセイ
「はじめての腕時計」亀川 富雄さんのエッセイ
「祖父がくれた時計」高橋 佳代さんのエッセイ
「腕時計のトラウマ」竹田 紀子さんのエッセイ
「新しい時を刻む」黒澤 麻里子さんのエッセイ
「はじめて見た腕時計」矢崎 迪さんのエッセイ
「多機能腕時計で知ったこと」東元 正臣さんのエッセイ
「本当に欲しかったもの」金子 雅人さんのエッセイ
「ヒヨちゃんと私」高橋 恵さんのエッセイ
「大好きな時間」岸本 梓さんのエッセイ
「心・時計」マロンさんのエッセイ
「「4」と私」唐戸 健治さんのエッセイ
「欲しかった時計」原 真美さんのエッセイ
「初めてのプレゼント」関 圭子さんのエッセイ
「母からの腕時計」川村 雅和さんのエッセイ
「古い時計」足立 勝美さんのエッセイ
「刻一刻、時計さん告げる」丸岡 転助さんのエッセイ
「父のプレゼント」竹内 ゆうじさんのエッセイ
「懐中時計」ろうさん さんのエッセイ
「おそろいの時計」一姫さんのエッセイ
「時計を見ない時間」藤本 博美さんのエッセイ


「結婚時計」福重 陽子さんのエッセイ

我が家には遅れてチクタク動く掛け時計がある。
何度治しても次の日にはチクタクとゆっくり動く掛け時計。
結婚33年目の父と母の結婚記念日の掛け時計。
父と母が結婚をしたときに記念として作られた時計。
一緒に歩んできたのだ。何度も新しい時計と買い替えたらと進めても両親は変えることをしない。気持ちは分かる。私は記念だから大切に保管をして時計は時間を計るものだから新しいのを買うべきだと言うのに決して変えようとはしない。
遅れる度に時計の下にあるネジを回して合わせる。でも次の日にはまた5分くらい遅れている。
この時計はこれからもずっと我が家の掛け時計として生きていくだろう。
多少の時間のずれは多めに見るとしよう。この時計は時間を計る物ではなく家族の温かさを計る物なのかもしれない。遅れては手でネジを回して治す。
これを何年も続けている。今では誰も何も言わない。この遅れる掛け時計は我が家では当たり前になってしまったのだ。気付いた人が治す。
父と母が出会い結婚をした。そして私達が生まれた。家族の成長と共に一緒に歩んで来た時計。チクタクとゆっくり進むのがほほえむように思えて来た。ずっとこれからもチクタクと一緒に歩んでいくことだろう。


「長い一日」M松さんのエッセイ

「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
看護師にそう言われてから、もう二時間半が過ぎた。しかし、病室に妻のベッドはなく、その場所がぽっかりと空いている。
眼鏡をかけた神経質そうな担当医師から、胎児の頭がやや大きく、また産道が十分に開いていないため、帝王切開したほうがリスクは少ない旨を告げられ、手術に同意していた。二時間もかからないということだったが、予定の時間をかなり過ぎている。
病室には似つかわしくない黒い革のソファに私の母と妻の両親が座り、私は腕組みをしながら壁の時計を睨む。
「おっぱいの出をよくするのにお餅がいいらしいわねえ」
「大豆製品や胡麻も毎日摂らなくては」
「喉渇いたわねえ。冷蔵庫に冷たいお茶があるから飲みましょうか」
親たちは孫の誕生に会話が弾んでいるが、その輪の中に入っていくことができずに、悪い考えばかりが頭に浮かぶ。
―医療ミスか
―学者タイプの医師は、執刀に問題があるのではないだろうか
目に力を入れて長針を二回転ほどぐるぐると回し、戻ってきた妻とぽつりぽつり話をしている時間になれ、と念を送ってみるが、壁の時計は冷静に時を刻み続けている。
部屋がオレンジ色に染まり、次第に弱くなり、薄暗くなってきた。
再び時計を見る。もう何度目だろう。
そのとき廊下で看護師の声がし、ドアが勢いよく開いた。妻の顔が見える。
「よくがんばったわねえ」
二人の母が仲のよい姉妹のように同時に声をかける。私は言葉が見つからず、ただ黙ってうなずいただけだ。
目の端で時計がダリの絵のように歪んでいった。


「船出の時」中島 めぐみさんのエッセイ

毎年、年末のこの時期になると思い返す、ある時計にまつわる話をしよう。その時計は今、私の部屋のピアノの上の特等席で、元気に時を刻み続けている。
木に似せた明るいブラウンのフレームの中にある、直径20センチ程の文字盤。そこには、古い世界地図が描かれており、その下では、帆船を象った金色の振り子が、過去から未来へと、片時も休まずに時の大海原を航行している。周囲を海に囲まれたこの日本では、何か新しい生活を始める時に、「船出」という表現をよく用いるが、この時計は私にとって、その外見を抜きにしても、そんな「船出」を象徴している。
この時計には、忘れられない貴重な思い出が、ぎゅっと凝縮されている。その時期の私は、人生の中でただ一度だけになるかもしれない、先生と呼ばれる仕事に就いていた。そこでは私は教師であったが、同時に生徒でもあった。一歩教壇から離れれば、教え子たちは私の知らない多くの経験を持つ、人生の先達でもあった。この時計は、卒業を間近に控えた彼らが心を込めて選び、「一目見て気に入ったものだから」と手渡してくれたものだ。しかし、時計は、手にしてから1年と経たないうちに壊れて動かなくなってしまい、そのまま5年以上の歳月、部屋の片隅で半ば埃にまみれていた。そんな時計が、何故か急に息を吹き返したのは、数年前、両親の家からの独立を決め、荷物の整理をしていた時のことだ。これを機にもうあきらめて捨ててしまおうか、と思い始めた矢先の出来事だった。そして私は、この時計と共に、新たな人生の航海を始めた。
毎年、年末になると、毎日見ているこの時計を改めて見つめ、来年はどんな旅をしようかと考える。この時計に願えば、どのような夢も、現実に変えることができそうな気がする。


「マサキ時計」川村 明海さんのエッセイ

25歳の誕生日にマサキ君はピンクの腕時計を贈ってくれました。時計店の前で、メタルにするか、皮バンドにするか。色も、青にするのかピンクにするのか、散々迷ってういる私の横で、
「ピンクの時計をください」
と一言。
「アケミちゃんピンクがすきやろ」
この時計を、マサキ時計と名づけました

あれから2年が経ちます。
マサキ君元気にやっていますか?
マサキ時計は元気です。二人が過した時間も別れた後の時間もこの時計は知っています。この時計は私をずっと守り続けてくれたんですよ。分刻みで忙しい私には、もう片時も離せない大切な時計です。就職試験も一緒に乗り越えてくれた時計です。

知っていますか?
30日しかない月には、手で巻いてやらないと、日付が遅れてしまうのよ。
知っていますか?
文字盤のガラスに傷を付けたくなくて、仕事中にはポケットにしまってしまうことを。

マサキ時計とともにあなたの帰りを待っています。


「せつない腕時計」中崎 栄子さんのエッセイ

母が勤めていた会社の上司が、娘さんを伴い我が家によく遊びに来ていた。確か彼女が高校生で、私が中学生の頃だったと記憶している。落ち着いた物腰と、利発な瞳が印象的で、私は心密かに慕っていた。或る日、お話している彼女の手首に、チンマリ収まる時計に心奪われた。文字盤がまん丸な、華奢な腕時計だった。彼女の雰囲気と相まり、それは非常に高価な感じだった。私も熱望していたが、ハナから諦めていた。貧乏人の子沢山な家庭には、所詮無理な話だった。 
学校から帰宅すると、珍しく母が居た。私に気づいた母が、何かを差し出した。見覚えのある、あの腕時計が目の前にあった。彼女が東京の大学に進学するので、良ければ私にと言うわけだ。私は素直に喜び、腕に嵌め父に報告した。時計を手に取り、話を聞き終えた父が、憮然とした口調で告げた。「明日、時計屋に行こう。初めて付ける時計が、人のお下がりではイカン」飛び上がる程嬉しかった反面、母の不機嫌そうな顔が気になり、段々憂鬱になった。翌日父は約束を果たしてくれた。小さな長方形の文字盤に、黒革のバンドがついた、セイコーの腕時計だった。永年不仲だった両親の確執は、子供心に多少理解はしていたが、それを受け入れるにはまだ未熟だった。図らずも腕時計が、それをハッキリ教えてくれたのだ。私は今でも腕時計を手に取ると、落ち着かない。何故か切なく、心が騒ぐ。


「嘘吐きの時計」伊藤 一歩生さんのエッセイ (12月のエッセイ) 優秀賞

ぼくには嘘吐きの親友がいました。小学校からの幼馴染です。彼と友達になったのはクリスマスのこんな嘘がきっかけです。
「おれの親父、サンタクロースなんだぜ。だからおれの親父が今日お前の靴下にプレゼントをいれるんだぜ。感謝しろよな」
ぼくはすっかり信じこみました。でもそれは嘘だったのです。彼の家庭は母子家庭でお父さんは交通事故で亡くなっていたんです。彼を問い詰めると寂しそうに笑いました。
「悪い。悪い。冗談だよ」
ぼくはなんか悲しさとおかしさがごちゃまぜになった複雑な気分でした。そしてお父さんを亡くしたことをジョークでごまかそうとする彼に親近感を覚えました。
それから彼と友達になったのですが彼は年中エイプリルフールのような男でした。UFOが呼べると言ってみたり、彼女もいないくせにレースクイーンと付き合ってると見栄をはったりいつもこんな調子でした。そんな彼を嫌う人もいましたがぼくは彼にひかれました。彼の嘘は人に害を与えるものではなかったから人を楽しませるものだったからです。
大学に入った頃、彼が言いました。「おれ癌でもうすぐ死ぬんだ」ぼくは最初は全く信じませんでした。でも病院に入院してやせ細り髪の毛が抜け落ちた彼を見た時、そのことが真実だったと知りました。ぼくが病院に見舞いに行った時です。彼はブランド物の時計を差し出しました。
「これやるよ。おれもうすぐ死ぬからさ。百万はする時計だぜ。大切にしろよ」
彼はその後死にました。彼の時計はブランド物の偽物でした。ロゴのマークが全然違っていました。でもぼくは毎日その時計をはめています。会社の同僚にからかわれたり、すぐに動かなくなったりするけどいつもその時計をはめています。彼と一緒にいるような気がするからです。彼の最後の嘘だから、嘘吐きの時計だから大切にしたいんです。


「からくり時計」佐藤 眞弓さんのエッセイ

我が家のリビングの壁には、一時間ごとに時を奏でるからくり時計が掛かっています。この時計は、新築祝いに、兄夫婦がプレゼントしてくれた物です。
あれから丸7年が経ちました。
中学1年生だった娘は、もう20歳。小学生だった息子も、高校生になりました。
家を建てると同時に飼った、白柴のメスのさくらも、お転婆ぶりが姿を消し、穏やかな犬に変身しました。猫だけに反応して吠える、人懐っこい犬です。
7年前の夏、新しい家に家族4人で引っ越し、日当りの良すぎるリビングで、とても幸せな時間を過ごしました。
それは当たり前のように、途切れる事無く、流れて行くものと信じていました。
でも、今、何かが足りないのです・・・。
そう、この家の主がいなくなってしまったんです。
転移性の癌で急逝してから、5年目の冬を迎えようとしています。
あの時と同じ、どんなに電池を新しくしても、必ず15分進んでしまうからくり時計は、今日も変らず時を刻んでいます。
タクトを持った人形は、絶えず体を横に振り、一時間ごとに3つのトロンボーンが光り、それを持った人形達が前後に揺れ、曲を奏でます。
父親が亡くなってから、子供達は鍵っ子になりました。
販売の仕事を選んだ母親は、夜、暗くならないと帰って来ないからです。土曜も、日曜も、年末年始も、子供達は寂しい時を過ごして来ました。
最初に帰宅した子供は、誰もいないリビングで、からくり時計が奏でる曲を聴きながら、もっと寂しい気持ちになるのを、ジッと我慢して来ました。
夜中まで残業をし、疲れて帰ってきた夜に、からくり時計が奏でる曲が響くリビングで、悲しくて、寂しくて泣いたのも、今では懐かしい思い出です。
タクトを持った人形をみつめると、「今日も一日、頑張ったね!」って、話し掛けてくれるような気がします。
娘が高校生の時、非行に走り、毎晩のように繰り広げられる親子のバトルを、そっと彼女はみつめて来ました。
愛犬のさくらは、隙あらばリビングに侵入しようと、いつも玄関で様子を窺っています。時折、私の目を盗んでは一目散に入ってきて、机の下に隠れる様子も、彼女は笑って見ています。
母親の身長をはるかに超してしまった、生意気盛りの長男が、「真面目すぎる母親は嫌いだ!」と、大声で怒鳴る声も、彼女は気の毒そうな顔をして、聞いています。
一緒に子育てするはずだったパートナーを亡くし、不安で、心細くて、逃げたくなる私の弱い心を見透かして、黙って見守って来たのも彼女です。
私達親子の今までをみつめてきた時計、これからもずっと一緒に、時を重ねる事が出来たら、と思っています。


「長い針」戸高 久美子さんのエッセイ

夕闇が迫っていた。「こんなことってあるの」私は、ベッドに備え付けられた時計を見てつぶやいていた。この病室に案内されてすでに数時間が経過していた。入室時、看護婦さんは、「痛くなったら呼んでくださいね」そう言って頭上のブザーを指したが、いっこうに必要としなかった。
その日の朝、待ちに待ったお産の兆候が私の体に訪れた。すでに出産予定日を五日過ぎていた。いよいよだ。三人目だし、あっという間に生まれる。昼頃だろうか、あるいは午前中に産声を聞くことになるかもしれない。そう確信した。
しばらくすると、陣痛の前触れを思わせるかすかな痛みを感じた。すぐさま病院に向かった。痛みは徐々に強くなるはずだった。だが、浜に打ち寄せる波は怒濤にならなかった。それどころか、引き潮のようにすごすごと姿を消していった。
長女を生んだ時も、その二年後の次女のお産もせっかちな私らしく、あれよあれよのスピード出産だった。三回目のお産は三回目にして初めての経験だった。
「こんなこともあるんだ」夜の深まりとともに焦りはなくなっていった。ベッドに横たわって時計を見続けた。長針が動く瞬間を幾度も見た。果てしなく長い時間に思われたが、限りなく穏やかな時間だった。体内の小さな命は、私の中に少しでも長くいたいと思っているようだった。
あの時、のんびり生まれてきた息子も今や六歳。まだ、時計の針が示す時間を読むことはできない。そんな日常の中で、私が入浴や就寝、登園を促すと彼は決まって問い返す。
「長い針がどこにいったら寝るの?」
「長い針がどこにいったら出かける?」 
息子は時計の長い針を頼りに日々行動している。時計を読む練習もいずれ必要だろうが、もう少し先でいいと私は思っている。


「捨てられない腕時計」細江 隆一さんのエッセイ

高校入学の祝いに親父に買ってもらった時計。もう使って20年になるけど、未だに動いている。
「新しい腕時計を買いなよ」と友達が言う、彼女も新しい時計をプレゼントしてくれた。けど、やっぱり使うのは親父に買ってもらったこの腕時計。当時の値段で25000円だった。いまだともっと安く購入できるし、もっといい機能が付いた商品がたくさんある。けど、この時計は絶対に捨てられない。だって親父が当時の給料を使って買ってくれた腕時計だから。
親父は昔安い給料で家族を養ってた。いまでこそたくさん給料がもらえるけど、当時は家族を養うのでやっとだった。その思い出は全てこの腕時計が持っている。親父が死ぬまでこの腕時計、使うつもりさ。


「指輪時計」山本 由美子さんのエッセイ

大学の卒業を控えたある日、母が卒業記念に時計を買ってあげるという。高校に入学した時も時計を買ってくれ、歓喜雀躍したものだ。バンドを変えながら、長い間愛用していた。今のように時計を着替える、という時代ではなく、一つの時計を長く使っていたものだ。
私は母が贔屓にしている時計屋さんに付いていった。迷うことなく目が行ったのは、指輪の時計だった。銀色の丸い時計が、ちょうど中指に納まった。手を洗う時は外さないと、水が入ると壊れ易い、という難はあったが、デザインも上品で気に入った。ぱっと見では大きなダイヤモンドみたいだ。
指輪時計は卒業式にデビューした。おしゃれD時計は着物にも違和感なかった。私はクラスで紅一点だったが、指にはまった時計は男子の目も引いて話題を誘い私は鼻高々だった。
歳月は流れ、今年11月、大学の同窓会があった。私は10年ぶりの参加である。時計はどれにしようかと迷ったが、この指輪時計をしていくことにした。年代物だが、全然古さはなく、珍しがられて人目を引くお気に入りの時計なのだ。
大学時代から仲のよかった0君が、隣に来て開口一番に言った。「その指輪時計、覚えてるで。卒業記念にお母さんに買ってもろたって、皆に言うてたな。懐かしいわ」。驚いた。自分では忘れていたが、この時計を皆に自慢していた様だ。30年の歳月を経て、この時計を覚えてくれていたなんて、うれしくありがたいことだった。「お母さんは元気にしてはんのか」と聞かれてうなずいた私だが、彼の両親は最近他界したと聞かされた。「大事にしいや。その時計もお母さんも」と言うO君の言葉に、私は自分に言い聞かすように大きくうなづいた。


「自転車屋の時計」鈴木 久仁子さんのエッセイ

お店には大きな掛け時計があります。電池で動くのではなく、毎日ネジを巻いて動かす時計です。
それは、50年近く前に父が自転車屋の店を開いた時に贈られた物です同じく自転車屋をしていた祖父から技術を学び、二人の兄に続いて独立し、自分の店をもった二十代前半の父が希望に燃えて新天地で開いた店でした。
昭和三十年代が始まったばかりの日本は、高度経済成長の胎動を感じ若々しい活気に満ちていました。父が店を構えたのは、たくさんの人たちが工場に通うための通勤路にありました。
店が軌道に乗ったころ父は結婚し、3人の子供が生まれました。時計はすっかり店の顔となり、店の賑わいやわたしたちの成長を見守ってくれました。子供の頃、店番を言いつかって時計の前の椅子に座っていると、ふと静かな時に振り子の音が聞こえました。父が毎朝ネジを巻いている時計は、規則正しく、でもなんとなく楽しそうにリズムに乗って振り子を動かしているように見えました。
やがてわたしたちは時計のある店から巣立ち、また父と母の二人の暮らしに戻りました。時代が移り、人々は安くて品揃えのいいホームセンターやスーパーで自転車を買うようになりました。父は65歳を過ぎたときに店をたたみました。広かった店は母の希望でリビングリームに変わり、6畳ほどのスペースが父の仕事場として残されました。
70歳を過ぎた父は、今も時計の前の椅子に座って過ごしています。時折、顔なじみの近所の人が修理に訪れると、慣れたてつきでうれしそうに自転車を直しています。時計はわたしが子供の頃に聞いたのと同じように振り子の音を響かせて父の仕事ぶりを見ています。
50年間、店を家族と時代を見てきた時計は、今日も父にネジを巻いてもらって新しい朝を迎えていることでしょう。


「10時にここで」原田 聖子さんのエッセイ

数年前、スペインからタンジェ行のフェリーに乗った。港に着き下船しようとした私に、乗組員の一人が言った。「断食月なので、日が暮れてスタッフの食事が終わるまで降りられません」
窓からの異国情緒溢れる景色も闇に見えなくなった頃、私は船から開放された。降りるとすぐに、手配を頼んでおいたガイドが私を探し出してくれた。彼は日本語を全く話せない“日本人専門の”ガイドだった。彼はホテルまで私を案内すると、エントランスで言った。「明日朝、10時にここに迎えに来ます」
次の日、私は10時少し前にエントランスに出て、彼を待った。路地を行き来する人々を見ていると、すぐに時間は過ぎていった。気が付くと、10時を少しまわっていた。目の醒めるような青色をした空と、白く陽光を照り返す道。私は、その光に目を細めながら、何度も時計見た。人の流れの中に彼を見つけたのは、約束の時間から45分近くも経ってからだった。「遅刻よ」と私は、きつい語調で言った。彼は、悪びれずに答えた。「目覚し時計が壊れていた」
彼は優秀なガイドだった。日本人が好む観光ポイントをよく抑えていたし、知り合いの絨毯屋に、心が高ぶっている日本人観光客を紹介することも忘れなかった。手を変え品を変えして絨毯をすすめる店員の話を、私は出されたミントティーをすすりながら、ぼんやりと聞いていた。
翌日も、彼は1時間近く遅刻して来た。そして言った。「私の目覚ましは、故障しているんだ」私は、溜息と共に言葉を吐いた。「じゃあ、新しい目覚まし時計を買わなきゃね」「この辺りじゃ、精巧な日本製は売っていないよ」彼は笑顔で返事をすると、ガイドの仕事にとりかかった。
日本に帰ってから、私は彼と共にとった写真を、約束どおり彼に送った。その時、一緒に目覚まし時計も贈ろうと思って、やめた。正確な時間を刻んでくれる、どんなに丈夫な日本製の時計でも、きっと彼は壊してしまう。そう思って、微笑んだ。


「哀れ、目覚まし君」土谷 晶子さんのエッセイ

学生時代、大学の寮に2年間住んでいた。女の子ばかり400人、4人部屋が100部屋というスゴさである。各部屋に3畳の通称「島」と呼ばれる膝の高さぐらいの布団を敷くスペ−スが2つあった。毎晩二人ずつそこで寝る。プライバシ−なんてあったもんじゃないが、目覚ましだけは寮生全員が持っていた。学生は朝に弱い。というか夜遅いだけなのだが講義には出なくてはいけない。バイトもある。デ−トもある。各自持っている目覚まし時計がいろんな時間にいろんな音で鳴り始める。1回ですくっと起きられる人はまずいない。まさぐって音を止める。止めたつもりがちゃんとボタンを押していないからまた鳴り出す。眠いし怒れるしバシッと止めたつもりが時計は島から転がり落ち、ふたが取れ電池が飛ぶ・・・ということが毎朝どの部屋でも起こっていた。
今、私の隣では毎朝夫が目覚ましをバシッと止めx3回は繰り返している。島はないから壊れる心配はないのがうれしい。あれは本当にやってしまったほうもそばで聞いているほうも不愉快だもの。


「ママちゃま時計」和泉 まさ江さんのエッセイ

24歳になるまで目覚まし時計を持ったことがない。毎朝,ママが起こしてくれるから。とんとんとんとと階段をのぼりこつこつこつとドアをたたく。「起きないの?」とつげるとまたとんとんとんとと階段をおりていってしまう。「起きなさい」といったことはない。おもしろいなと思う。ママが起こしに来る前からベッドで目覚めているときもある。けれどママの声をききたさに起きない。時々遅れることもある。お弁当づくりに夢中になっているから。ドア越しに「五分遅刻」と叫ぶ。ドア越しに笑いあう。もうすぐ,25歳の秋にママは空にいってしまった。初めて買った目覚まし時計。できるだけママちゃま時計にちかいように,低い音のものを探した。はじめて目覚まし時計がなったとき,布団をかぶりぽろぽろ涙がこぼれた。いつか音声時計を買いたい。「起きないの」という奇妙な声をかけてくれるやつを。


「時計がインコに!?」小椋 美穂さんのエッセイ

十一月中旬、お気に入りの腕時計が突然なくなった。
それは二年前の春、彼とのデート中に新宿の電機店で購入した。値段はそれほど高価ではないが、銀のベルトで文字盤がピンクの、かわいらしいものだ。
いくら安物とはいえど、彼と二人で選んだ思い出の品物だ。なんとしてでも見つけたい。
ベットの隙間、ゴミ箱など自分の部屋のあちこちを、「探し物名人」の母と二人で探すこと、約二時間。結局、モノは見つからずじまい。
「もうあきらめなさい」
ついには「名人」さえも音をあげてしまう始末。母でさえ無理ということは、もう発見する可能性はゼロに近い。
しかし、私も一応社会人のはしくれ。持っていないと不便だ。その次の日は休みだったので、浦和の電機店に行くことにした。
三十分程度売場で検討した結果、以前より大き目でベルトが銀で文字盤が淡いオレンジのタイプに決めた。店員さんに長さを調整してもらい、代金を払った後帰宅した。
さらに翌朝。朝に弱い私はねぼけまなこでおニューを腕にはめた後、出勤仕度をしていた。
ふいに鼻水が出てきたので、箱ティッシュの中に手を入れて取り出そうとすると、いつもとは違う冷たい感触がする。
紙がこんな手触りのはずがない。何だろうと思い、おそるおそる出してみると、それはなくなったと思っていた、あの腕時計だった。その瞬間、金がムダになったと脱力した。
帰ってきてから、母に朝の出来事を話すと、「昔飼っていたインコのピピみたい」と笑われた。
そういえば、ピピはティッシュ箱の中で遊ぶのが好きな、変わった鳥だった。時計がインコになり変わってしまったような、世にも奇妙な体験であった。


「偶然の確率」木村 奈緒子さんのエッセイ

私はお気に入りの時計を三つ持っている。
アンティーク風な外観、ローマ数字の並ぶ文字盤に、月の満ち欠けが分かる機能がついている。このタイプの時計をずっと探していた。すると、とある場所で男物・女物の腕時計と懐中時計。この同タイプの三つ時計を同時に見つけたのだ。それは時計屋ではなく、学校の落し物保管庫で入手した。
当時、学校事務員をしていた私は、保管期間が過ぎた50数個もの持ち主不明の腕時計の処分に困っていた。捨てるのも忍びない。全部引き取って、毎日日替わりで使えば二ヶ月は楽しめる。が、それは辞退した。仕方ないので、気に入ったものだけをもらってきたというわけだ。
考えてみれば、なんだか不思議なことだ。
全く別々の個人が、同じデザインの時計を買い、同時期に同じ学校内で時計を紛失した。
それらが今、こうして私の所有物となっている。偶然にしては、怖すぎる。数多くある時計のデザインのなかで、彼らだけが一致していたのだから。
もう8年以上昔のことだ。しかし、もし仮に「これはわたしのものだ。返してくれ」という人がいたら、どうしよう。私も自分で購入したではないにしろ、使っている以上愛着があるので、手放したくはない。けれど、この時計を手に入れてからなくすまでの経緯を、話してくれたら返却してもいいかな、と思う。この偶然の確率の答えが分かるかもしれないからだ。
いっそ、三つの時計たちに話を聞いてみたい。


「未来へ」桝井 幸子さんのエッセイ

木製の柱時計は、当時六十七歳だった祖母が私の誕生を祝って買ったものらしい。発条(ぜんまい)が引き締まる手ごたえを感じながら螺子(ねじ)を巻く。ギーコ、ギーイ、キーコとトーンは少しずつ高くなり、重厚な装飾を身に付けた真鍮の振り子は、音叉のようにコチ、コチ、コチと小気味良い音を奏でる。バス調のボォーンという音で時を告げてくれる。
私の幼い頃、家族は三重県に住んでいた。伊勢湾台風で壊れた古い家から新居に引越した十六歳のとき、真新しい白木の柱に掛けられた時計は、どこか恥ずかしそうだった。
下ろして埃を掃ってやり、夏と冬とでほんの少しだけ振り子の長さを調整し、潤滑油を補充する。祖母の仕種に、父と母は一緒に笑い転げたことがあったらしい。大きさといい形といい、着ぐるみの赤ん坊を抱いているように見えたのだと言う。
やがて、私と父母は大阪に住むことになった。独り暮らしの祖母は米寿を迎える頃から目が不自由になり、音で日々の時間を計るようになっていた。家族に一週間分の螺子を巻かれ、時計は働き続けた。家族に看取られ、祖母は百歳の長寿を全うした。
十三回忌を迎えた日、埃を払ってやろうとしたら、振子がコチッと音をたてた。そして懐かしい日々が甦ってきた。文字盤をそうっと外すと、精密に組み込まれた部品が眩いばかりの黄金色に光っていた。潤滑油を注してから螺子を巻く。発条がプルンと体を震わせ、長い眠りから目覚めた。
丁子色だった柱時計は半世紀を経て栗茶色になり、今は千葉の私の家族と共に時を刻み続けている。祖母の年まで現役でいて欲しいという私の願いを聞き取るように。


「ドラゴンを探して」立花 流迦さんのエッセイ

去年のクリスマス。彼と付き合い始めて数ヶ月。初イベントである。新しい会社も決まり、入社祝いを兼ねて腕時計を探していた私。
会社の帰りに寄れる高島屋の腕時計コーナー。そこで一目惚れした一つの時計。フェイスにはドラゴン。あぁカッコイイ!ちょうど、メンズとレディースがある。2つ買うと2万円かぁ。。。う〜ん、予算オーバー。それに自分のは買う予定に入って無いし。悩みに悩んで、その日は買わず。後日またその売り場に。やっぱり良い!でも、彼には似合わない気がする。そう思い結局買わず。彼にプレゼントしたのは全く別の腕時計になった。一目惚れしたドラゴンの腕時計は自分用にいつか買おうと漠然と思っていた。
あのドラゴンに会って半年間、まったく忘れられなかった私は今年の夏の少ないボーナスで買う決心をした。例の売り場に行ってみるとレディースのみが無い。焦りを抑え店員の方に調べてもらった。メーカー問い合わせや他店にも問い合わせをお願いした。去年のモデルで現在はメンズのみと製造になっているそうだ。落ち込んだ私はインターネットオークションに最後の望みを託した。調べに調べた。やはり無い。すっかりドラゴンジプシーな私であった。
新しい腕時計が欲しいが、ドラゴンほど心を奪うヤツにはまだ出会えていない。一期一会。あれから私は子の言葉が頭にグルグル回っている。


「思い出の目覚まし時計」北沢 万里子さんのエッセイ

私があこがれの高校に合格したとき、父はとても喜んでくれ、町に出かけて、えんじ色の目覚まし時計を買って来てくれた。
市の郊外の女子高校まで、家からは遠かったので、早く家を出るため、毎朝目覚まし時計をかけて朝早く起きていた。 勉強机の上にいつも置き、起床や勉強、休息の時間を決めたりと、高校生活になくてはならないものだった。
高校を卒業し、東京の看護学校に進学したときも、大切な荷物の一つとして持って行った。寮生活でも、机の上に目覚まし時計は置かれていた。朝はもちろん、試験前は夜中に起きて勉強するにも、数字に蛍光塗料が塗ってあり役立った。
三年間経ち、無事一人前の看護師として卒業した大学病院に就職した時も、目覚まし時計は、ますます大切な存在になった。寮の一人部屋で、夜勤などの変則勤務で自分一人しか頼れない。その時計がないと生活できない状況だった。
ある日私は看護師長に、電話でたたき起こされたことがあった。
「あなた何してるの、今日勤務でしょ」
「えつ、すみません」
あわてて時計を見ると止まっている。電池が切れたのだ。あわてて病院にかけつけ、30分も遅刻し、たっぷり注意を受けた。
4年間勤めた病院をやめ、保健師の学校に進学したときは、初めてアパートを借りた。
目覚まし時計は相変わらず大事な存在だった。その後長野に帰って、市役所に勤め、結婚して子供ができ、仕事と育児に忙しい日々だった。
ある日、目覚まし時計が止まっているのに気づいた。電池をいれても動かなかった。父は、
「もう何十年も働いたから、お役目は十分果たしたよ」
といってくれたけど、私にはもったいなくて捨てられない。 私の青春時代をともに過ごした目覚まし時計。まだ大切にしまってある。


「時計とビラ貼り」宮崎 宜和さんのエッセイ

時計とビラ貼り
大学入学のため上京、すぐに、当時地方議員だった義兄に連れられ、衆院選のアルバイトを始めた。 
告示の一週間ほど前、当然事前運動だ。立候補予定者に紹介され、早速ビラの束と小さなノリの入ったバケツが渡され、先輩について、電柱に片端からビラを貼って歩いた。二日目からは一人だ。候補者に時計を持っているかと聞かれ、無いと答えると、机の引き出しから腕時計を三個取り出すと、今度こそは当選に成功するぞと、中の一個を私の左腕に自ら着けてくれた。これは、一時間毎に貼った枚数をチェックするためだという。
ステンレス製の白っぽい、ドシッとした重量感がある。力が湧いて、偉くなった。やっぱり東京はすごいなと、感慨に耽った。
それも束の間、左手に時計を着けたおかげで、体が左に傾いた感覚さえする。
何のことはない、時計のお陰で、自分が管理されはじめたと、反発する気持ちになった。 
高校時代の短距離の練習でストップウォッチ片手の先生から叱咤激励されているようだ。やっぱり、俺の得意の長距離のように自分のペースで走るほうが、性に合っていると自問自答が始まった。この“ちっちぇえ”野郎にこんな力があるとは知らなかった。
落ち着いて来ると、電柱は等間隔に立っていること、すでに、歩行者が目に付き易い所は別の広告があり、効果を上げるためには、他人の上に貼ること、自分が今やっている事は、違法であり、ある時間が経てば、剥がされる運命にあることが判ってきた。つまり時間との戦いであり、違法のビラ貼りは、如何に多勢に見てもらい、長時間剥がされない確率の場所と時間帯を直感的に選ぶかである。  
そう考えると着けて貰った時計に親しみも湧き、頼もしくさえなっていた。この候補者は“先生“には成れなかったが、時計を自ら着けてくれた縁で、いまでも思い出す。


「わたしの目覚まし時計」木暮 礼子さんのエッセイ

独身時代の私は、枕元に必ず目覚し時計を置いて寝ていた。お陰で仕事に穴をあけることもなく過ごせていた。四畳半のアパートで、毎日寝る前に七時ONにセットして布団に入っていた。
ある朝、珍しく目覚ましが鳴る前に、ぼんやりと時計の針を見た。二時だ!?「嘘―まさかー」と独り言を言いながら、心臓はバクバク。テレビをつけると職場である企業内託児所の開園八時ではないか。電池切れで止まったようだ。顔だけを洗い素顔でタクシーに乗った。今日は私が早番の日なので、八時に玄関の鍵を開けなくてはいけない。もう玄関で待っている人がいるはずだ。案の定、二名ほど待っている人がいた。
「ごめんなさい」と深深とお辞儀をして謝った。そこへ私が一番怖い女の主任が「ちょっと、どうしたの!」その声を聞くや否や、目の前が真っ暗、私の記憶もここまでだった。
後で解かったが、主任が話し掛けたとたん後ろに倒れ、脳震盪で意識を失い、救急車騒動になったとの事だった。
あれから三十年が過ぎている。あの時の目覚まし時計は何個電池を交換しただろう。私が結婚して、四度の引越しでやっとこの地に安住する今もきちんと時を刻んでくれている。昔と違うのは一つ、夫の枕もとで毎日六時の起床を知らせてくれることだ。夫は五十七歳、休日以外は昔の私のように、毎晩目覚まし時計のスイッチをONにして布団に入っている。リリリーンのべるの音を鳴らし、わが家の大切なサポーター役の目覚まし時計君、これからも私達夫婦の良きサポーター役をお願い致します。


「二つの時計」小堀 彰夫さんのエッセイ

丁度四十年前、二十二歳の冬、私は大阪駅の大時計の下にいた。
大時計の時刻に私の腕時計を合わせた。
私の三年間の日本一周無銭旅行の出発であった。大阪駅前の大時計との三年後の再会を誓って、その証を共有するために時間を合わせるという自ら演じた儀式であった。不安を打ち消すように両足を踏ん張って見上げた大時計は笑って励ましてくれているようであった。
私はこの大時計を親父と呼ぶことにした。
親父!三年後に会おう!映画の主人公気取りで手を挙げて別れを告げ改札をくぐった。ホームに雪が舞っていた。
それからの三年間、日本を意地になって塗りつぶすように歩いた。
旅費がなくなればバイトを三ヶ月。その蓄えで三ヶ月の行程。その繰り返しで南は沖縄、北は稚内まで。無銭旅行といえば格好がいいが、実に惨めなもの。ホームシックや病気、バイト先のトラブル。
何度挫折して戻ろうとしたことか。そんな時、腕時計を見る。時間を知るためでなく、あの大阪駅の親父時計を思い出すためである。
親父はいつの時も私を忘れていなかった。私の腕時計の中で親父はゆっくりと頷き、鷹揚に笑ってくれる。それが叱咤激励よりもはるかに私の心を癒し、前進への大きな機動力となり励ましとなった。
そして三年目の冬、親父と感動の対面。親父は何ら変ることなく、悠然とそこにいた。それが当然かのように。私はこの三年間ですっかりくたびれた腕時計を親父に見てもらえるように高く上げ、最後の時刻を合わせた。
その三年間の縁で旅行会社に入社。仕事で世界中を回ってもあの親父は付き添ってくれていたようだ。そして無事、昨年に定年を迎えた。大阪駅の建替えで親父時計は姿を消したが今も時を刻んでいる。
もう白髪頭になった私の中で・・・・・親父時計有難う。


「夕焼け」畠山 恵美さんのエッセイ

祖母は、結果的に、最後の入院をしていた。それが祖母の人徳だったのだろう。住み込みの「准看」見習いちゃんたちの人気者だった。ナースに腕時計は不可欠だ。しかし、見習いちゃんの給料では、完全防水の時計や、首から下げるナースウォッチも買えない。祖母の脈を取るだびに、腕時計を振っては、ため息をついていた。「退院したら、オレが、買ってやる。あんだだぢには、世話になったからなー」 「絶対だよ、約束だよ」。実の孫もうらやむほどだった。窓の外は、一面の夕焼けだった。それから10日もしないうちに、祖母は、夕焼けの向こう側に逝った。・・・約束。葬式が終わった翌日、私は、そんなに高くない、ちょっとだけ防水の、腕時計を3つ買って、見習いちゃんに届けた。「約束は、守ったよ」。准看護学校から帰ってきたばかりの、見習いちゃんたちは、祖母のために泣いてくれた。『おばあちゃん』とではなく、『さくゑさん』と。祖母の年若い友人だったんだね、あなたたち。夕焼けが、また美しい刻だった。・・・あれから丸8年。彼女たちは、ナースを続けているんだろうか。高らかに誇らし気に挙げてくれた、新しい腕時計をした3つの腕思う夕暮れ、夕焼け刻が、私には、ある。


「永遠の宝物」はなさんのエッセイ

「その時計かわいいね。」
それは、永年勤続の記念品として会社から贈られた商品券で買ったものだった。なにか記念になるものを買ったほうがいいとの母の勧めで、いくつかの店を回って、思い描いていたピンクの文字盤のものをやっと見つけ出した。折からの不景気で、額面が少なかったので、自分で不足分を足して手に入れた。それくらい気に入っていた。
当時私の好きだった相手が、夜のラーメン屋で、私の左腕にしたそれを見つけてこう言った。普段、身に付けているものを誉めたことがなかったから、少し戸惑った。『自分は彼女にもっと高価なものを贈ってるのに・・・。』とも思った。それとは比べ物にならないくらい、安いものだったから。
それでも私は、一生懸命探してたどり着いたこの時計を、他の誰でもなく、君が見つけてそう言ってくれた事が嬉しかった。私のちょっとした変化に気付いてくれたこと、とりたてて特別な飾りもない、ごく普通のものを「かわいい」と言ってくれたこと。その夜のことは私の大切な思い出になった。
それから、君に会えるかもしれないと思う日は、この時計を身に付けた。君を見つめながら、この時計の秒針は、いつも私と一緒に時を刻んでいた。春も、夏も、秋も、そして冬も。
今でもこの時計を見ると思い出す。君を想って一生懸命だったあの頃のこと。少し留め具がゆるくなって、最近はしまわれていることの方が多いけど、この時計を腕にした瞬間、いつもほんの少しだけ胸がきゅんとする。結局、想いが届くことはなかったけど、この時計と君との思い出は、永遠に私の宝物だ。


「海のベストパートナー」大坪 雅子さんのエッセイ

無類の海好きだ。ヨットが趣味ということもあるが、雪が舞う冬でも勤しんで出かける。その時、必ずと言っていいほど携える時計がある。ダイバーウォッチだ。手に入れたのは1983年。そう!サーファーブームが到来した時代である。
当時はファッションもディスコもサーファー一色。車にサーフボードをくくりつけてただ走り回るオカサーファーなるやからもあらわれた。ご多分にもれず、私もサーフィンを始めようと思い立った。
サーフィンはサーフボードとウェットスーツさえあればできる。だが私にはもう一つ揃えたいものがあった。時計である。それもセイコー製のオレンジの文字盤のダイバーウォッチ。サーフィンをしている人は、必ずと言っていいほど持っていたものだ。
ほどなく時計を手に入れた私は、海に通い始めた。照りつける陽射しと抜けるような青空、見渡す限りの海!それだけでワクワクする。実際、海で波と戯れる快感は、何ものにもかえがたかった。だが、心の準備が足りなかったのかもしれない。仲間もいない、彼氏もいない、常に1人ぼっち…。寂しさにふと襲われる時があった。海を100%楽しみたい!私は打開策を探った。
ある日、時計が気になって見た。すると、あら不思議!天の声が聞こえてきたのだ。「あなたはサーファーなんでしょ。サーフィンをしに海に来たんじゃないの?」次の瞬間、孤独感は吹き飛んでいた。
それから海は究極の癒しの場となった。だが天候も海の状態もいい時ばかりでない。そんな時、ついつい時計を見てしまう。するとまた天の声が聞こえてくる。「ほら、また暑い夏がやってくるよ。あの時のように楽しい夏が…」


「腕時計に歴史あり」久遠 とわさんのエッセイ

初めて腕時計を意識したのは中学生の頃だ。
学校でも身につけて構わないモノとして正式に認められ、教室の掛け時計よりも自分の腕時計で授業終了のチャイムをチラチラと確認するようになったのを覚えている。
腕時計に自分のセンスを意識したのは高校生だ。
「文字盤がローマ数字で、秒針がキチッと刻まれて、革製のベルト。あとの機能は何もいらない」シンプルでどこか懐かしい雰囲気の腕時計が好きだった。どこのメーカーだか忘れたけれど、この条件をすべて満たす腕時計があった。それはあまりにもクラスメートに気に入られ、ついにはプレゼントすることになったのを覚えている。
この腕時計は好評だったのか、シリーズ化されて文字盤や革の色が変更されつつも販売されていた。…が、一つだけどうしても気になったことがあった。電池の交換だ。
数年のある日、突然、時間を刻まなくなる。これが結構困ってしまう。親友が突然病気になったような戸惑いを感じる。ありふれた日常でのひとつの区切り。電池で動く時計の宿命。持病といってもいいのかもしれない。あるいは天命だろうか。ある日訪れる終わりの一瞬。この終わりの瞬間をどうにかならないものかなあ…と、思っている矢先、運命の出会いをした。太陽電池内蔵の現在愛用中の腕時計。もう電池交換の必要はなく、いつまでも時を刻み続けるこの時計は結婚を考えている彼女から贈られたものだ。10代の頃に比べると革製のベルトではなく、ビジネス的な金属バンドなのだが、これが今の自分には心地よかった。年齢を感じる瞬間でもある。腕時計を意識し始めて数十年。自分がしてきた腕時計は年齢とともに変化していったが、ここ近年はこの腕時計が僕の左手で時を刻んでいる。今日も規則正しく時を刻んでいる。きっとこれからもこの腕時計とは彼女同様永いつきあいになっていくだろう。


「1日48時間時計」オデッセ−さんのエッセイ

先日物置を整理してたら懐かしい特製壁時計がでてきた。大学受験時代に時間に挑戦した時の「1日48時間時計」だ。当時勉強時間を惜しんだ私は、1日を何とか2倍に活用できないかと考え抜いた挙げ句行き着いたのがこの時計だった。自分の部屋のでかい時計をはずしてその文字盤の数字をすべて書き直したのだ。通常の時計の3時を6時に、6時を12時に、9時を18時に、12時を24時という具合だ。すなわち「通常時計」が1周して12時間経った時、「特別時計」は24時間進んだことになる。睡眠時間はいつも「特別時計」の12時から6時。すなわち通常時計の0時から3時、12時から15時の2回で、この短時間2回睡眠で頭がさっぱりするのが1日2倍活用法の最大のねらいだった。やってみると意外とすんなり体が慣れて、次第に目覚し時計なしでも起きれるぐらいまでになった。睡眠でさっぱりするねらいは、期待通りでとても充実した勉強ができた。でもこれを6ヶ月も続けられたのは、やはり受験前の非常な緊張感があったからだろう。なぜなら後にも先にもこれをやることは2度となかったから。
あれから20年近く経とうとしている現在、サラリ-マンの私はやはり時間に追われている。しかし、今欲しいのはむしろ「1日6時間時計」だ。のんびり生活の方に惹かれてしまうのはやっぱり根性無しになり下がってしまったということか。よって「48時間時計」の出番はもうないかもしれない。でもどうだろう。今度7歳の息子に、お父さんも昔がんばったんだよなどといいながら、見せたりしてみようか。お父さんはいつも家でごろごろしてきたわけではないって教えてあげなくちゃ。


阿部 絵里さんのエッセイ

ちゃりんこでふらふら旅に出た。

旅の間、あたし達の時間の流れ方は違っていた。

太陽がめんどくさそうに昇る頃、あたし達も仕方なくのそのそ起きだして、朝ご飯を食べ栄養つけて次の町を目指してちゃりんこをこいだ。

太陽がぎらぎらえらそうに真上でえばっている頃、いちばんダルイお昼だ。ちゃりんこ止めてごろごろだらだら日向ぼっこ。防波堤でのお昼ねはサイコ-だった。

西日が悲しそうにまぶしくなって影が長くなった頃、あたし達は今夜の宿を探しはじめる。なかなか見つからない時は本気で途方に暮れた。

太陽が1日の仕事を終えて完全に沈んだら、あたし達の1日も終わり。

太陽が、あたし達の大切な時計だった。


「舞鶴の腕時計」せたまさおさんのエッセイ

昭和十八年三月。私が高等小学校を卒業して、茨城県にある満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所へ入所するために村を発つ朝、父は言いました。「腕時計は、どうしても買ってやれなんだが、おまえが満州へ行くときには、必ず届けてやる。渡満の日が決まったら、すぐに知を、父も聞いていたはずです。もちろん私は、腕時計がほしくてたまらなかったのですが、家にそんなゆとりなどないことを知っていた私は、「買ってほしい」とは、とても言えませんでした。父母はなんとかして、私に腕時計を持たせてやりたいと、ずいぶん算段はしていたようですが、その頃は腕時計がだれにでも買えるような時代ではありませんでした。
内原訓練所に入所して、六月に渡満の日が決まると、私はそれを知らせる手紙は、腕時計を催促するようなことは、一切触れませんでした。渡満の日は、あいにく連日の雨でした。舞鶴港は深い雨もやに閉ざされていました。
宿の一室で乗船待ちをしていた私は、面会人があると呼び出されて玄関に出て行くと、そこには着物の裾をからげた父が、濡れ鼠になって立っていました。はるばる紀州の山村から、飲まず食わずでやってきた父でした。「昌男。腕時計を持ってきたぞ。間におうて、ほんまによかったわ…」 そのときの父の姿を思い浮かべるたびに、老醜の頬を濡らす私。とうに父の齢を追い越してしまった今も…


「初めての腕時計」とむちゃんさんのエッセイ

子供の頃、秋田の叔母の家に遊びに行った時、東京では見たことが無かった大雪に怖気づいてしまったが、いろいろな雪遊びのたのしさを教えてもらい約束の2週間もあっと言う間に過ぎてしまった。明日は東京へ帰ると言う日の夜「なまはげ」がおばの家へやってきた。玄関の戸をガタガタ震わせて、大声で「わり子はいねかー」と土間より上がってきて、家中を探し回った。叔母の後ろに隠れていた私は見つけられ、頭をかじられたのを覚えている。私は恐くて泣き出してしまったが、近くにいた叔母は助けてくれるどころか笑っていた。ちょうどその時、柱時計が7時を打ち、なまはげ達は引き上げていった。私はあまりの恐ろしさと、安堵感からその場に座り込んでしまった。丁度その時、叔父が外より戻ってきて、私の手を取り起こし、2つ年上の従兄弟と私に腕時計をプレセントしてくれた。それはなまはげの絵が文字盤に描かれた時計だった。何か恐ろしいようで、でも腕時計を貰ったことが嬉しくて、従兄弟と2人腕時計をつけ家中走り回って喜んだ。東京に戻ってからも、小学校を卒業するまで、そのなまはげの腕時計はわたしに張り付いたように着けられていた。そして叔母の言っていた「良いことをしないとなまはげにかじられてしまうよ。」と言うことばと、あの恐い思いが腕時計のなまはげと重なり、悪いと思うことは出来なかった。また反対に、自分が良いことをしたと思ったとき、そのなまはげを見ると、髪を振り乱したなまはげが、口をあけて笑っているように見えた不思議な時計だった。


「お父さんの時計」宇香里さんのエッセイ

私の両親は、結婚してから30年近く、朝から晩まで休む暇もなく働いていた。自営業だった。 家には、仕事場にボンボン時計、居間には壁掛けの時計、台所には目覚まし時計があったので、母が時計をはめているのを見たことはなかった。しかし父は、私が物心ついた頃から同じ 時計をずっとしていた。色はシルバー。男っぽいごつい時計だった。

癌で入院してるときも、父は同じ時計をはめていた。
私はその時計を見ながら、自分の小さい頃のことを思い出していた。
小学生の頃、私と弟は父の時計を自分の腕にはめてよく遊んだ。
「大きいなぁ。」
時計は、手首よりもはるかに大きかった。腕を振り回すとぐるぐると回ってしまうくらいだった。

父は、入院先の病室で私達に「こんなになっちゃって」と言って、時計をつけた腕を見せてくれた。すっかりやせ細ってしまい、時計が手首でぐるぐると回るくらいになっていた。 それは、小さな頃の私達の腕のようだった。
それから、3年後。父の時計は、仏壇の横が指定席になっていた。いつからかは覚えていないが、父が亡くなった時には既に時計は止まっていた。けれど母はその動かない時計を捨てることなく、時々手にとって眺めていたようだ。
「誰か時計を合わせてくれた?」ある日の朝、母が私と弟に聞いた。弟も私も、その時計をどうやって合わせるのか知らなかったし、触ってもいなかった。母も何日か時計に触っていなかったらしい。
「お父さんが合わせてくれたのかな、、。」父の時計と、居間の壁時計を見比べて、母が小さくつぶやいた。とても不思議なことに、動き始めたその時計は時間がぴったりと合っていた。

それから一年。私が結婚する時に、母は「この時計持って行く?」と訊いた。父が生きていた時とは違った形で、新たに亡き父と母との時間を刻みはじめた時計を、私は持っていくこと
が出来なかった。私は「やっぱりお母さんが持ってて」と答えた。


「はじめての腕時計」亀川 富雄さんのエッセイ

私の机の中に古い腕時計が入っています。針も止まったままで革のバンドも擦り切れ時計のガラスもキズだらです。なぜそんな時計を置いているかと言えば私が中学に入学した時に両親からもらったものだからです。今からもう43年前のことです。ケースから出して自分の腕に初めてこの時計をはめた時のうれしかった気持ちがこの時計を見るたびによみがえってきます。そしてあのころの若かった両親の顔も。だからその後、いろいろと腕時計を買い替え古いものは捨ててきましたが、この腕時計だけはずっと私の机の中に置かれているのです。


「祖父がくれた時計」高橋 佳代さんのエッセイ

その時計は、私が小学生の時に祖父から送られた時計だった。
銀座から買ってきたというその時計は、両手に収まるくらいの小さな壁掛け時計で 私はそれを見た途端『こんな小さな時計が、銀座のどこの店で売っていたんだろう。』と思った。しかし一目それを見た途端そんな疑問は消し飛んだ。
当時の私は、六角形の茶色の壁掛け時計に非常に強い憧れを抱いていた。一時間ごとにボーン、ボーンと重厚な低音が鳴り響く時計が『時計らしい』と思っていたのだ。
自分の家には、プラスチック製のデジタル時計しかなかったので余計にそんな時計が欲しかったのかもしれない。友達の家や百貨店で茶色の壁掛け時計を見る度に、誰かがこんな時計を贈ってくれないだろうかとよく思っていた。
そんな時、私の願いを実現させてくれたのが祖父のくれた時計だった。想像していた憧れの時計とは、大分鐘も大きさも違っていた。しかし、六角形の形やレプリカの振り子は何となく欲しかった時計に似ているという事でそれなりに気に入った。私は暇な時、その時計をよく眺めては妙に偉くなった気分を感じていた。

その時計は、祖父が私にくれた最期のプレゼントになった。
私がそれを貰った数ヶ月後に、祖父は肺炎で亡くなった。
その時から、何故かその時計をあまり眺めなくなった。
祖父の命はもう動かないが、時計は秒針を刻み続ける。
その事が、少し悔しかったからだ。
何年か過ぎて、その時計も電池が切れて動かなくなった。
私は電池が切れた時計をしばらく持っていたが、ある日部屋の掃除をしていた時に思いきって捨ててしまった。

今思えば、勿体ない事をしたと思う。
あの時は時計の電池の寿命と祖父の命との間に、関連性があると信じて疑わなかった。しかし、時計を見るたび祖父の事を思い出すのなら逆に捨てない方が再び動かせば良かったと今では少し後悔している。


「腕時計のトラウマ」竹田 紀子さんのエッセイ

初めて腕時計を買ってもらったのは中学生のときでした。
好奇心が人一倍強い私は、授業中に教科書を立てたその陰で腕時計の裏蓋を開け、コンパスの先で縮れた髪の毛のようなものを引っ張り出して眺めていましたが、元に戻せなくなって大慌て。

放課後、時計店に走って持っていくと
「これは髭ゼンマイと言って、時計の心臓のようなものなのに!」
と店主がひどくあきれていました。
それがトラウマとなって、大人になってからも腕時計のない生活をしていました。

実際、勤めていたころは定刻に家を出て定時に帰宅して…と
判で押したような生活だったため、特別に不便も感じませんでした。

ところが最近になって仕事をやめたとたんに、おかしなことに時計のない不便さを感じるようになりました。
出かけるのも帰るのも不定期になり、腕時計のない生活が不都合になったこのごろ、柔らかな曲線がとてもすてきな腕時計を夫がプレゼントしてくれました。

多感なころの腕時計のトラウマも今ではとても懐かしい青春の思い出になりました。
自分の腕に光る美しい時計を眺めていると生涯のお供としてずっと腕に飾っていたいと思っています。


「新しい時を刻む」黒澤 麻里子さんのエッセイ

東京タワーを左手にチラチラ見ながら、23歳の私は社用で道を急いでいた。
左腕には、就職祝いに従兄弟夫婦がくれた、お気に入りの時計。
暑い日だった。最後に一度だけ時刻を確認してから腕時計を外し、バッグのポケットにしまった・・・つもりだった。
あれから9年。今年、32歳にしてある試験を受けることになったが、受験生の必需品、腕時計を私は持っていなかった。東京タワーの麓で落としたあの時計が忘れられず、新しいものを買えずにいたのだ。9年間も。
受験当日、母に借りた時計を腕に着けるのが何となく嫌だった。時計の方も、私のために働くのは嫌だったらしく、なんと、会場に向かう道程で止まってしまった。
更に運の悪いことに、会場となった大学の講堂には時計がなかった。
アウト。
まったく今年はついてない。離婚に、受験失敗か、と内心大いにぼやいた。
予想通り、腹時計と標準時刻には誤差があり、結果は言うまでもない。
青山通りを帰路につきながら、不勉強を反省もせずに、時計を買おう、と考えていた。
夫は2年半で見切ったのに、9年も思いつづけたあの時計。たかが時計、されど時計、である。
秋、娘の2歳の誕生日プレゼントの買い物の折り、ついに新しい腕時計を買った。
真っ白い革のベルトに銀の金具、貝殻の文字盤が美しい。
もう一度新しい自分、新しい人生を始めたい。そんな思いが、この白い腕時計にはこめられている。
ママの手首に見馴れないものが付いている、としきりにいたずらしようとする娘を、私はそっと抱きしめた。
一緒に出発だよ、と。


「はじめて見た腕時計」矢崎 迪さんのエッセイ

家のすぐ西側に流れている小川で、顔を洗っていると、上流の洗い場に北隣の家の勉さんがいて、よっ、と片手を上げた。大学生である勉さんは、昨夜遅く東京から帰ってきたらしい。僕は手拭で顔を拭きながら、勉さんのいるほうへ進んで行った。
洗い場のすぐ近くにある梅の木の枝に、きらりと光る丸い物を発見した。
「これ、なんずらか?」
と僕が不審そうに眺めながら言うと、
「やあ、久しぶり。それ、時計だよ」
「時計?」
「腕時計だよ。付けて見るかい」
きょとんとしている僕の手をとって、時計を付けてくれた。
一瞬、手首に金属の冷たい感触が走った。
「時計といったって、振り子がないじゃん」
「うん、振り子は見えないけど、同じような働きをする部品が中に入っているんだよ」
僕は、時計を耳に当てた。コチ、コチという音が聞こえる。 
「小さな小さな振り子が、動いているんだ」
勉さんは、微笑みながら頷いた。
「あれ、これネジを捲く孔がないよー」
父が毎朝、柱時計のネジを捲くのを僕は見ている。
「うん、ネジはこれで捲くんだよ」
勉さんが指さした先には、ご飯粒の半分ぐらいの大きさのものがあった。父が使う蝶形のネジ捲きに較べてあまりにも小さかったから、僕はしきりに首を傾げた。

今から六十年も前、わたしが十歳の頃、のことである。父も勉さんも、もういない。
でも、ときおり、コチコチと、あの時の音が脳裏に響くことがある。 


「多機能腕時計で知ったこと」東元 正臣さんのエッセイ

海外旅行をするときに重宝な品物として、ネイチャートレッキング用の時計を手に入れた。2年前のことである。さっそく台湾旅行に連れて(持って)いった。カシオ製の多機能時計で、あまりにもその機能が多過ぎてもてあまし気味だが、地図を見るときのコンパス、高度計は役にたった。台湾島には背骨のような山脈が走り、台北から花連までかなりの高山を越えていく。途中でタロコ渓谷という絶景の自然を見ることができた。自然風景に植生などを観察するのに高度計をあわせてみると、高山茶など高級銘茶の産地の環境など色々なことが推測できる。温度計は身につけていることから、瞬時に気温が読めない欠点があっあが、高度計は1千メートルを越す峠と海崖にへばりつくように走る道路の昇降差を見ては台湾の地形の厳しさを知ることができた。
帰りの飛行機のなかで高度計を見つつ、テレビのナビゲータを見て面白いことに気づいた。飛行機は1万メートル以上の高さを飛んでいるが、時計の高度は2千数百メートルである。この気圧は富士山よりも低い山の高さだろう。それ以上低くすれば、息苦しくなるに違いない。ところでわたしたちの世代は世界で初めてのジェット旅客機として就航したコメットはよく墜落し、その原因は飛行機内外の気圧差で機体が収縮、膨張で金属疲労を起こすことによると聞いている。したがって「機内は減圧されているので、アルコールが回りやすい」ことを知っていたが、それは富士山以下であることを初めてこの時計で知ったのである。


「本当に欲しかったもの」金子 雅人さんのエッセイ

職場の飲み会で、隣の席の後輩が、ブライトリングの腕時計をはめていることに気がついた。実は、ぼくも以前から、いつかはブライトリングの腕時計を買おうと思っていたのだ。もちろん、高価なものに違いはないけど、クルマを買うつもりになれば買えないこともなかった。しかし、いざとなると、たかだか腕時計にそれほどの大金を注ぎ込むということがはばかられて、結局、国産のクオーツ時計で我慢してきた。
ぼくは、後輩に先を越された思いがした。聞けば、それは最近結婚した奥さんからの結納返しの品であるとのこと。幸せそうな後輩の様子を見ながら、そういえば、十年前の自分の結納の時には、妻の実家の風習か何かで、結納返しはなかったよなと思い出し、家に帰ってから、最近会話も途絶えがちになってきた妻にそのことを話すと、案の定、
「あら、そう」
と、妻は興味を示さなかった。
しかし、それから数週間が経ったある休日、突然妻が三越に行こうと言い出した。何やら今、ポイントが倍になるセールをやっているとかで、ぼくは三越の時計売り場で、なんと念願だったブライトリングの腕時計を買ってもらうことになったのだ。
翌日から、ぼくは毎日のようにブライトリングを腕にはめて仕事をした。もちろん長年憧れていたのだから、それなりにうれしいに決まっているのだけれど、しかし時々、ふと、自分は本当にこの腕時計が欲しかったんだろうかと思うことがあった。たしかに憧れていたものではあったけど、いざ自分のものにしてみると、想像していたほどの感慨は湧いて来ないのだった。
実家に行った際、たまたま遊びに来ていた姉にそのことを話すと、
「本当に欲しかったのって、腕時計じゃないんじゃない?」
と言われた。初めはどういう意味だかよくわからなかった。しかし、結婚十年目にして、「子はかすがい」という言葉の意味が身にしみて理解されるようになってきた我が家の夫婦関係を思い出し、(そうか、自分が欲しかったのは、モノじゃなかったのかも知れないな……)と、ぼくは気づいたのだった。
ぼくは帰りのクルマの中で、妻に何年振りかのクリスマスプレゼントでも買ってみようかなと考えていた。


「ヒヨちゃんと私」高橋 恵さんのエッセイ

ごん。

嫌な音で目が覚めた。
二段ベットの上から、床を見下ろすと、枕元にあったはずの卵型目覚まし時計『ヒヨちゃん』が、こてん、と横たわっていた。
レポート地獄明けの眠気も一気に吹きとんだ、大学三回生の夏。
学生寮の床は、コンクリートの上に薄い絨毯を敷いただけのお粗末なもので、そんなところに突き落とされたヒヨちゃんは、さぞかし痛かっただろう。 
縁が3ヶ所欠け、ひび割れは2ヶ所。電池を入れなおしたら、なんとか息は吹き返したけれど、もう二度とピヨピヨ鳴いてくれなくなった。
ヒヨちゃんは、叔母からの小学校入学祝。14年間、私を毎朝起こしてくれた、かけがえのない存在なのだ。白いちいさな体をゆっくり撫でて、ごめんねぇ、と呟いたら、じわりと涙が滲んだ。
「ヒヨちゃんが大破したあぁー……」
傍から見ればくだらないことだろうに、朝っぱらから半ベソの私を寮の仲間は、根気よく慰めてくれた。
あれから5年。
今もヒヨちゃんは、私の部屋にいる。置時計として、まだまだ現役でがんばってくれているのだ。
そして、ヒヨちゃんの代わって私を起こしてくれているのは、5年前のヒヨちゃんの事故の直後、寮の仲間が誕生日にプレゼントしてくれた『ヒヨちゃん2号』。
私の一日のはじまりは、今も昔も、ヒヨちゃんに支えられている。そう、きっとこれからも、ずっと。


「大好きな時間」岸本 梓さんのエッセイ

リビングの壁の上の方に、大きい時計が掛けられている。木製で、見た目だけはちょっと高そうな時計だった。秒針は機械的に「カチカチ」と音を立てて進むのではなく、すぅーっと動いてゆく。それがまた、幼い私には高級そうに見えて、密かな自慢であった。
四角い時計の文字盤には、ギリシア数字で一〜十二の数字が書かれていた。幼稚園にもまだ入っていない私には、当然この文字は読めなかった。だが、意味だけは知っていたのである。
私はある一定の時間が近づいてくると、じっと時計を見上げていた。短い針が「X」のところに、長い針が「X II」のところに来るのを待っていた。針に向かって「早く動け」と念じた回数は数え切れないほどだった。
ゆっくり動く秒針を眺めては、もっと速く、もっと速く進めと念じた。長針がこの秒針のように速く進んだらどんなによかったことか、とも思った。
時折、私の傍を母が通ってゆく。その度に私は、
「まだ? まだ?」
としつこく訊ねた。母はその度に、
「あの長い針が真上を指したらね。ぴったりになったら、だからね」
と答えた。
あと五分、三分、二分、一分……
長い針が真上の「X II」を指した途端、私は時計の前からぱっと離れた。庭で洗濯物を干している母の元へ駆け寄り、
「なったよー! おやつの時間になったよー!」
と言って、母に菓子をねだるのだった。
私の大好きだった「おやつの時間」を知らせていた時計は、今もリビングにある。
その時計を見ると、ふっとあの頃のことを思い出す。


「心・時計」マロンさんのエッセイ

初めての海外旅行はシンガポールの2泊3日。ツアーだったのでなかなか落ち着いて街をブラブラ・・とできる余裕もなく分刻みのスケジュールの中で一日ずつひたすら疲れが溜まるものでもあった。12月の日本から26度の夏場のお国に行くのでそれなりに身支度にも気を使った。空港に着いた途端に広がるモワァーっとした気持ち悪さ、額に今にも滴り落ちるような熱気、それはあの国の人間の活気のせいかもしれない。「時差ボケ」は海外旅行のフレーズだが経験したことのない人間にとっては想像の言葉である。私は夢の海外旅行に胸をふくらませつつ、この「時差ボケ」にも人知れず憧れを抱いていた。念願かなってのことだったがあいにくシンガポールは赤道(?)を超えることがないのでわずか1時間足らずの時差だという・・・。事実を知った上でもこの時間のズレには大変興味が湧く!このまま普通通りに生きてあと60年と3ヶ月と2日の3時間45分の生涯(当時22歳の日本人の平均寿命に換算)だとしたら私は幸運にも1時間も長く生きることができるチケットを手に入れたようでワクワクしてきた。きっと60年後の私の残されかかった遺族へささやかなプレゼントになるであろう。私はシンガポールで可愛い外国のキャラクターの腕時計を購入した。もちろん現地時間に合わせた。そろそろお昼でも・・と思う12時頃でも日本はまだ、お昼までラストスパートをかけている時刻であるはず。お先にランチを頂く気分は国(日本)に残してきた家族に申し訳ないの半分、優越感でいっぱいの妙に気分がいい。シンガポールに来て思ったことはありきたりだが日本人がいかにセカセカと生活をしている民族であることである。1分1秒疎かにしない日本人。私は沢山の人の道ゆく中で隣の人を追い抜かすクセがでなかった。ゆったりゆったりのペースにあっという間に染まる人間の柔軟性に国境も赤道もないなと思った。日本のキレイな街と言えば私は横浜の桜木町周辺を思い浮かべてしまうが、ゴミ一つ落ちていないクリーンな街並みは桜木町を連想させた。だからかもしれない、横浜育ちの私はまるで異国にきたと思えないほどしっくりと馴染め、大好きになった。シンガポールを立つとき空港での長いひとときの中でも私は時計を日本時間に直さなかった。まだまだ余韻に浸りたいと思う気持ちと時が1時間も簡単に進める怖さがあったからだ。シンガポールの夜の街が遠く小さくなっても私はネジを回さなかった。いよいよ雲に入りネオンが見えなくなり遥か遠くの国になってから時計を日本時間に直した。それから旅の余韻に浸ることもなく眠りこんだ。成田に着き、当然ながら時差ボケはなくあっけなく普段通りの生活に戻ってしまったが1時間の時差が心に穴をポッカリをあける。その穴は埋まらない。私はすぐシンガポール時間に直した。朝の忙しいときなど1時間プラスした計算を忘れ冷や汗をかいた日もあったが、それから約6日は日本にいながらシンガポールの人たちと時を共有している連帯感を感じた。日本に帰って私は「ああ、今ごろあのお店のあの子はきっと・・・」と思いしみじみするのがイヤだった。
生活に支障をきたすという必然的な理由でそれから日本時間に直すことになる。今はたまに思いついて遠い目で海を越えたあの国のことを回想するだけだ。たった1時間のズレでも異国は異国であった。なぜなら7時間もの間、たまに揺れる時にこの上ない恐怖に耐え、狭い機内の窮屈をも味わなければたどり着けない国は遠い幻の国にも感じられた。時間を飛び越えることはそう簡単なことではないと思った。日本時間に戻した時から私は時間に負けたのだ。たった60分も我慢できない時間の奴隷であった。誰しも本当の自分の時間はない。生まれた時から人は与えられた中で期限付きで生きなければならない、それを上手く使うのも自分次第、生かすも殺すも自分次第であるのだ。


「「4」と私」唐戸 健治さんのエッセイ

「偶然」が重なれば、それは「必然」になると思います・・・。

私がデジタル式の腕時計を見るとき、「4」という数字がちょくちょく目に飛び込んできます。
最初はマッタク気にしていなかったのですが、さすがにそれが2年くらい続くと、何か「縁」のようなモノを感じてしまいます。

別に「4」を見たからといって何かいいことがあったり、いやなことがあったりということはありません。しかし、今となっては「4」が入っていないときに見ると何か「違和感」があるのは事実です。他の人はマッタク気にしていないでしょうが、私自身がとても気にしているのでこればかりは仕方がありません。

ここで断っておきますが、私は別に狙って「4」を見ているわけではありません。それに、アナログ時計の場合にはマッタクこの法則は意味をなさなくなってしまいます。デジタル時計に限って、起こることなのです。

ここでちょっと、考察してみました。デジタル時計というのは、どこかしら「時を捨てている」イメージがあります。なぜならば、アナログ時計というのは、針が回っているだけでも地盤が消えることは無いのに、デジタルの場合はどんどん数字が移り変わっていきます。
それを私は「時を捨てている」ように思うのです。

そう考えると、この私が良く見る「4」はすなわち「死」をあらわしているのではないか?
デジタル時計が時を刻んでいくという作業は、それまでの数字を殺していく作業だという悲しみを、私に訴えかけているのではないか?
という結論に落ち着きました。

私のこの、屈折した空想癖も、ここまでくればある意味立派だとおもいます。
皆さんも、ふとデジタル時計を見てみてください。
何か、時計が訴えかけてくるかもしれませんよ・・・?


「欲しかった時計」原 真美さんのエッセイ

時計といえば思い出す。二つ年上の姉が持っていた目覚し時計にあこがれ、うらやましくて仕方がなかった幼い日のことを。
記憶をたどれば、おそらく姉が小学校の入学祝に「これでちゃんと起きなさいよ」と、買ってもらったのではないかと思われる。
こんなかわいい、きれいな時計は見たことがない、幼い私はそう思った。
文庫本を横にしたような大きさの四角い時計は文字板にディズニーの白雪姫のイラストが鮮やかに描かれていたが、一番素敵だったのは本体部分が透き通ったピンク色だったことだ。今ではよくみる「クリアカラー」だが当時はまだめずらしく、私は姉がまだ学校から帰っていない時に心ゆくまで時計を眺め、ピンク色に透けた向こう側でかちかちと動く金属の規則正しさと美しさにしばらく見とれた。
たまに姉が時計を貸してくれる時があって、そんな時私は布団の中でしばらく白雪姫とその回りで踊る7人の小人の絵を眺めていた。目覚まし時計をセットしただけで少し大人になったような、誇らしい気持ちがした。私とってその時計は自分の物ではないからこそ特別だったのかもしれない。
使い続けるうちにきっと壊れてしまったのだろう。気がついたら私と姉は別の部屋になり、それぞれの目覚まし時計を手に入れた。
シンプルなデザインの文字だけの時計に囲まれて生活している今、まるで宝物のように思ってあの時計を眺めていた自分を思い出す。
そして、あれほどの思いをこめられる時計にまだめぐりあえていないことを少しさびしく思う。


「初めてのプレゼント」関 圭子さんのエッセイ

私には大切にとってある壊れた腕時計があります。それは6歳の誕生日にプレゼントとして両親からもらったものです。
真っ赤な縁取りのウッドペッカーの大きな腕時計。おそらく結構な値段のしたものを私がねだったのでしょう。
とてもかわいい時計なのでほとんど使うこともなく、飾って見つめている日々が続いていました。
でも高校入学と同時に使うことになり、毎日のように私の左手首を飾るようになりました。
見るたびに嬉しくなる日々が続いていたのですが、ある日、ついうっかり地面に落としてしまったのです。
あわてて拾ったのですがもう後の祭り。小さな歯車のひとつが欠けてしまい、近所の時計屋さんに持って行ったのですが「修理できない」と言われてしまいました。でもあんまりかわいいので泣く泣くその時計は取っておくことにしたのです。
それから10年たち、時計を買ってくれた父は病気で他界してしまいました。その腕時計は父のしていた腕時計と一緒に、今でも私の手元にあります。
その時計を見るたびに父のことを思い出します。本当なら父に私の花嫁姿や子供達を見せてあげたかったです。


「母からの腕時計」川村 雅和さんのエッセイ

およそ40年前の話、私が中学2年生の時、全員の試験の結果が廊下にズラッと張り出され、いつも「ビリ」の方の成績だった私が、友達の自動(じどう)巻(ま)きの腕時計を見て、どうしようもなく欲しくなり、母に「母(かあ)ちゃん、全校で10番以内に入ったら腕時計を買(こ)うちなー」と約束を取り付けた。その当時農業と養鶏で一家6人の生計を立てていた我が家は貧乏のどん底であった。「多分そんなに成績も上がりゃーせんわい」と多分高をくくっていた母が、「そりゃー買(こ)うちゃるで」とウッカリ約束してくれた。努力の甲斐あって無事達成、もちろん父母も非常に喜んでくれものの、約束通り、なけなしの金を叩(はた)いて近くの行商のおじちゃんから、ちょっと怪しい金メッキで革ベルトの手巻き腕時計を買ってくれた。嬉しかった私は、時計がさりげなく見えるように、時々腕(うで)捲(まく)りしながら歩いた。これが災いの元、体育の時間に腕時計をしたままバレーボール、「トン」と簡単にボレーをした途端、「ガチャ」とガラスが外れ、時計の針が吹っ飛んだ。その場で拾うと格好(かっこう)悪(わる)いので体育の時間をやり過ごし、放課後、運動場にまっしぐらに探しに行ったが、余りにも小さな針は探せど探せど見つからず、こんな事言えなくて母にはしばらく黙っていた。ある日母が、勉強をしている私のそばに来て、銀縁で布ベルトの腕時計を机の上にそっと出してくれた。見るからに質流れの中古、「アー、母ちゃん、分かっちょったんかー」。素直でない年頃の私は「ありがとう」だけ言って腕に嵌(は)めた。この時母も言葉少なかった。この時計の布ベルトは古ぼけて汚かったが、買い換える金もなく努めて目立たないように嵌(は)めていた。これが鎖のベルトに替わったのはズーッと後の高校生になってからである。今でも、私の腕時計に籠(こ)められた母の愛を思い出す時、言葉少なく、しかもより多くの事を暖かく伝える事が普通に出来た良き時代が無性(むしょう)に懐かしくなる。


「古い時計」足立 勝美さんのエッセイ

いつからあったのか憶えていないが、すすけて黒くなった柱に古い時計がかかっていた。
元々時刻の数だけ時報を告げていたのだろうが、物心ついた頃には、何時でも一回ボーンと鳴るだけだった。
父はそれこそ一年365日一日も休まずに、毎日決まった時間にゼンマイを巻いていた。父は元々そういう人だった。決められたことを頑ななまでに、決められたとおりにやる性格だった。
子供の頃は、父がそうやってゼンマイを巻くのを見るのが好きだった。何か特別な儀式のような気がして、自分も早く父に代わって、ゼンマイを巻けるようになりたいと思った。
そんな思いも大人になるとどこかへ置き忘れて、父がゼンマイを巻いていることすら、いつしか気に留めなくなった。
父は晩年に倒れ床に伏せった。ゼンマイを巻かれなくなった時計は、ちゃんと意思表示をするかのように、時を告げなくなった。
私はその時になってようやく思い出した。父が欠かさずゼンマイを巻いていたこと。そんな父の姿を眺めていた子供の自分を。
けれど私はゼンマイを巻かなかった。時計も父が元気になって、また巻いてくれるのを待っているような気がした。
夏が過ぎ秋が行った。冬を越すこともなく、父は逝ってしまった。倒れてから二度とゼンマイを巻くことはなかった。
葬儀の日、私は菊の花に隠して、時計を棺に忍ばせた。
時計を外した柱は、まるでそこにまだあるかのように、白く型が残った。
初七日が過ぎた頃、私は何度もあのボーンという時計の音を聞いた。それは父からの合図のように、私にしか聞こえない音だった。


「刻一刻、時計さん告げる」丸岡 転助さんのエッセイ

腕を温めてくれている、その安心感。
さん≠テけで呼びたいくらい、その存在かちは大きい。

やせいの動物ではなく私も人間。
だから、人生というたった一度きりのビッグチャンスの中で、もっとも「時間」を大切にしています。そして、それを時計さんが教えてくれる。
なかには、時間に縛られている! なんて言う人もいますが、それは間違い。
私たちは刻一刻とジカンが進むことを意識しているからこそ、自分の成長を感じとれるのだし、クリスマスやお正月といった楽しい行事も迎え入れることができるのだと思います。

私にはすごく大切な時計があります。高価だったのか?
いいえ。宝くじの敗者復活(?)で当たった景品です。
けれどもそれは、私の高校入試に付き添ってくれた時計さんなのです。
だから、何年前になるのかしら……。今でも動いています。
私は、普通より三十分早めた時間を設定していますから、どこへいくにも時計は二つ。
今も私に正しい時間を伝えてくれるのは、高校入試のときに付き添ってくれたあの時計さんです。

これからもヨロシクねっ!


「父のプレゼント」竹内 ゆうじさんのエッセイ

思い出の時計

中学の時、大好きな同級生の女の子がいた。彼女はブラスバンド部でフルートを吹いていた。活発で大きな声で笑う子だったが、フルートを吹いている時は別人だった。今、思うと、そのギャップにひかれたんだろうと思う。
その子が受ける高校は、偶然、私の志望校でもあった。彼女は、
「教えてよ!」
とか言いながら、教科書を持ってくるのだが、私は、どぎまぎして、ぎこちない間柄になってしまった。彼女は、“なんかよくわからないけど、私のことをさけているんだ”と思ってしまったらしい。その反対なのに!私は悔しかったが、伝えるすべもなかった。
そんな私たちは同じ高校に受かった。父が私を居間に呼び笑顔で箱を渡してくれた。
「おめでとう。お祝いだ。あけてみろ。」
箱の中には、腕時計が入っていた。
「ありがとう。」
私はぼそっとつぶやいて部屋を出た。父はもっと喜んでほしかっただろう。でも私が欲しかったのはデジタルのやつなんだ。針のなんて…ださい。そう思った。
私は、時計をいつも反対の手で隠すようにしていた。彼女がそれに気がついて言った。
「どうして腕に手、あててんの?痛いの?」
「違うよ。」
「じゃあ見せてよ。」
そんなことをくりかえして時計を彼女に見られてしまった。ああ、バカにされる。そう思ったら彼女、
「かっこいいね。なんか、大人って感じ。」
私は天に昇る気持ちになった。うちに帰って、父に
「センスのいい時計だね。」
と言った。父は笑っていた。
彼女とは、大学が別になり告白もしないままさよならになったが、いまだに、
「かっこいいね。なんか大人って感じ。」
の一言に感謝している。


「懐中時計」ろうさん さんのエッセイ

マスターが人のよさそうな笑顔で、私達ふたりを見つめていた。
「春夏秋冬」、どこにでもある平凡な居酒屋バー。大学の4年間をここ、春夏秋冬で過ごしたといっても過言ではない、それくらい入り浸ったなじみの店だ。そこで、今夜私たち二人は大学卒業を祝うのだった。といっても、卒業するのは私であって彼ではない。彼は卒論が間に合わず留年してしまったのだ。何事も中途半端が嫌いで、手抜きをしない彼。留年といえば怠惰なイメージがつきまとうが、彼の場合は勤勉さゆえだった。彼は、大学で一番心を許した友人だった。私の濁ったこころをいつもふところ深く受けとめてくれた、そしてマスターも。
「なに、これ?」
私の手元に置かれた小さな箱。卒業祝いの時計だという。繊細なつくりが好みであることを充分知っているであろう彼のくれた時計はがっしりとした懐中時計だった。
彼は何もそのプレゼントについては語らなかった。そして充分過ぎるほどのあたたかさで、私の卒業を祝ってくれた。

あれから卒業して6年になる。彼は福祉の仕事につき、私は普通のOLになった。そして会社の机の引出しの中には、あの懐中時計が時を正確に刻んでいる。


「おそろいの時計」一姫さんのエッセイ

ある日、いつも気まぐれな彼がペアの時計を買ってきた。
別にその日は誕生日でもなければ
クリスマスでもない普通の日だった。
「二人でお揃いだよ。」と得意げに箱を開けて、
うれしそうに私にはめてくれた。

それは銀色でシンプルなデザインの時計だった。

仕事では二人がつきあっているのは内緒だったけど、
オフィスで彼の時計を見るたびに、
「二人はつきあってるよ」といってくれているようで
とてもうれしかった。

時が過ぎて、優しい彼にちらほら 
女性の影が見えかくれして、
とうとう二人は別れることになった。

時計はやがて、別々の時刻を刻みはじめた。

そして2年の月日は流れ、
彼は未だ一人らしいと噂で聞いていた。
今思えば突拍子のない彼は大好きだった。
私のやきもちやきの癖さえなければ、
きっと今でも笑っていたに違いない。

ある日、彼と会社の近くの居酒屋で偶然会った、
同僚とご機嫌で飲んでいるようだった。

ふと、目が合い挨拶すると、
その手にはあの日の腕時計があった。
「げんきそうだな。」と懐かしい声がやさしく聞こえた。
その時、なぜか時計から目が離せなかった。

それは、忘れかけていた何かを確実に呼び戻した。

なのに、私の時計はずっと前に止まってしまい、
鏡台の中で眠っている。

「明日、電池を入れにいこう。」彼の前につけていこう!!
そうすれば何かが動き出すかもしれない。
あの頃のように…


「時計を見ない時間」藤本 博美さんのエッセイ

私には、時計を見ない時間がある。その時間が始まると無我夢中になってしまい気づくと終わっているのだ。
それは、<フラメンコ>を踊る時間だ。3年程前から、念願叶って<フラメンコ>を習っている。フルタイムでの仕事と主婦でもあるから貴重な時間である。この時とばかりは、自分の肩にのっている仕事人、妻、嫁、娘という役割が取り払われる。全く<素>の私を鏡越しに追いかける。ひたすら、先生の動きをとらえ、一言一言に耳を傾ける。手拍子、足のリズム、手、足の動きに集中する。こんな集中し、緊張感のある時間が今の私を支えていると思う。電車に飛び乗る時間。時間に追われる仕事。慌しくかきこむ食事。あせって作る食事など時間に縛られ、時間、時計を気にしない時はない。
こんな私が唯一<フラメンコ>のレッスンだけは、時間を忘れる。時計も気にならない。あっという間に時間が過ぎる。
私が「本当の私」に戻れる貴重で贅沢な時間である。こんな時計を見ない<時間>をこれからも大事にしていきたいと思う。


(注)「思い出の時計エッセイ募集」に送っていただいたエッセイの著作権は、セイコーインスツルメンツ株式会社に帰属します。
   予めご了承下さい。